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悪魔に捧げた初恋
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美しい人だった。
まるで絵画から抜け出たようなその美しさに私はほぅ、と息を吐いた。
私の一目惚れだった。
父に紹介された男性はにこやかに微笑んで、私へと手を差し伸べる。
初めての熱に浮かれる私は頬を染めながら彼の手を取った。
「初めまして、カトレア様。フィニ・マッケンラーと申します」
美しい男性は声も素敵だった。
フィニ様は優しかった。
時折見せる悲しげな表情が気になったけれど、私はそれを勘違いだと決めつけ無邪気に彼を連れ回す。
最初は庭を二人で見て回るだけだった。それがどんどんと頻度が増えて行って、初めてフィニ様と遠出をした場所は領地にある泉。
その泉は悲しいことがあったときや辛いことがあったときに来ていた、私の特別な場所だった。
だから心が癒されるその場所を一番に案内した。
「美しい場所ですね」
「ええ。私の特別な場所なの」
泉を見て、その美しさに感嘆の息を吐いたフィニ様に嬉しくなって、私は胸を逸らして満足気に頷く。
そんな私を見て、フィニ様は少し驚いたように目を見張って、それからくすりと微笑んでくださった。
嬉しかった。
優しい彼の笑顔は私が作り出したもの。私だけのフィニ様。
私は浮かれていた。
フィニ様はとある子爵家の養子だった。彼がどうやって養子に入ったのかはわからない。
彼が養子に入った子爵家は当時最も勢いのある家で、フィニ様と私の婚姻は家と家を結び付けるためのものだと聞いていた。
私は彼に恋をした。
だから結婚が嬉しかった。
箱入り娘だった私は事実に歓喜した。
フィニ様は何度か私とデートをすると、あらためて婚姻を申し込んでくれた。
街の噴水広場の前で、彼はその場に跪きながら指輪を差し出した。
「私の妻になってください」
愛してるの言葉がなくても、その懇願が私はとても嬉しかった。
今ではもう感じることのできない、天にも昇る心地。
泣きたいくらいに嬉しくて、泣きたいくらいに幸せで、私は彼の手を取って微笑んだ。
「はい、喜んで」
そう答えた私に見せる彼の笑み。
あの安堵の表情は私が駒として期待通りの動きを見せたから浮かべたのであって、決して喜びからじゃない。
けれど私はそれが喜びの証だと思ってしまった。
所詮私は彼の復讐の駒だったのに。
婚約してからも彼と色々なところに出掛けた。
フィニ様との外出はとても楽しくて、幸せだった。
世界がいつもキラキラと輝いて見えた。実際、キラキラと輝いていた。私の見る世界は美しかった。
「フィニ様、知ってらっしゃいますか? お城にね、とても綺麗な庭園があるんですって」
「へぇ。そうなんだ。私は城にまだ行ったことないから知らなかったよ」
フィニ様はたくさんのことを知っていたけれど、たまに知らないこともあった。
私は彼の知らないことを私が教えて上げられるのが嬉しくて、知らないという彼の言葉に思わず笑顔になる。
「あのね、王太子妃が庭園のお散歩が好きなんですって。今度私たちも自由に行けるようになるそうなんです。いっぱんこうかい? をなさるってお友達が教えてくださりました」
「そうなんだ。カトレアも行ってみたいかい?」
「フィニ様となら! ……あ、でも商会が忙しいのでしたら無理をなさらないでください。私、我慢できるのですよ」
フィニ様は忙しい。こうして私との時間を設けてくださるけど、それがどれだけ大変なことか私は知っていた。
最近は特にそう。
普段だったら言ってしまうわがままも今日は言わない。
フィニ様のお顔は明らかに疲れていた。
フィニ様は優しく微笑んで、私の長い髪を撫でる。
「カトレアは……優しい子だ」
含まれた言葉には気付かず、私は頬を染めながら微笑んだ。
幸せな日々だった。
何も知らないことは私に平穏と幸福を運んでくれた。
結婚式の日は雨がシトシトと降っていた。
雲ひとつないのに、雨だけが降っている不思議な天気。
まるで雨も私たちを祝福してくださっているようだと無邪気に喜んだ。
私が喜べば周りも思うところはあろうとも喜んだ。
私は白いウエディングドレスを着て、彼は黒い軍服を着ていた。私はこの日初めて、彼が軍にも所属していたことを知った。
まるで喪に服すような黒い軍服は少し不満だったけれど、彼にはよく似合っていたし、彼はそれ以外の服を着ることを頑なに拒んだ。
普段私のワガママに合わせてくれるフィニ様がそれだけは嫌だと拒んだから、私は不満でも大人しくその軍服を受け入れた。
「カトレア・リングールは健やかなるときも病めるときもフィニ・リングールを永遠に愛し、喜びも悲しみも分かち合うことを誓いますか?」
「はい、誓います」
「フィニ・リングールは健やかなるときも病めるときもカトレア・リングールを永遠に愛し、喜びも悲しみも分かち合うことを誓いますか?」
「……はい」
「では、ここに汝らの婚姻を見届ける。誓いのキスを」
初めてのキスだった。
ふわり、とまさに天にも昇る心地だった。
世界で一番幸せなときはたった数ヶ月で終わりを告げた。
数ヶ月と言っても、結婚してからさらに忙しくなったフィニ様と一緒にいられたのは合わせても一ヶ月くらい。
フィニ様はほとんどの時間を仕事に費やしていた。
それでも幸せだった。
彼が帰ってきて、一番に「お帰りなさい」と抱きつく。ふわりと香るフィニ様の優しい匂い。彼は私を抱き締め返して「ただいま」と微笑んでくれる。
それだけで私は満足で幸せだった。
家に帰ってきて夜眠るときはいつも一緒。
フィニ様は私を抱き締めて、寝台の上で横になる。
無知な私はそれが子を作る方法だと思い込んでいた。
初夜も同じ。キスをして、一つの寝台でただ一緒に眠る。心臓は張り裂けそうなほどドキドキした。
フィニ様と私は肌を重ねたことなどなかった。
終わりを告げたのは私のせい。
フィニ様がいない寂しさからフィニ様の執務室兼私室に入り込んで、それを見つけてしまった。
書類の意味さえわからない無知な私であったらよかったのに、私は知っていた。
それには脱税、人身売買、武器の密売、様々な悪事が父の手によってされていることが表されていた。
「そんな、うそ」
信じられなくてその場に座り込む。嘘、と思いたかったけど、書類たちが表すのはまぎれもない真実。
重ねられた書類にはすべて悪事が書かれていて、バクバクと心臓が激しく痛む。
だけど私を絶望に落とすものはまだあった。
「この、手紙は……」
書類の下に隠すようにしてあった何枚かの手紙。
(見ちゃいけない。見ちゃダメよ)
そう思うのに自然と手は伸びて、その手紙を手に取る。
裏に書かれた名前に目を見開いて、そこからは夢中だった。その手紙が絶望を生むものだとしても、見て見ぬ振りなどできずに私はすべての手紙を読んだ。
『あなたを信じてる。いつか私に誓ってくれたあなたの愛を。私を想っての冷たい言葉だと知ってる。
あなたはとても優しいから、家族のために恨みを忘れられない。リングール家に復讐を、せずにはいられない。
あなたを止められないことが悔しい。
ずっとあなたが好きよ、フィニ。世界で一番あなたが好き。
もうきっとあなたは私を抱き締めてはくれない。
だけど、いつか。いつか、あなたがあの男に復讐を果たしたとき、私の元に戻ってきてくれると信じてる。
フィニの復讐を手伝いたい。だけどきっとあなたはそれを止めるわね。
ねぇ、好きよ、愛してる。永遠にあなたへの愛を誓うわ。
あなたのクリシュナより』
涙は流れなかった。
まるで感情が失われたようだった。
部屋に戻って、誰も入れずに一人でベッドの上に横たわった。知ってしまった真実に身体が震え、自分の身体を抱いて小さく丸くなった。
手紙にあったあの男とはきっと父のこと。父が彼になにをしたのかはわからない。でも、きっと彼の家族にとても許されないことをしたんだと思う。
これから自分がどうするのか考えて、考えて、私は彼を見捨てることなどできないと思った。
そしたら、もう私がすることは決まってた。
父も母も家族の全てを捨てて、私はフィニ様に捧げる。
たとえ、フィニ様に他に愛してる人がいようとも。
手紙の相手は私の知ってる名前だった。
最近メイドとして我が家に雇われた綺麗な顔をした女性。
そういえば、と思い出す。
はじめて彼女が挨拶した時のフィニ様はどこか様子がおかしかった。
どうして気づかなかったんだろう。
フィニ様は一度も私に愛してるなんて言ったことない。
結婚を申し込まれたときだって、愛していると言われたことはない。
それはそうだ。だって彼の心には本当に愛する人がいるのだから。
コンコンと控えめなノックが部屋に響いた。
「奥様、いかがされました?」
そのあとに続いた声に今まで感じたことのない暗くて薄暗い深い闇のような感情が湧き上がってきた。
「入ってこないで! 下がりなさい! 誰もこの部屋に入ることは許さないわッ」
その感情のままに叫んだ。はじめて、金切り声をあげた。
そのときになってはじめて涙が溢れてきて、脳が激しく揺さぶられて、自分で自分を制御できなくなった。
刺繍に使っていたハサミを掴んで、感情のまま枕を引き裂いた。
鳥の羽根が部屋中に舞う。ベッドを切り裂いて、壁も引き裂いて、カーテンを破いて、棚に置かれていた調度品を壊して、狂ったように暴れた。
調度品を叩き割ったところで音が激しくなって、護衛たちが中に入って私を止めた。
最後に見えたのはあの女。
苦しくて、苦しくて、……憎くて。
憎しみや恨み、そんな暗い感情が私の中にあることをはじめて知った。
なにを憎んでいいのかわからなくて、だけどなにもかもが憎くて仕方なかった。
彼に復讐を決意させるほどのことをしたお父様も、彼に唯一愛されてるあの女も、私を愛してくれない彼も憎い。
だけど。
お父様は私にとても優しいの。彼女は愛する彼に引き離されてとても可哀想。愛してくれなくても、彼はとても優しいし、私は彼を愛してる。
矛盾した気持ちが私の心を押しつぶしてく。
私を殺していく。
感情の波が私を麻痺させた。
彼を愛する人がそばにいて、彼が愛する人がそばにいるこの状態が私をなんでもする悪魔にさせた。
彼のためになんでもしないと捨てられちゃうから。
彼に捨てられたくない。いつか愛してるって、言ってほしい。
私の願いはそれだけ。
嘘でもいいの。
優しく笑って「愛してる」、って。
そう言ってもらえるならなんでもすると決めた。
人を騙すことも人を虫けらのように見ることも、人を、殺すことだって。
あの女がお父様に連れていかれた。
それが復讐の合図だった。
私のせいだった。
私に会いにきたお父様がそばにいた見目麗しいメイドに目をつけた。
わざとなの。あのメイドがお父様に連れていかれてしまえばいいと思ったから、お父様と会うときに連れてったの。
私が一番悪いの。
こんな私が愛してもらえるはず、ないんだよ。
だって、彼の一番大切な人を売った。
彼女がお父様の元で暮らしはじめて、一度だけ彼に会いにきたことがあった。
「私はあなたを待ってる。だから、ちゃんと復讐してね」
最初で最期の逢瀬。それから数日後、彼女は死んでしまった。
その最期の逢瀬を私は見てた。フィニ様は切なげに彼女を見つめて泣いていた。決して、私が見ることがない表情だと思った。
彼は私が彼女を父に見せたことを知ってたから、嘘でも偽りでも私に愛してるなんて言ってくれなかった。
それでもよかった。
最期にフィニ様に会ったとき、フィニ様はとても苦しそうだったから。
フィニ様はとても優しい人。本来だったら復讐とは無縁の人生だった。優しくて穏やかな人生を歩めたはずだった。
それを私が歪めてしまった。
父を這い蹲らせ謝罪をさせ、私たち一族の罪を世間にバラし、社会的に私たちを殺すという復讐を遂げたフィニ様はとてもお辛そうだった。
だから、最後の賭けだった。
彼が愛してるって嘘でも言ってくれたら、私からフィニ様を解放してあげる。
言ってくれなかったら──、
賭けは私の負け。フィニ様は私を突き放すように私との婚姻生活すべてが嘘だったと嗤った。
だから私はフィニ様を解放してあげなかった。だから、私はすべての罪は自分だと遺書を残して暗く淀んだ青い海へとその身を投げた。
彼に私を忘れないで欲しかったから。
どこまでも自分本位だった私。
いつだって私は自分のことだけだった。自分が愛されることしか考えられなかった。
今までの人生で平民に生まれたのは初めてのことだった。
もう彼を諦めなさい、そういうことだと思ったから、夢に見る彼らを想いながら生きて行く、そう思ったのに。
サーフィル様は残酷な人。
今までの彼の中で一番残酷だ。
私の想いを知りながら「愛してる」の言葉で私を縛り付け、復讐を果たそうとする。
残酷な復讐方法で、それは一番私の心に響く復讐の方法。
マリエラ様……だっけ。
可愛らしい人だった。彼に相応しい身分のようだし、婚約者だと、そうおっしゃっていた。
心が引き裂かれる。
どうしようもなく暗い心が私を侵食してく。
このまま消えてしまいたい。
夢の中でなにも見ずに暗闇の中に閉じこもりたい。
いつになったらこの不幸な連鎖が止まるのかわからない。それまで私は何度だって彼と一緒に不幸を背負ってく。
私が身を引けばいつだって彼は幸せになるのに、周りがそれを許さない。
なにより、私が、私自身がそうしたくなかった。
ああ、なんだ、つまり。
「私が、消えればいいのね」
まるで絵画から抜け出たようなその美しさに私はほぅ、と息を吐いた。
私の一目惚れだった。
父に紹介された男性はにこやかに微笑んで、私へと手を差し伸べる。
初めての熱に浮かれる私は頬を染めながら彼の手を取った。
「初めまして、カトレア様。フィニ・マッケンラーと申します」
美しい男性は声も素敵だった。
フィニ様は優しかった。
時折見せる悲しげな表情が気になったけれど、私はそれを勘違いだと決めつけ無邪気に彼を連れ回す。
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嬉しかった。
優しい彼の笑顔は私が作り出したもの。私だけのフィニ様。
私は浮かれていた。
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私は彼に恋をした。
だから結婚が嬉しかった。
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フィニ様は何度か私とデートをすると、あらためて婚姻を申し込んでくれた。
街の噴水広場の前で、彼はその場に跪きながら指輪を差し出した。
「私の妻になってください」
愛してるの言葉がなくても、その懇願が私はとても嬉しかった。
今ではもう感じることのできない、天にも昇る心地。
泣きたいくらいに嬉しくて、泣きたいくらいに幸せで、私は彼の手を取って微笑んだ。
「はい、喜んで」
そう答えた私に見せる彼の笑み。
あの安堵の表情は私が駒として期待通りの動きを見せたから浮かべたのであって、決して喜びからじゃない。
けれど私はそれが喜びの証だと思ってしまった。
所詮私は彼の復讐の駒だったのに。
婚約してからも彼と色々なところに出掛けた。
フィニ様との外出はとても楽しくて、幸せだった。
世界がいつもキラキラと輝いて見えた。実際、キラキラと輝いていた。私の見る世界は美しかった。
「フィニ様、知ってらっしゃいますか? お城にね、とても綺麗な庭園があるんですって」
「へぇ。そうなんだ。私は城にまだ行ったことないから知らなかったよ」
フィニ様はたくさんのことを知っていたけれど、たまに知らないこともあった。
私は彼の知らないことを私が教えて上げられるのが嬉しくて、知らないという彼の言葉に思わず笑顔になる。
「あのね、王太子妃が庭園のお散歩が好きなんですって。今度私たちも自由に行けるようになるそうなんです。いっぱんこうかい? をなさるってお友達が教えてくださりました」
「そうなんだ。カトレアも行ってみたいかい?」
「フィニ様となら! ……あ、でも商会が忙しいのでしたら無理をなさらないでください。私、我慢できるのですよ」
フィニ様は忙しい。こうして私との時間を設けてくださるけど、それがどれだけ大変なことか私は知っていた。
最近は特にそう。
普段だったら言ってしまうわがままも今日は言わない。
フィニ様のお顔は明らかに疲れていた。
フィニ様は優しく微笑んで、私の長い髪を撫でる。
「カトレアは……優しい子だ」
含まれた言葉には気付かず、私は頬を染めながら微笑んだ。
幸せな日々だった。
何も知らないことは私に平穏と幸福を運んでくれた。
結婚式の日は雨がシトシトと降っていた。
雲ひとつないのに、雨だけが降っている不思議な天気。
まるで雨も私たちを祝福してくださっているようだと無邪気に喜んだ。
私が喜べば周りも思うところはあろうとも喜んだ。
私は白いウエディングドレスを着て、彼は黒い軍服を着ていた。私はこの日初めて、彼が軍にも所属していたことを知った。
まるで喪に服すような黒い軍服は少し不満だったけれど、彼にはよく似合っていたし、彼はそれ以外の服を着ることを頑なに拒んだ。
普段私のワガママに合わせてくれるフィニ様がそれだけは嫌だと拒んだから、私は不満でも大人しくその軍服を受け入れた。
「カトレア・リングールは健やかなるときも病めるときもフィニ・リングールを永遠に愛し、喜びも悲しみも分かち合うことを誓いますか?」
「はい、誓います」
「フィニ・リングールは健やかなるときも病めるときもカトレア・リングールを永遠に愛し、喜びも悲しみも分かち合うことを誓いますか?」
「……はい」
「では、ここに汝らの婚姻を見届ける。誓いのキスを」
初めてのキスだった。
ふわり、とまさに天にも昇る心地だった。
世界で一番幸せなときはたった数ヶ月で終わりを告げた。
数ヶ月と言っても、結婚してからさらに忙しくなったフィニ様と一緒にいられたのは合わせても一ヶ月くらい。
フィニ様はほとんどの時間を仕事に費やしていた。
それでも幸せだった。
彼が帰ってきて、一番に「お帰りなさい」と抱きつく。ふわりと香るフィニ様の優しい匂い。彼は私を抱き締め返して「ただいま」と微笑んでくれる。
それだけで私は満足で幸せだった。
家に帰ってきて夜眠るときはいつも一緒。
フィニ様は私を抱き締めて、寝台の上で横になる。
無知な私はそれが子を作る方法だと思い込んでいた。
初夜も同じ。キスをして、一つの寝台でただ一緒に眠る。心臓は張り裂けそうなほどドキドキした。
フィニ様と私は肌を重ねたことなどなかった。
終わりを告げたのは私のせい。
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書類の意味さえわからない無知な私であったらよかったのに、私は知っていた。
それには脱税、人身売買、武器の密売、様々な悪事が父の手によってされていることが表されていた。
「そんな、うそ」
信じられなくてその場に座り込む。嘘、と思いたかったけど、書類たちが表すのはまぎれもない真実。
重ねられた書類にはすべて悪事が書かれていて、バクバクと心臓が激しく痛む。
だけど私を絶望に落とすものはまだあった。
「この、手紙は……」
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(見ちゃいけない。見ちゃダメよ)
そう思うのに自然と手は伸びて、その手紙を手に取る。
裏に書かれた名前に目を見開いて、そこからは夢中だった。その手紙が絶望を生むものだとしても、見て見ぬ振りなどできずに私はすべての手紙を読んだ。
『あなたを信じてる。いつか私に誓ってくれたあなたの愛を。私を想っての冷たい言葉だと知ってる。
あなたはとても優しいから、家族のために恨みを忘れられない。リングール家に復讐を、せずにはいられない。
あなたを止められないことが悔しい。
ずっとあなたが好きよ、フィニ。世界で一番あなたが好き。
もうきっとあなたは私を抱き締めてはくれない。
だけど、いつか。いつか、あなたがあの男に復讐を果たしたとき、私の元に戻ってきてくれると信じてる。
フィニの復讐を手伝いたい。だけどきっとあなたはそれを止めるわね。
ねぇ、好きよ、愛してる。永遠にあなたへの愛を誓うわ。
あなたのクリシュナより』
涙は流れなかった。
まるで感情が失われたようだった。
部屋に戻って、誰も入れずに一人でベッドの上に横たわった。知ってしまった真実に身体が震え、自分の身体を抱いて小さく丸くなった。
手紙にあったあの男とはきっと父のこと。父が彼になにをしたのかはわからない。でも、きっと彼の家族にとても許されないことをしたんだと思う。
これから自分がどうするのか考えて、考えて、私は彼を見捨てることなどできないと思った。
そしたら、もう私がすることは決まってた。
父も母も家族の全てを捨てて、私はフィニ様に捧げる。
たとえ、フィニ様に他に愛してる人がいようとも。
手紙の相手は私の知ってる名前だった。
最近メイドとして我が家に雇われた綺麗な顔をした女性。
そういえば、と思い出す。
はじめて彼女が挨拶した時のフィニ様はどこか様子がおかしかった。
どうして気づかなかったんだろう。
フィニ様は一度も私に愛してるなんて言ったことない。
結婚を申し込まれたときだって、愛していると言われたことはない。
それはそうだ。だって彼の心には本当に愛する人がいるのだから。
コンコンと控えめなノックが部屋に響いた。
「奥様、いかがされました?」
そのあとに続いた声に今まで感じたことのない暗くて薄暗い深い闇のような感情が湧き上がってきた。
「入ってこないで! 下がりなさい! 誰もこの部屋に入ることは許さないわッ」
その感情のままに叫んだ。はじめて、金切り声をあげた。
そのときになってはじめて涙が溢れてきて、脳が激しく揺さぶられて、自分で自分を制御できなくなった。
刺繍に使っていたハサミを掴んで、感情のまま枕を引き裂いた。
鳥の羽根が部屋中に舞う。ベッドを切り裂いて、壁も引き裂いて、カーテンを破いて、棚に置かれていた調度品を壊して、狂ったように暴れた。
調度品を叩き割ったところで音が激しくなって、護衛たちが中に入って私を止めた。
最後に見えたのはあの女。
苦しくて、苦しくて、……憎くて。
憎しみや恨み、そんな暗い感情が私の中にあることをはじめて知った。
なにを憎んでいいのかわからなくて、だけどなにもかもが憎くて仕方なかった。
彼に復讐を決意させるほどのことをしたお父様も、彼に唯一愛されてるあの女も、私を愛してくれない彼も憎い。
だけど。
お父様は私にとても優しいの。彼女は愛する彼に引き離されてとても可哀想。愛してくれなくても、彼はとても優しいし、私は彼を愛してる。
矛盾した気持ちが私の心を押しつぶしてく。
私を殺していく。
感情の波が私を麻痺させた。
彼を愛する人がそばにいて、彼が愛する人がそばにいるこの状態が私をなんでもする悪魔にさせた。
彼のためになんでもしないと捨てられちゃうから。
彼に捨てられたくない。いつか愛してるって、言ってほしい。
私の願いはそれだけ。
嘘でもいいの。
優しく笑って「愛してる」、って。
そう言ってもらえるならなんでもすると決めた。
人を騙すことも人を虫けらのように見ることも、人を、殺すことだって。
あの女がお父様に連れていかれた。
それが復讐の合図だった。
私のせいだった。
私に会いにきたお父様がそばにいた見目麗しいメイドに目をつけた。
わざとなの。あのメイドがお父様に連れていかれてしまえばいいと思ったから、お父様と会うときに連れてったの。
私が一番悪いの。
こんな私が愛してもらえるはず、ないんだよ。
だって、彼の一番大切な人を売った。
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その最期の逢瀬を私は見てた。フィニ様は切なげに彼女を見つめて泣いていた。決して、私が見ることがない表情だと思った。
彼は私が彼女を父に見せたことを知ってたから、嘘でも偽りでも私に愛してるなんて言ってくれなかった。
それでもよかった。
最期にフィニ様に会ったとき、フィニ様はとても苦しそうだったから。
フィニ様はとても優しい人。本来だったら復讐とは無縁の人生だった。優しくて穏やかな人生を歩めたはずだった。
それを私が歪めてしまった。
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だから、最後の賭けだった。
彼が愛してるって嘘でも言ってくれたら、私からフィニ様を解放してあげる。
言ってくれなかったら──、
賭けは私の負け。フィニ様は私を突き放すように私との婚姻生活すべてが嘘だったと嗤った。
だから私はフィニ様を解放してあげなかった。だから、私はすべての罪は自分だと遺書を残して暗く淀んだ青い海へとその身を投げた。
彼に私を忘れないで欲しかったから。
どこまでも自分本位だった私。
いつだって私は自分のことだけだった。自分が愛されることしか考えられなかった。
今までの人生で平民に生まれたのは初めてのことだった。
もう彼を諦めなさい、そういうことだと思ったから、夢に見る彼らを想いながら生きて行く、そう思ったのに。
サーフィル様は残酷な人。
今までの彼の中で一番残酷だ。
私の想いを知りながら「愛してる」の言葉で私を縛り付け、復讐を果たそうとする。
残酷な復讐方法で、それは一番私の心に響く復讐の方法。
マリエラ様……だっけ。
可愛らしい人だった。彼に相応しい身分のようだし、婚約者だと、そうおっしゃっていた。
心が引き裂かれる。
どうしようもなく暗い心が私を侵食してく。
このまま消えてしまいたい。
夢の中でなにも見ずに暗闇の中に閉じこもりたい。
いつになったらこの不幸な連鎖が止まるのかわからない。それまで私は何度だって彼と一緒に不幸を背負ってく。
私が身を引けばいつだって彼は幸せになるのに、周りがそれを許さない。
なにより、私が、私自身がそうしたくなかった。
ああ、なんだ、つまり。
「私が、消えればいいのね」
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ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
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