上 下
2 / 18

02

しおりを挟む
「エドガーさま……」

 どうしてどうして。どうして私を捨てるの? 本当にもういらないの? もう私はあなたのそばにいられないの? それなら私の存在はなんだったの?

「エドガーとは誰だ?」
「エドガーさまは……」

 愛しい素敵な人。
 そう答えようとして、目を覚ます。そこには白い姿を持った蛇のようなものがいた。
 私は白い部屋の大きな白いベッドの上。どうして私がここにいるのだろうと思う前に、黄金の瞳が私を睨んだ。

「エドガーとは? 我を差し置きその男の名を呼ぶのか」

 牙をむき出しに威嚇のようなものをする蛇のようなものに全身が固まる。それから、そういえば私は食べられる前だったのだと思い出した。
 起き上がろうとすると、目の前のものが鋭い爪を持った手で私を押さえつける。片手だけで私の身体ぐらいある。蛇のようなものだと思っていたけど、手があるということはそうじゃないのだろう。なら、これはなに? 蛇ではなければなに? こんな動物は見たことがない。

「どこに行くつもりだ」
「どこ、にも……」

 そう、どこにも居場所なんてない。私の居場所はエドガー様の隣だけだったのだから。
 父と母の元には帰れない。エドガー様に断罪されてしまった私はただ迷惑をかける存在。
 そう考えるとポタリと涙が溢れる。悲しみなんて消えたと思っていたのに。感情なんてなくていいのに。

「うむ、美味だな」

 溢れた涙を動物は満足そうザラリとした舌で舐めとる。大きな舌は私の顔を唾液で汚した。先ほどまでの威嚇するような声とは打って変わって、機嫌が良さそうな楽しそうな声。
 ああ、この動物は本当に私を食べようとしている。
 そして私はこの動物の舌に合ったのだろう。
 なにもない私だけど、味は良かったらしい。それなら、よかった。きっと良かった。美味しく食べてもらえるのだから。これだけ大きくて、これだけ神秘的な不思議な生き物なんだから、きっとこの森の守り神のような存在。その生き物の血肉になれるのだから、これは光栄なこと。
 身体の力を抜く。そうしてエドガー様のために作らせたドレスに手をかけた。

「な、何故脱ごうとしている」
「ドレスは汚れていますから……。それとも、着たままのほうがよろしいですか?」
「いや、んむ、まあ。我はどちらかといえば脱いでほしいが……。だが、その、ちと早すぎではないか?」
「ああ……。そうですね。身も清めたほうがいいですよね」

 汚れているのはドレスだけじゃない。誕生日パーティーの日からずっと身を清めていない。そんなものを口にはしようとしないだろう。

「我はその、そのままでもいいが」
「ですが、汚いとなると口にするのは……」
「汚いなど。ただそなたの体臭が強いだけであろう」
「でも」
「むしろ我はそのほうがよい」

 そういうものなの?
 こてんと首を傾げると黄金色の瞳がジッと私を捉えていた。

「なら、このまま脱げばよろしいですか?」
「そ、そんなに早く我と……?」
「だって、このままここにいても意味などないでしょう?」

 私の存在なんて価値がない。エドガー様に捨てられた今、私が望むのは死だけ。そう思い、そのままドレスを脱ごうとする。けれど、後ろにある紐が邪魔して上手く脱ぐことができない。

「あの、その……」
「な、なんだ?」
「大変申し訳ないのですが、後ろの紐を切っていただけないでしょうか? このままじゃ脱げなくて……」
「それは勿体無いだろう。解いてやる」
「でも」
「大丈夫だ。我に任せよ」
「え、あっ、きゃあっ!」

 フッ、と暖かい風が吹いたと同時にひんやりとしたものが素肌に触れる。驚いて声を出して振り向いて、目を大きく見開いた。

「だ、だれ?」
「我は我だが……。ああ、やはりその前に真名の交換はせねばな。事はそれからだ」
「しん、めい……?」

 真名の交換とはその名の通り、魂に付けられた名前を交わすこと。基本的には夫婦となる二人が交換する。例外は奴隷。奴隷となった人間は主人に真名を渡し、人としての生涯を主人に渡さなければならない。
 食べられるのにも真名を渡す必要があるのだろうか。
 そもそもこの男性は誰なんだろう。白銀の髪に黄金の瞳はさっきの動物を思い出させる。それに顔も整っている。それこそ、まるで人外のように。長く波打った白銀の髪は緩く三つ編みされて前に流されていて、神話の中の人みたい。けれど隠すべきところが隠せていなくて目のやり場に困ってしまう。
 それなのに、彼は私から目を離さない。

「我に真名を捧げよ」

 縦に裂かれた黒い瞳孔を持つ黄金の瞳にジッと見つめられて自然と口が開く。

「……私の名はベルローズ・アウレリア。真名はベルローズ・ルビリア・スズ・アウレリア。これで、私を食べてくださいますか?」

 言ってしまった。エドガー様に捧げるべきだった真名を。言ってからずきりと胸が痛む。
 ベルローズ・アウレリアが通称名。ルビリアが魂名で、スズはきっと前世から引き継がれている名前。前世の名前をはっきりとは覚えていない。けれど前世を思い出す音を含むその名前はおそらくそうだと思う。真名は三歳の時教会から与えられる。本来覚えていられないはずなのに、真名は魂に刻まれているようで、はっきりと覚えている。
 真名を捧げられるのは人生で一度きり。特別な意味をもたらすこの行為は通常初夜に行われる。エドガー様に捧げることを楽しみにしていた。

「──我はリュウセン・カムイ・イズミ・ホワイディア。龍族を統べる者。ベルローズ・ルビリア・スズ・アウレリアを番とし我が死すまで繋ぎ、求め、生涯を共にすると誓う」
「っ、あぁ!」

 心臓にピリッとした痛みが走った。思わず左胸を抑える。頭の中にリュウセン・カムイ・イズミ・ホワイディアの名が刻まれる感覚に混乱してしまう。
 ──彼は、今なんて言った?

「はぁっ……。これが番を得る感覚か……」
「つ、がい……?」

 陶磁器のような白い肌をうっとりと薔薇色に染めて息を吐く目の前の男性の色気に当てられてくらりと目眩がする。

「契約は交わされた。これで我らは番となった」
「あ、の、」
「案ずるな。なるべく、その、優しくする」
「あ、の、ホワイディア様……?」
「それは白龍の名だ。そなたにはカムイと呼ばれたい」

 私の頬を長い指で撫でながら彼は微笑む。否が応でも心臓の動きが早くなった。
 私はエドガー様が好きなのに。どうしてこんなに心が揺れ動くの? 私の『好き』はその程度だったの?

「カムイ、さま……」
「様などはいらないが……。まあ、ゆくゆく慣れていけばよい」
「あ、の、私を食べるのでは……?」

 ゆくゆく、って、まるで未来があるような言い方。私はここで食い殺されてしまうのに。
 カムイ様は私の言葉に「う、うむ、ありがたくいただくが」と言葉を返す。それにホッとした。
 私の『好き』は消えていない。きちんとエドガー様が好きなまま、私は死んでいける。大丈夫。
 なにもない私。なんの価値もない私。そんな私が誇れるのはエドガー様を好きな気持ちなだけ。誰か一人を盲目的に愛せるこの気持ちだけ。
 それに彼は龍族らしい。幻の一族と言われた龍族。その龍族の方の血脈になれるのだ。なにも怖いことなどない。おそらく蛇のようなお姿は龍なのだろう。
 龍と竜。私が見たことがあるのは竜。ドラゴンとも呼ばれる。ドラゴン族の方にも数回だけお会いしたことがあるけれど、龍族はドラゴン族の間でも神話と化していて、お目にかかれることは滅多にないらしい。それもカムイ様はそんな龍族を統べる方。おそらくとても尊い方だ。そんな方の血脈になることができる。きっと、それはとても幸せなこと。ありがたいと思わねば。
 つがいとはよくわからないけれど、おそらく食料ということなのだろう。たかが食料にも敬意を表してくれるカムイ様はとてもお優しい。そんな方に私なんかを食べさせるのはよくない気がするけど、今ここでやっぱりごめんなさいなんて言ったら逆鱗に触れてしまう気がする。

「美味しくないかもしれませんが……」
「いや。それはない」
「そ、そうでしょうか?」

 胸は大きいほうだから、お肉はついてると思う。けど、貴族の娘として生きていた私はコルセットの関係でお腹のお肉はあまりついていない。無駄な脂肪もついてない……と思う。カムイ様は大きな姿を持つ方だけど、私なんかで満足できるのだろうか。

「ああ。そなたが森の中に入ってきたときからずっとそなたが欲しかった。けれどそなたにも人の生活がある。運命の番とはいえど、我は今までずっと一人で生きてきた。そしてそれに不満はなかった。ゆえに我慢が効くかと思ったが、ずっと森にいるそなたに我慢など効かなくなってしまった。そなたから香る匂いは我を狂わそうとする。その上そなたから「私を食べて」などと言われて我慢できようか」
「お腹が空いていたのですか?」
「──ああ。ずっと飢えておった」

 悲しそうに目を伏せるカムイ様。
 私の心に生じた想い。
 可哀想なカムイ様。私が早く彼の前に姿を現さなかったばっかりに。
 ずっと飢えていたのだわ。運命のつがいというのは、きっと龍族独特の言葉で、それを食べないと飢餓感から解放されないのだわ。それなのに運命のつがいは私。捨てられた私。前世から誰にも求められない私。
 可哀想、可哀想。可哀想。
 だけど、なんの価値もない私が求められているのが嬉しい。

「カムイさま……」
「ルビリア」

 名前を呼ばれてどきりと心臓が跳ねた。
 誰にも呼ばれたことのない名前。それが魂名であるから当たり前だけど、どうしてもドキドキとしてしまう。こんな感情、今から死ぬ私には不要なのに。

「はやく、私を食べてください」
「……優しくなどできぬぞ」
「大丈夫です。なるべく悲鳴を上げないように気をつけますが、悲鳴をあげても気にせず食べてください」

 あの鋭い牙に噛み砕かれることを想像すると、やはり悲鳴はあげてしまいそうな気がする。溶けるように胃の中で死んでいけるのであれば、もっと痛みは少ないのだろうか。

「や、優しくできぬと言ったが、悲鳴をあげさせるようなことはせぬ! なるべく優しくするようには努めるつもりだ!」
「平気です。その、私は誰かに食べられることが初めてですので、作法などが分からなくて……」
「ぐぅ……。最高か。そなたの人生に感謝する」
「あ、ありがとうございます」

 どうして感謝されたのか分からないけど、そういうものなのかもしれない。
 そういえば食事する前はいつも神に祈りを捧げていた。前世でも「いただきます」と食材に感謝していた。その一貫なのだろう。

「カムイ様はどこから食べられるのですか?」
「──んむ?」
「烏滸がましいのですが、希望としましては、頭からがいいな、と。それなら一瞬で死ねそうですし、別の場所が食べられているのを見ながら痛みを我慢するというのは、少し、怖くて……」

 頭から食べてもらえたら、そのまま気を失えそう。他の場所からでも気を失えそうだけど、さすがに自分が食べられている姿を実際に見るのはきっと無理。
 私の言葉にカムイ様は黙り込んでしまう。
 しまった、とそう思った。カムイ様の気を悪くしてしまった。こんな烏滸がましいこと、やはり言うべきじゃなかった。
 私はどうしていつも一言余計なのだろう。
 慌てて言葉を付け加える。

「あ、でもカムイ様が腕からとか、足からとか、胸からとか、希望があるのでしたらそこからでも全然──」
「待て」
「は、はい」
「なんの話をしている」

 カムイ様の怖い顔。整った男性の怒ったような顔は本当に恐ろしくて、やはり私は彼の怒りを買ってしまったのだとわかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】失恋した者同士で傷を舐め合っていただけの筈だったのに…

ハリエニシダ・レン
恋愛
同じ日に失恋した彼と慰めあった。一人じゃ耐えられなかったから。その場限りのことだと思っていたのに、関係は続いてーー ※第一話だけふわふわしてます。 後半は溺愛ラブコメ。 ◻︎◼︎◻︎◼︎◻︎ ホット入りしたのが嬉しかったので、オマケに狭山くんの話を追加しました。

【完結】冤罪で殺された王太子の婚約者は100年後に生まれ変わりました。今世では愛し愛される相手を見つけたいと思っています。

金峯蓮華
恋愛
どうやら私は階段から突き落とされ落下する間に前世の記憶を思い出していたらしい。 前世は冤罪を着せられて殺害されたのだった。それにしても酷い。その後あの国はどうなったのだろう? 私の願い通り滅びたのだろうか? 前世で冤罪を着せられ殺害された王太子の婚約者だった令嬢が生まれ変わった今世で愛し愛される相手とめぐりあい幸せになるお話。 緩い世界観の緩いお話しです。 ご都合主義です。 *タイトル変更しました。すみません。

【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!

ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、 1年以内に妊娠そして出産。 跡継ぎを産んで女主人以上の 役割を果たしていたし、 円満だと思っていた。 夫の本音を聞くまでは。 そして息子が他人に思えた。 いてもいなくてもいい存在?萎んだ花? 分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。 * 作り話です * 完結保証付き * 暇つぶしにどうぞ

そんなあなたには愛想が尽きました

ララ
恋愛
愛する人は私を裏切り、別の女性を体を重ねました。 そんなあなたには愛想が尽きました。

彼はもう終わりです。

豆狸
恋愛
悪夢は、終わらせなくてはいけません。

悪役令嬢は、いつでも婚約破棄を受け付けている。

ao_narou
恋愛
 自身の愛する婚約者――ソレイル・ディ・ア・ユースリアと平民の美少女ナナリーの密会を知ってしまった悪役令嬢――エリザベス・ディ・カディアスは、自身の思いに蓋をしてソレイルのため「わたくしはいつでも、あなたからの婚約破棄をお受けいたしますわ」と言葉にする。  その度に困惑を隠せないソレイルはエリザベスの真意に気付くのか……また、ナナリーとの浮気の真相は……。  ちょっとだけ変わった悪役令嬢の恋物語です。

それ、あなたのものではありませんよ?

いぬい たすく
恋愛
「わたしがシルヴィオ様と結婚するの!お姉様じゃなくて」 ルフィナはアリーチェに婚約者を奪われた。 だが、その結婚から半年後、アリーチェは泣きついてくる。 「お姉様、なんとかして!」

宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました

悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。 クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。 婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。 そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。 そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯ 王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。 シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯

処理中です...