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一陣の風
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「アア、ココデスネ」
「ここが……」
イムルから知らされていたという別宅の住所を頼りに、ハウゼンがマユラをその場所へと連れて来てくれた。
流れるような手跡で書き記された所には、一軒の家が建っている。
深い落ち着いた色合いのオレンジ瓦屋根を冠に頂くように佇む白壁の家。
その白壁のひとつの面は大振りな葉の蔦に覆われており、反対側の白壁の面には家の建て幅よりも大きな庭が広がっていた。
四方をぐるりと背の高い鉄格子が囲んでいるものの格子の幅が広く、そこから庭の様子を眺めることが出来る。
マユラはゆっくりと格子に近付き、庭の茂みの間から中の様子を窺った。
外観からの印象とはまた違う。そこにはまるで別世界のような美しい庭が存在した。
見た事もないような大きな木をシンボルツリーとして大小様々な植物が品種も多様に植えられている。
競い合うように咲き誇る花々の多彩な色合い。生い茂る葉が織り成す緑の濃淡のコントラスト。
一見バラバラでまとまりがなく植えられているようだが、なぜか全体的に不思議な調和を醸し出している、なんというかとにかく只只美しい庭であった。
(私の乏しい語彙力では表現しきれないわ……)
庭の一画には小さな池があり、虫や小鳥がその畔に集まっている。
植物と生物が共存し合い、その庭ひとつで生態系が完成しているようであった。
聞きしに優る素晴らしい庭である。
そしてそこに、一人の女性の姿があった。
日差しをものともしないのか帽子を被ることもなく庭仕事に勤しんでいる。
金色の美しい髪が陽の光を受け、白い肌と相まり彼女が際立って輝いているように見えた。
マユラの位置からは彼女の横顔しかみえないが、まるで美術館に飾られた彫像のようにどこか浮世離れした美しさを感じた。
マユラが食い入るように見ている視線の先にいる人物にハウゼンも気付く。
「オヤ?人ガイルノデスネ。庭師ノ方デショウカ?」
別宅に女性が住んでいる事を知らないハウゼンがマユラの隣に立ち、そう言った。
「アア、デモアノ者ハ……「イムル様……」
ハウゼンが何かを言いかけたがマユラが思わずつぶやいていた名前によりそれが掻き消された。
庭のテラスに置いてある椅子に深く腰掛け、庭仕事をする女性を眺めているイムルの姿を見つけたからだ。
二人は言葉を交わすこともなくただその美しい庭に居た。
イムルはいつも仕事を終えてから、そのままここへ訪れるのだと勝手に思い込んでいた。
だからこんな平日の昼過ぎの明るい時間にこの別宅に彼がいることにマユラは驚いた。
マユラが知らないだけで、じつはもっと頻繁にイムルはここを訪れているのかもしれない。
もしかしてイムルにとってはここが本当の家なのかも……マユラがそう思った時、一陣の風が吹いた。
普段目元を隠す夫の前髪が風に撫でられる。
マユラはそこで息をのんだ。
夫は……イムルは笑みを浮かべていた。
とても優しい、何かを懐かしむような、そんな泣きたくなるくらい優しい笑みを。
庭にいるあの二人だけ、世間とは隔絶された特別な空間の中にいるように感じられた。
まるで感情を失くしたように無になっていたのか、気付けば帰路に就いていた。
そしてマユラは家の中に入った途端に足早に自室に戻り、バタンと扉を閉ざした。
全てを遮断したかった。
心を掻き乱す一切から。
目の当たりにした光景から。現実から。
もう無理だと思った。
もう知らないふりも何も感じないふりも出来ない。
このまま、全てから逃げ出したい。
マユラはそう思った。
都合のいい妻が必要なら他を捜せばいい。
なぜ自分が必要なのか、マユラには心底わからない。
身の回りの世話?
それならハウゼンがいるしザーラもいる。
そしてなんならあの女性にして貰えばいい。
性欲処理?
それなら尚のこと、あの女性がいるのだ。
マユラでなくてもいいだろう。
マユラがイムルの妻である必要など、何一つ見つけられなかった。
マユラは衝動的に荷造りをしていた。
突発的な行動である事は否めないが、一刻も早く自分の置かれた立場から逃げ出したかったのだ。
トランクひとつで嫁に来たが、出て行く時もまたトランクひとつとなった。
結婚後にイムルの妻として購入して貰った物は全て置いていこう。
ハウゼンもザーラも午後のこの空き時間は自己メンテナンス中だ。
家を出るなら今しかない。
マユラは静かに玄関から外へ出て、そして徐に振り返り、やるせない気持ちで家を見渡した。
この家で暮らした日々は幸せと感じられるものだった。
イムルはよくわからない人物であったが決してマユラを蔑ろにはしなかったし、ハウゼンやザーラに申し付けてマユラが困らないように暮らしを調えてくれた。
都合よく押し付けられた妻であったマユラを、きちんと妻として扱ってくれた。
世話の焼ける、言葉足らずが過ぎる夫の心情を察せねばコミュニケーションも取れないというヘンテコな夫婦であったが、少なくともマユラはそこに幸せを感じていたのだ。
以前の自分であれば、叔父の家で暮らしていた日々よりも格段に恵まれたこの場所を手放そうとは考えなかっただろう。
だけど、イムルへの恋情を自覚した今、自分がこんなにも全てを欲する強欲な人間であると知った今、もうここには居られないと思った。
このままではそう遠くない近い将来に、この醜い胸の内をイムルにぶつけてしまうだろう。
彼と彼の愛する人を憎むようになってしまうだろう。
そんな自分にはなりたくない。
自分が向ける想いと同じものをイムルからは得られなかったけれど、せめて、せめて彼には嫌われたくなかった。
だからもう一緒には居られない。
マユラは主不在の家に向かってつぶやく。
「勝手でごめんなさい……さよなら……」
あの時に吹いた、一陣の風に背を押されるように、マユラはその場から立ち去った。
「ここが……」
イムルから知らされていたという別宅の住所を頼りに、ハウゼンがマユラをその場所へと連れて来てくれた。
流れるような手跡で書き記された所には、一軒の家が建っている。
深い落ち着いた色合いのオレンジ瓦屋根を冠に頂くように佇む白壁の家。
その白壁のひとつの面は大振りな葉の蔦に覆われており、反対側の白壁の面には家の建て幅よりも大きな庭が広がっていた。
四方をぐるりと背の高い鉄格子が囲んでいるものの格子の幅が広く、そこから庭の様子を眺めることが出来る。
マユラはゆっくりと格子に近付き、庭の茂みの間から中の様子を窺った。
外観からの印象とはまた違う。そこにはまるで別世界のような美しい庭が存在した。
見た事もないような大きな木をシンボルツリーとして大小様々な植物が品種も多様に植えられている。
競い合うように咲き誇る花々の多彩な色合い。生い茂る葉が織り成す緑の濃淡のコントラスト。
一見バラバラでまとまりがなく植えられているようだが、なぜか全体的に不思議な調和を醸し出している、なんというかとにかく只只美しい庭であった。
(私の乏しい語彙力では表現しきれないわ……)
庭の一画には小さな池があり、虫や小鳥がその畔に集まっている。
植物と生物が共存し合い、その庭ひとつで生態系が完成しているようであった。
聞きしに優る素晴らしい庭である。
そしてそこに、一人の女性の姿があった。
日差しをものともしないのか帽子を被ることもなく庭仕事に勤しんでいる。
金色の美しい髪が陽の光を受け、白い肌と相まり彼女が際立って輝いているように見えた。
マユラの位置からは彼女の横顔しかみえないが、まるで美術館に飾られた彫像のようにどこか浮世離れした美しさを感じた。
マユラが食い入るように見ている視線の先にいる人物にハウゼンも気付く。
「オヤ?人ガイルノデスネ。庭師ノ方デショウカ?」
別宅に女性が住んでいる事を知らないハウゼンがマユラの隣に立ち、そう言った。
「アア、デモアノ者ハ……「イムル様……」
ハウゼンが何かを言いかけたがマユラが思わずつぶやいていた名前によりそれが掻き消された。
庭のテラスに置いてある椅子に深く腰掛け、庭仕事をする女性を眺めているイムルの姿を見つけたからだ。
二人は言葉を交わすこともなくただその美しい庭に居た。
イムルはいつも仕事を終えてから、そのままここへ訪れるのだと勝手に思い込んでいた。
だからこんな平日の昼過ぎの明るい時間にこの別宅に彼がいることにマユラは驚いた。
マユラが知らないだけで、じつはもっと頻繁にイムルはここを訪れているのかもしれない。
もしかしてイムルにとってはここが本当の家なのかも……マユラがそう思った時、一陣の風が吹いた。
普段目元を隠す夫の前髪が風に撫でられる。
マユラはそこで息をのんだ。
夫は……イムルは笑みを浮かべていた。
とても優しい、何かを懐かしむような、そんな泣きたくなるくらい優しい笑みを。
庭にいるあの二人だけ、世間とは隔絶された特別な空間の中にいるように感じられた。
まるで感情を失くしたように無になっていたのか、気付けば帰路に就いていた。
そしてマユラは家の中に入った途端に足早に自室に戻り、バタンと扉を閉ざした。
全てを遮断したかった。
心を掻き乱す一切から。
目の当たりにした光景から。現実から。
もう無理だと思った。
もう知らないふりも何も感じないふりも出来ない。
このまま、全てから逃げ出したい。
マユラはそう思った。
都合のいい妻が必要なら他を捜せばいい。
なぜ自分が必要なのか、マユラには心底わからない。
身の回りの世話?
それならハウゼンがいるしザーラもいる。
そしてなんならあの女性にして貰えばいい。
性欲処理?
それなら尚のこと、あの女性がいるのだ。
マユラでなくてもいいだろう。
マユラがイムルの妻である必要など、何一つ見つけられなかった。
マユラは衝動的に荷造りをしていた。
突発的な行動である事は否めないが、一刻も早く自分の置かれた立場から逃げ出したかったのだ。
トランクひとつで嫁に来たが、出て行く時もまたトランクひとつとなった。
結婚後にイムルの妻として購入して貰った物は全て置いていこう。
ハウゼンもザーラも午後のこの空き時間は自己メンテナンス中だ。
家を出るなら今しかない。
マユラは静かに玄関から外へ出て、そして徐に振り返り、やるせない気持ちで家を見渡した。
この家で暮らした日々は幸せと感じられるものだった。
イムルはよくわからない人物であったが決してマユラを蔑ろにはしなかったし、ハウゼンやザーラに申し付けてマユラが困らないように暮らしを調えてくれた。
都合よく押し付けられた妻であったマユラを、きちんと妻として扱ってくれた。
世話の焼ける、言葉足らずが過ぎる夫の心情を察せねばコミュニケーションも取れないというヘンテコな夫婦であったが、少なくともマユラはそこに幸せを感じていたのだ。
以前の自分であれば、叔父の家で暮らしていた日々よりも格段に恵まれたこの場所を手放そうとは考えなかっただろう。
だけど、イムルへの恋情を自覚した今、自分がこんなにも全てを欲する強欲な人間であると知った今、もうここには居られないと思った。
このままではそう遠くない近い将来に、この醜い胸の内をイムルにぶつけてしまうだろう。
彼と彼の愛する人を憎むようになってしまうだろう。
そんな自分にはなりたくない。
自分が向ける想いと同じものをイムルからは得られなかったけれど、せめて、せめて彼には嫌われたくなかった。
だからもう一緒には居られない。
マユラは主不在の家に向かってつぶやく。
「勝手でごめんなさい……さよなら……」
あの時に吹いた、一陣の風に背を押されるように、マユラはその場から立ち去った。
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