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砂詠 飛来

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第一章 夫婦

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   九、

 普段よりも早く起床し、与四郎は出掛けて行った。

 外はまだ薄暗い。

 与四郎の閉めた戸口の音で、お沙は眼が覚めた。

 主の居ない、れた布団がお沙の隣にあった。

 *****

 与四郎は髪結い床の戸を叩いた。

 夜が明ける前である。営業はまだ始まっていない。

「おい、居るかい。良吉りょうきち、良吉」

 与四郎は幼馴染みの名を呼んだ。

 家の中から、眠そうな声の返事が聞こえた。

 ほどなくして、良吉が戸を開けた。

「なんだ、与四郎か。どうした、こんな朝早くに」

 寝惚け眼で与四郎を見る。

「起こしちまって悪いな。ちょっと野暮用があってね」

「野暮用?」

「すまないが、髪をすこしばかり分けてくれないか」

 いきなり言った。

 唐突すぎて、良吉はまばたきを多くした。

「お前さん、突然なにを言い出すんだ」

「髪が欲しいんだ」

「どうして」

「野暮用でね」

「いや、髪ならいくらでもくれてやるさ。好きなだけ持ってゆくがいい。だが、いまは無いぞ。昨日切った分は捨てちまったよ」

「そうか――」

「今日の分が出れば、それをやるよ」

 良吉の眼はすっかり覚めていた。

「すまないな。じゃあ、今日はお前の仕事を手伝ってやろう」

「おれの仕事?」

「あぁ。ただもらうだけじゃ、気が済まねぇ」

「そうか」

 ここで、良吉はふっと頬を緩めた。

 それを見た与四郎は、

「どうした?」

「いやね、こんな朝早く来て戸を開けろと騒ぐもんだから、一体なにごとかと思えば、髪を分けてくれと言う。可笑しくってね」

「急用だと思ったかい?」

「あぁ」

「それにしては、随分と眠そうに出て来たじゃねぇか」

「まぁまぁ、寝惚けてたのさ」

 言って、良吉は笑った。

「――急用、ねぇ」

 与四郎はぽつりと呟いた。

「ん?」

「いや、なんでもない。で、なにからやればいい?」

「仕事を始めるにはちょっと時間が早い。与四郎、なんだってこんな朝早くに来たんだ?」

「居ても立っても居られなくてね」

「やっぱり急ぎなのか?」

「えぇと――」

 言葉を選び始めた与四郎を見て、良吉は付け加えた。

「無理に言うことはないさ」

「あ、あぁ」

「とりあえず、家にあがれよ。与四郎、飯は食ったのか?」

「いや、食わずに来た。朝起きてすぐに来たんだ」

「それじゃあ嫁さんに悪いだろう。うちにあがらずに一旦、家に帰って出直してこい」

「そうか?」

「あぁ、そうしろ」

 良吉は思い出したように欠伸をした。

 陽が昇り始めた江戸の町を、与四郎が歩いている。

 お沙のいる家へ向かっている。

 昨晩、ひとの髪で筆をつくることを思い立ってから、ろくに眠れなかった。

 すぐにでも実行してみたいと思った。

 この思いつきがうまい方向に進めば、吉井が死んでしまったいまでも、なんとかやってゆける。

 だが、もし駄目だったら――

「とにかく、いまはやってみるしかない」

 与四郎は自分に言い聴かせるように呟いた。

 並ぶ家々からは、朝飯の良い匂いが漂ってくる。

 その匂いにつられたのか、与四郎の腹が鳴った。

 江戸の町に、朝が訪れていた。

 *****

 与四郎が帰ると、お沙が朝飯の支度をしていた。

「おかえりなさい。こんなに朝早く、どこへお出かけになっていたのですか」

「髪結い床ヘな。良吉のところだよ」

「あぁ、やはり良吉さんのところでしたか」

 お沙も、良吉のことは知っている。

「話をつけてきた。切った髪を分けてくれるそうだ」

「そうですか。――与四郎さん、本当に髪でつくるおつもりですか」

 碗に飯をよそいながら、お沙は訊いた。

「動物の毛でつくれるのなら、ひとの毛でもつくれそうではないか」

「ひとの毛なんて、あまり良い気はしませんが――」

「手段を選んでいる場合ではないよ、お沙。やれることから手をつけていかないとだ」

「えぇ――」

「安心しろ、お沙の髪をもらおうなんて思っちゃいないよ」

「―――」

「おれは、飯を食べたら良吉のところへ手伝いにゆく。そうだお沙、忍はどうだった? 昨夜、訊きそびれてしまった」

 与四郎の言葉に、お沙の手が止まる。

 脳裏に、忍の見開かれた眼が浮かぶ。

「お沙?」

「あの、えっと‥‥変わらずでしたよ、忍さん。動きまわることはできなくても、起きあがってご飯を食べるくらいならできると思います」

 忍との間に起きたことは言わなかった。

 吉井が亡くなり、忍は気を病んでしまっているからだと、お沙は思った。

「そうか。吉井のあとを追って命を絶たれても困るからな。お沙、もうしばらく忍の面倒を見てやってくれ」

「――判りました」

 信頼の眼差しを向けてくれる夫に、お沙は繕って微笑んだ。



    十、

 与四郎は、昼間の空いている時間に髪結い床を手伝い、その日に出た髪をもらうことになった。

 初日にもらった髪で、さっそく筆をつくってみた。

 まずは、若い男の髪。

 力強く、丈夫ではあるが、硬くて墨が馴染まない。

 年老いた男の髪は、硬さは相変わらずだが、力強さもない。穂先もまとまらない。

 ――男の髪は合わないことが判った。

 硬くて丈夫だが、墨と馴染まず、筆運びもなめらかではない。

 それに、穂に艶が無く、見栄えが悪い。

「男の髪ではだめだったよ」

 出来あがった二本の筆を握りしめて与四郎は言った。

 夜の居間である。

 与四郎の向かいでは、お沙が針仕事をしている。

 与四郎が良吉の店に手伝いに行ってから、数日が経っている。

「男ではだめだ。男の毛にはやわらかさが無い。男ではだめだ――」

 与四郎はこればかりをくり返していた。

 行燈の火が揺れる。

 与四郎とお沙の影が揺れる。

「やはり、女の髪か――」

 ぼんやりと妻の髪を眺めながら言った。

「わたしの髪を使いますか」

 ふふ、と冗談を含めて言った。

「いや――いや、ならん。お沙の髪はならん」

 まっすぐ妻の眼を見つめる。

「いやだ与四郎さん、冗談ですよ」

「あ、あぁ。判っているさ、お沙」

「髪結い床で女の髪を入手するのは、なかなか大変でしょう」

「そこなのだ。男の髪ではだめだと判り、やはり女の髪で、と思ったが――」

「筆をつくるので髪をください、と言って、くれるでしょうか」

「気味が悪いよなぁ。良吉には、人の髪で筆をつくるとは言っていないが、恐らく感づいているだろう」

 与四郎は筆を見つめながら言った。

「髪結い床で無理だとなると――」

「どうなさるのですか」

「吉原か――」

「吉原? 確かに遊女たちは自分では髪を結わないと聞きますが‥‥」

「ただ、遊女たちの髪をどうやって手に入れるのかが問題だ。客としてゆくのにも金がかかる」

「そうですよね」

 いつのまにか針をつまむ手が止まっていた。

 夫婦で黙って考え込む。

「しかたない」

 与四郎が言った。

「しばらくは良吉の店でなんとかしてみるさ」

「――えぇ」

 与四郎は立ちあがって居間を出た。

 行燈の火が揺れた。
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