ヌウ

painy rain

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第3章

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釜の前で火加減を見ていると、女中が呼びにきた。
「ヌウさん。旦那様がよんでるよ」
「へぇ…若旦那が。なんのようじゃろ」
「さぁ。急いで呼んでくるようにって言われたんだけど」
「へぇぇい」
気のない返事をするとヌウは大義そうに腰を上げ、体に付いた煤をはらった。
ヌウは旅館の旦那様を若旦那と呼んでいる。若旦那といっても、もう70を越した老人であったが、若旦那がこの世に生まれたときから知っている。ヌウにすれば、旦那は初代の旦那以外は、すべて若旦那だ。
若旦那は、年齢の割には肌つやがよく、いつのまにか真っ白になった髪を、綺麗にオールバックにしていた。
若旦那はヌウの顔をみると嬉しそうに笑った。
「実はねヌウさん。先日ヌウさんにビールを薦めてくれた若杉先生、覚えてるかい?」
ヌウは考えた。初めてビールを飲んだとき、旨かった。それしか思い浮かばなかった。
「若杉はしらね。先生は食ったことがねえ。ビールは旨かった。です」
ヌウは、若旦那と話すときには口の聞き方を気をつけてはいるが、ときどき言葉遣いが乱暴になる。先々の女将さんはしつけに厳しく、ずっと昔から旅館にいるヌウにも遠慮なく厳しくした。ヌウはずいぶんと口の利き方、振る舞いなどを注意された。ヌウにはその女将さんの顔を思い出すたび、般若のように目を吊り上げた顔しか思い出せなかった。それ以来ヌウは小さくなりながら、言葉使いに気をつけている。
「ヌウさん、いいよ。普通で。私とヌウさんの間じゃないか。」
 若旦那は優しく笑った。若旦那は小さいころからヌウが大好きだった。いつもヌウの後ろをついて離れなかった。どんなにぐずったときも、ヌウが抱っこをすると泣き止み、ヌウはそんな若旦那を見ては、たのみを思い出して、よく肩車をしたものだった。
 若旦那はヌウと二人っきりのときは、子供の頃のように接した。ときおり、「ヌウおじちゃん」と呼んでみたりもした。そのたび、ヌウはお腹のあたりが、こそばくなるのだった。
「それと、先生は食い物じゃないよ。呼び名だよ。若杉正一先生。偉い政治家の先生なんだよ」
「へぇ。政治家?」
「うーん。昔でいうなら、お役人さま、お代官様みたいなもんだよ」
「お役人さまかぁ。おらには関係ねえ」
「そうだね。ヌウさんには関係ないよね。うーん。困ったね」
「困った?」
「うん。実はね、若杉先生が、ヌウさんにまた会いたいとおっしゃるんだよ」
「へぇ。おらにか?ものずきだね」
「そうだね。変わった人だよ。どうする?」
 ヌウは考えてみた、が、若杉の顔はどうしても思い出せなかった。が、冷たいビールの味は思い出した。 
「また、冷たいビールのめるのか?」
「さぁ、どうだろうね」
「ふーん。会ってもええど」
「そうかい。ありがとう。」
 そういいながら、若旦那はちょっと影のある表情をした。しばらくヌウの顔を見つめてぽつりと言った。
「ヌウさんこれだけは忘れないでおくれ。何を言われても政治家の先生は信じちゃいけないよ」
 ヌウは不思議そうな顔をした。若旦那はすっと立ち上がるとヌウをつれて若杉先生の待つ客間へと向かった。
 ヌウと若旦那が部屋に入ると、若杉先生はうれしそう手招きをし、ヌウの好きなビールを薦めてくれた。一応ヌウは、客の前では恐縮して、大きな身体を縮めてはいるが、若旦那に即されて冷たいビールを一気に飲み干した。家には冷蔵庫がなく生ぬるいビールばかり飲んでいた。冷たいビールはやっぱり旨い。
「おお、いい呑みっぷりだね」
 と若杉先生は言った。若旦那はいつもの、やわらかい笑みを浮かべていたが、その実なにかを心配しているようでもあった。若旦那はいつも感情を消した笑みを絶やさない人だが、ヌウには生まれたときから見知っているからか、その笑顔に隠された心配事がなんだか気になった。
「ヌウさん、あんた人間にならないかね。」
 唐突に、なんの脈絡もなく若杉が言った。ヌウはびっくりし、旦那をみた。旦那もヌウをみていた。二人は見詰め合ったまま、同時に言った。
「どうやって?」
「そんな方法があるんですか?」
「うん。あるんだよ。私はヌウさんを見てから、いろいろ考え、調べたんだ。ヌウさんを人間にする方法をね」
若杉は軽くウインクした。若旦那が、つっと前に乗り出して聞いた。
「どんな方法ですか?いくらくらいかかるんでしょうか?」
「いてぇのか?」
「いやいや、痛くはないし、お金もかからない。手術や体を改造するんじゃないよ。」
 そう言って若杉は笑った。若旦那ががっかりした顔をして、小さくため息をついた。若旦那のため息は若杉には聴こえないようだった。
「ヌウさんは、妖怪だから、戸籍がない。戸籍ができれば人間としてやっていける。それにヌウさんの中間たちも人間になったらいい」
「人間になったらなんかいいことあるんか?」
 ヌウは若旦那にきいた。若旦那が答えるより先に、若杉が言った。
「人間になると、人間の世界でいろいろないいことがある。仕事も今よりずっと良い仕事につけるし、あ、失礼。今の仕事が悪いとは言ってないが、もう少し収入も増えるし、今よりずっと良い暮らしができる。奥さんにだって、着物の一枚も買ってやれるだろう。それに、人間の仲間になることで、電車にも乗れるし、映画館にもいけるぞ。」
 ヌウは人間と一緒に、背広を着て電車に乗ったところを想像した。
窮屈そうだ。
映画は、先代の時に一度見に行ったが、凶悪な顔をした山のように大きな怪物がでてきて、口から火を吐き、雄叫びをあげながら町を壊すのをみて、思わず座席を床から剥いで、怪物に投げつけた。スクリーンは破け、映画館は大騒ぎになった。
映画館の人にこっぴどく怒られ、先代の若旦那が一生懸命謝ってくれたのを思い出した。帰り道、涙を浮かべてしょんぼり歩くヌウに、先代の若旦那が言った。
「ヌウさんは、私を守ろうとしたんだよね。ありがとう」ヌウは、若旦那がヌウの気持ちをわかっていてくれることにうれしかった。嬉しくて涙が、またでてきた。
ふと、昔のことを思い出しながら、あのころはまだ今の若旦那は生まれてなかったなと思い出した。不思議なことに一つ思い出を思い出すと、先代の旦那や、若旦那のことをあれこれ思い出し、ヌウはボーっと自分の心の中の思い出と向き合ってしまった。
黙りこくって、首にかけたタオルのはじをにぎったり、つまんだりしているヌウに、若杉先生が言った。
「どうだい。ヌウさん。人間の暮らしもいいもんだろう?」
 ヌウは、若杉先生の言葉に、ついっと顔をあげ小さな目をぱちぱちさせた。ヌウは、もじもじしながら
「今の暮らしで別にこまってない。です」と言った。
「今でも、若旦那のとこで好きに暮らさせてもらってます。」
「ヌウさんだって、欲しいものとかあるだろう」
 ヌウは考えた。そうだ仕事が終わって家に帰ったら、冷たいビールが飲めると嬉しい。と考えた。
「冷たいビール」ぽつりとつぶやいた。
「おお、冷たいビールか。ヌウさんの家には冷蔵庫はあるのかい?冷蔵庫があれば、いつでも冷たいビールを沢山飲めるし、人間になって、収入も増えれば冷蔵庫一杯にビールを詰め込むこともできるぞ」
若杉先生は楽しそうに、膝をぱちっと打って笑った。
「ね。ヌウさん。戸籍があれば、妖怪でも人間と同等に扱われるし、今のような暮らしでなく、もっと給金を一杯もらえる仕事にもつける。冷蔵庫を買って、冷たいビールだってのめる。外国へ旅行に行って珍しい物だって見たり聞いたりできる。どうだい。夢のようだろう。」
「ガイコツ?あれは、くったけど、味気なかった。」
「いや、骸骨じゃなくて、外国。が・い・こ・く」慌てて訂正したのは、若旦那だった。
「外国?それ、旨いのか?」
「いやいや、外国っては…」
若杉先生は、若旦那を見た。
若旦那は苦笑した。
「とにかく、人間になれるんだ。ヌウさんにとって損はない話だ」
若杉先生は、軽く咳払いをした。
ヌウには、若杉先生の言う損が、なんなのかよくわからなかった。今の暮らしには、なんの不自由も不便も、不満すら感じていなかった。嫁のつくる料理は、ヌウの好物ばかりだし、ちょっと温いビールもそれはそれで旨かった。嫁も口ではあれこれ言ってはいるが、別段今の暮らしに不満があるわけでもなかった。ただ…とヌウは、またぞろ心の中を散歩する。たのみの暖かく、やわらかい手を思い出していた。
もう一度。
と。
もう一度、あの手と繋ぎ合えるなら。
ヌウは、漫然と自分の手を見た。
「どうだ、人間になって、今までできなかったことをやってみないか?」
若杉先生は、身体を乗り出して、ヌウに聞いた。すっと、若旦那の手が、ヌウの手に重なった。まるでたのみがしたように…。
「若杉先生、ヌウさんも急に人間といわれて、戸惑ってます。少し考える時間をいただけたらと思うんですが…よろしいでしょうか。」
じっと、若杉先生を見つめる若旦那の目は、ヌウを守ろうとする強い意志が感じられた。若杉先生は、ああそうだね、と曖昧に返事をしながら、煮物を一つ口に運んだ。
(この若旦那がいなければ、ヌウを思い通りにできるのに)若杉は先生は心の中でイライラとした。

若杉先生の中には焦りがあった。
最近どうも風向きが悪い。1年後に控えた選挙で苦戦しそうな気配が日に日に濃くなってくる。なんとか票を集めないと…そんなとき、ヌウを知った。ヌウが妖怪の女らしいものと歩いていた。すれ違う妖怪達がペコペコとヌウに頭を下げているのをみて、若杉はヌウに眼をつけた。
ヌウの仲間の妖怪たちは、人間ほどの数はいないが、それでもそこそこの数がいた。妖怪が人間と同等になれば、当然選挙権も得ることになる。将来のことはその時考える。今は、妖怪の数の票を手中に収めたい。
今、やっとヌウと話ができるのだ。この機会を逃すわけにはいかなかった。
若杉先生は、若旦那や、ヌウにビールを勧めながら、政治のことや人間にればどんな得があるか、良いことがあるかを話し続けた。


気が付くと、ヌウは大の字で眠っていた。 
腹の上に、薄い布団がかけられていた。
起き上がって周りをみると、部屋はうすぐらく、若杉先生も若旦那もいなかった。ぼんやりしていると女中が顔をだした。
「あ、ヌウさんおきたの?」
「おら…」
「あんた、ビール飲みすぎて寝ちまったのよ。若旦那がそっとしておきないさいっていうから、そのまま寝かしといたんだけど」
「そうけ」
「若杉先生の長い演説、退屈だったんでしょ。」
「うーん。よく覚えてねえ」
「若杉先生、ヌウさんのお友達を紹介してもらえるって、よろこんでいたわよ。」
「おらの、友達?」
「ええ、ヌウさん、ビールですっかり良い気分になって、そう言ってたって」
「おらが?おらの友達。友達…友達…」
ヌウは頭をひねって、女中に聞いた。
「おらの友達って、だれのことだ?」
「いやぁねぇ。私が知るわけないじゃない」
「ほーん。」
「ほーんって。やだねぇ。心当たりないの?」
「そだね」
「そだねって」
女中は可笑しそうに笑った。ヌウは頭をひねった。
俺に友達なんかいたっけか?
こりゃ、家に帰って嫁に聞くしかなさそうだ。
ヌウは急いで家に帰った。
家では、嫁がいつもの通り「おかえり」といい、にっと笑う。そしてヌウは、また冷や汗をかく。
嫁に、若杉先生の話をした。
「人間にねぇ・・・それって、なにかいいことなのかい?」
「いや、わかんね」
「あたしら、病気もしないし、怪我だって、ほっときゃ勝手になおるし、食べることといってもそれほど困ってないし。はて、なんかいいことあるのかね」
「冷蔵庫があれば冷たいビールがのめるって」
「ビール、ビールって、それだけじゃないかい」
「そうだよなぁ…」
「着物くらい買えるのかね」
「さぁ?」
「じゃ、やだ」
ぷいと横を向く、嫁の顔をみて、ヌウはもう一つ大事なことを思い出した。
「そうだ。忘れてた。おれの友達って誰だ?」
「友達?」
「うん。おらが、若杉の旦那に友達を紹介するっていったそうだ」
「いったそうだって、なんか可笑しくないか?」
「うーん。俺、覚えてないんだ。ビールで酔っ払っちまってて。」
「情けないねぇ。まったく…あんたの友達ね」
友達、ともだちと、嫁は天井を睨みつけながらつぶやいてた。
「…あっ!」
「なに」
「あいつけ?」
「あいつ?」
「そ、あいつよ、あいつ」
「どいつだ?」
「だから、アレだって、ほら、こうもじゃ、もじゃしてて、ぽこぽこしてて…」
嫁は、身振り手振りで説明するが、さっぱりわからない。すると、嫁は
「あ~、じれったい。これだよこれ。」と言って、
自分の顔を、小麦をこねるようにこね始めた。
こね、こね、こね
こね、こね、こね、びよん~よん
みるみる嫁の顔が変わって、狸の顔になった。
「あ、化け狸!」
「そうそう、それ」
狸顔をした、嫁が笑った。笑うと、狸の口が裂けてするどい歯が見えた。ヌウの背中をぞくぞくと冷たいものが駆け上がる。
「そっか、化け狸なら、人里で商売やって、儲けてるっていってたから、いろいろ判るかもしんねぇ」
「ちょっくら呼んでみるか?」
嫁が、不思議な音をだすと、どっからか一匹のねずみが現れて、嫁となにかぼそぼそ話すと、走り去った。
それから二日後、化け狸がやってきた。
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