8 / 14
心の蓋
しおりを挟む
どれほど心を揺さぶられようと、日々は変わらず過ぎていく。
マユラは懸命に、自分に求められる都合のよい妻でいようと努めた。
「おはようございます」
「……はよぅ……」
「行ってらっしゃいませ」
「行ってくる」
「おかえりなさい」
「ん」
「おやすみなさい」
「ん。……マユラ、」
イムルへの気持ちの在処に変化が生まれてからというもの、
マユラは夫婦の営みを辛いと感じるようになった。
なぜなのかわからない。
だけど掴みどころのない夫の心の在処が、どこなのかを知りたくなってしまうから。
多分それが辛いのだ。
どうしてそんなに優しく触れるの?
どうしてそうなに大切なものを扱うように私を抱くの?
どうして……何も言わないくせに、私のことを真っ直ぐに見つめられるの?
そんなに、深く澄んだ青紫の瞳で。
あなたのもう一つの家に住むという女性とも、こんな夜を過ごしているの……?
「……ん……ユクノキの花が…咲い…たら……」
夜更け過ぎ、眠れないマユラの耳にイムルの寝言がぽつりと届いた。
イムルが通う別宅について、ハウゼンとザーラは何も知らないらしい。
ザーラはマユラとの結婚を機に造られた魔術機械人形なので知らないのは当然なのかもしれない。
だけどハウゼンも主からは詳しくは聞かされていないのだと言う。
「旦那様ニハ、魔術機械人形製作ノ基礎ヲ教ワッタ師匠ノ家デアッタト窺ッテオリマス。シカシ如何ナル目的ノタメニ通ワレテイルノカハ解リカネマス。旦那様ハ必要ニ迫ラレマセント思ワレタコトヲ一切口ニナサイマセンカラ」
「そう、よね……」
ハウゼンはどうやらその別宅に女性が住んでいることまでは知らないようだった。
結局、本人に訊くしかないのだろうか。
だけど……訊いていいものなのか。
イムルが別宅の女性のことを隠そうとしているのかそうではないのか、それさえもわからないというのに。
だけど、訊いてどうする、知ってどうするのだという思いもある。
別宅には行かないで。その人と別れて自分を選んで欲しい……などとはマユラの口から言えるはずもない。
だって、二人の間に割り入ったのはマユラの方なのだから。
叔父の調べでは別宅に住むのは若い女性とまでしかわからなかった。
姪の結婚相手が女を囲っている疑いが浮上しても大した問題ではないと、叔父が早々に調査を打ち切ったからだ。
もう少し詳しく調べてくれていれば、相手の女性の正体も二人がどういう関係なのかもわかったかもしれないのに。
マユラ自身もその時はそういう結婚なのだという諦めもあったから、それ以上の詮索はしなかった。
だけど、思えば初めて接したあの日。
あの美しい球体が人形の瞳だと知り、さらにその瞳がイムルの瞳と同じ色彩であると知ったあの時から、どこか彼に惹かれている自分がいたのだ。
だからそんなイムルに女性の影があると聞かされた時に全てを諦め、その気持ちがこれ以上育たないよう、心に蓋をしたのだ。
その蓋が今、外れようしている。
(ダメだわ。これ以上は……せっかく夫婦として上手くいっていた関係が壊れてしまうかもしれない)
叔父に妻だと言ってくれた、少なからずも心を許して甘えてくれている、それだけで充分ではないか。彼の全てを欲するのは強欲というものだ。
マユラはそう思い、心の中で徐々に緩みかけていた蓋を再び堅く閉めた。
そう。堅く、堅く閉めたはずなのに。
出仕する前にイムルがハウゼンに何やら言っているのを玄関に向かう途中で目の当たりにしたマユラは察した。
今日は帰らないとハウゼンに告げているのだ。
このままいつものように何も気付かぬふりをして見送ればいい。
「行ってらっしゃいませ」と告げて、去っていく夫の背を見送ればいい。
ただそれだけのことだったのに……。
「……マユラ?」
「えっ?あ、やだ私っ……どうしてっ……」
マユラは無意識にイムルが着ている魔術師のローブを掴んでいた。
行かないでほしい。
その気持ちが無意識に行動に出てしまったのだ。
「ご、ごめんなさいっ……わ、私っ……」
自分の思いがけない行動に狼狽えるマユラにイムルが問う。
「どうした?」
「いえっ……あの……」
でもこうなったのならいっそ思い切って訊いてみるしかない、マユラは衝動的にそう思った。
「あ、あの……今夜は……別宅にお泊まりになるの、ですか……?」
意を決してそう尋ねたマユラとは真逆に、いつもと変わらぬトーンでイムルが言う。
「別宅……知っていたのか」
「ええ……あの、はい……」
「そうか」
「別宅に……おられる女性に会いに行かれる、のですよね……」
「ああ」
後悔先に立たずとはこのことをいうのだろう。
やはり訊かなければよかった。
夫イムルの口から出た言葉が、こんなにも深くマユラの心に冷たく穿たれるとは思いもしなかった。
「アイツには俺が必要だからな」
その後、どうやってイムルを見送ったのか、
マユラは覚えていなかった。
マユラは懸命に、自分に求められる都合のよい妻でいようと努めた。
「おはようございます」
「……はよぅ……」
「行ってらっしゃいませ」
「行ってくる」
「おかえりなさい」
「ん」
「おやすみなさい」
「ん。……マユラ、」
イムルへの気持ちの在処に変化が生まれてからというもの、
マユラは夫婦の営みを辛いと感じるようになった。
なぜなのかわからない。
だけど掴みどころのない夫の心の在処が、どこなのかを知りたくなってしまうから。
多分それが辛いのだ。
どうしてそんなに優しく触れるの?
どうしてそうなに大切なものを扱うように私を抱くの?
どうして……何も言わないくせに、私のことを真っ直ぐに見つめられるの?
そんなに、深く澄んだ青紫の瞳で。
あなたのもう一つの家に住むという女性とも、こんな夜を過ごしているの……?
「……ん……ユクノキの花が…咲い…たら……」
夜更け過ぎ、眠れないマユラの耳にイムルの寝言がぽつりと届いた。
イムルが通う別宅について、ハウゼンとザーラは何も知らないらしい。
ザーラはマユラとの結婚を機に造られた魔術機械人形なので知らないのは当然なのかもしれない。
だけどハウゼンも主からは詳しくは聞かされていないのだと言う。
「旦那様ニハ、魔術機械人形製作ノ基礎ヲ教ワッタ師匠ノ家デアッタト窺ッテオリマス。シカシ如何ナル目的ノタメニ通ワレテイルノカハ解リカネマス。旦那様ハ必要ニ迫ラレマセント思ワレタコトヲ一切口ニナサイマセンカラ」
「そう、よね……」
ハウゼンはどうやらその別宅に女性が住んでいることまでは知らないようだった。
結局、本人に訊くしかないのだろうか。
だけど……訊いていいものなのか。
イムルが別宅の女性のことを隠そうとしているのかそうではないのか、それさえもわからないというのに。
だけど、訊いてどうする、知ってどうするのだという思いもある。
別宅には行かないで。その人と別れて自分を選んで欲しい……などとはマユラの口から言えるはずもない。
だって、二人の間に割り入ったのはマユラの方なのだから。
叔父の調べでは別宅に住むのは若い女性とまでしかわからなかった。
姪の結婚相手が女を囲っている疑いが浮上しても大した問題ではないと、叔父が早々に調査を打ち切ったからだ。
もう少し詳しく調べてくれていれば、相手の女性の正体も二人がどういう関係なのかもわかったかもしれないのに。
マユラ自身もその時はそういう結婚なのだという諦めもあったから、それ以上の詮索はしなかった。
だけど、思えば初めて接したあの日。
あの美しい球体が人形の瞳だと知り、さらにその瞳がイムルの瞳と同じ色彩であると知ったあの時から、どこか彼に惹かれている自分がいたのだ。
だからそんなイムルに女性の影があると聞かされた時に全てを諦め、その気持ちがこれ以上育たないよう、心に蓋をしたのだ。
その蓋が今、外れようしている。
(ダメだわ。これ以上は……せっかく夫婦として上手くいっていた関係が壊れてしまうかもしれない)
叔父に妻だと言ってくれた、少なからずも心を許して甘えてくれている、それだけで充分ではないか。彼の全てを欲するのは強欲というものだ。
マユラはそう思い、心の中で徐々に緩みかけていた蓋を再び堅く閉めた。
そう。堅く、堅く閉めたはずなのに。
出仕する前にイムルがハウゼンに何やら言っているのを玄関に向かう途中で目の当たりにしたマユラは察した。
今日は帰らないとハウゼンに告げているのだ。
このままいつものように何も気付かぬふりをして見送ればいい。
「行ってらっしゃいませ」と告げて、去っていく夫の背を見送ればいい。
ただそれだけのことだったのに……。
「……マユラ?」
「えっ?あ、やだ私っ……どうしてっ……」
マユラは無意識にイムルが着ている魔術師のローブを掴んでいた。
行かないでほしい。
その気持ちが無意識に行動に出てしまったのだ。
「ご、ごめんなさいっ……わ、私っ……」
自分の思いがけない行動に狼狽えるマユラにイムルが問う。
「どうした?」
「いえっ……あの……」
でもこうなったのならいっそ思い切って訊いてみるしかない、マユラは衝動的にそう思った。
「あ、あの……今夜は……別宅にお泊まりになるの、ですか……?」
意を決してそう尋ねたマユラとは真逆に、いつもと変わらぬトーンでイムルが言う。
「別宅……知っていたのか」
「ええ……あの、はい……」
「そうか」
「別宅に……おられる女性に会いに行かれる、のですよね……」
「ああ」
後悔先に立たずとはこのことをいうのだろう。
やはり訊かなければよかった。
夫イムルの口から出た言葉が、こんなにも深くマユラの心に冷たく穿たれるとは思いもしなかった。
「アイツには俺が必要だからな」
その後、どうやってイムルを見送ったのか、
マユラは覚えていなかった。
2,548
お気に入りに追加
2,489
あなたにおすすめの小説
【完結】大好きな貴方、婚約を解消しましょう
凛蓮月
恋愛
大好きな貴方、婚約を解消しましょう。
私は、恋に夢中で何も見えていなかった。
だから、貴方に手を振り払われるまで、嫌われていることさえ気付か
なかったの。
※この作品は「小説家になろう」内の「名も無き恋の物語【短編集】」「君と甘い一日を」より抜粋したものです。
2022/9/5
隣国の王太子の話【王太子は、婚約者の愛を得られるか】完結しました。
お見かけの際はよろしくお願いしますm(_ _ )m
寡黙な貴方は今も彼女を想う
MOMO-tank
恋愛
婚約者以外の女性に夢中になり、婚約者を蔑ろにしたうえ婚約破棄した。
ーーそんな過去を持つ私の旦那様は、今もなお後悔し続け、元婚約者を想っている。
シドニーは王宮で側妃付きの侍女として働く18歳の子爵令嬢。見た目が色っぽいシドニーは文官にしつこくされているところを眼光鋭い年上の騎士に助けられる。その男性とは辺境で騎士として12年、数々の武勲をあげ一代限りの男爵位を授かったクライブ・ノックスだった。二人はこの時を境に会えば挨拶を交わすようになり、いつしか婚約話が持ち上がり結婚する。
言葉少ないながらも彼の優しさに幸せを感じていたある日、クライブの元婚約者で現在は未亡人となった美しく儚げなステラ・コンウォール前伯爵夫人と夜会で再会する。
※設定はゆるいです。
※溺愛タグ追加しました。
婚約者に選んでしまってごめんなさい。おかげさまで百年の恋も冷めましたので、お別れしましょう。
ふまさ
恋愛
「いや、それはいいのです。貴族の結婚に、愛など必要ないですから。問題は、僕が、エリカに対してなんの魅力も感じられないことなんです」
はじめて語られる婚約者の本音に、エリカの中にあるなにかが、音をたてて崩れていく。
「……僕は、エリカとの将来のために、正直に、自分の気持ちを晒しただけです……僕だって、エリカのことを愛したい。その気持ちはあるんです。でも、エリカは僕に甘えてばかりで……女性としての魅力が、なにもなくて」
──ああ。そんな風に思われていたのか。
エリカは胸中で、そっと呟いた。
溺愛されていると信じておりました──が。もう、どうでもいいです。
ふまさ
恋愛
いつものように屋敷まで迎えにきてくれた、幼馴染みであり、婚約者でもある伯爵令息──ミックに、フィオナが微笑む。
「おはよう、ミック。毎朝迎えに来なくても、学園ですぐに会えるのに」
「駄目だよ。もし学園に向かう途中できみに何かあったら、ぼくは悔やんでも悔やみきれない。傍にいれば、いつでも守ってあげられるからね」
ミックがフィオナを抱き締める。それはそれは、愛おしそうに。その様子に、フィオナの両親が見守るように穏やかに笑う。
──対して。
傍に控える使用人たちに、笑顔はなかった。
【完結】お荷物王女は婚約解消を願う
miniko
恋愛
王家の瞳と呼ばれる色を持たずに生まれて来た王女アンジェリーナは、一部の貴族から『お荷物王女』と蔑まれる存在だった。
それがエスカレートするのを危惧した国王は、アンジェリーナの後ろ楯を強くする為、彼女の従兄弟でもある筆頭公爵家次男との婚約を整える。
アンジェリーナは八歳年上の優しい婚約者が大好きだった。
今は妹扱いでも、自分が大人になれば年の差も気にならなくなり、少しづつ愛情が育つ事もあるだろうと思っていた。
だが、彼女はある日聞いてしまう。
「お役御免になる迄は、しっかりアンジーを守る」と言う彼の宣言を。
───そうか、彼は私を守る為に、一時的に婚約者になってくれただけなのね。
それなら出来るだけ早く、彼を解放してあげなくちゃ・・・・・・。
そして二人は盛大にすれ違って行くのだった。
※設定ユルユルですが、笑って許してくださると嬉しいです。
※感想欄、ネタバレ配慮しておりません。ご了承ください。
すれ違う思い、私と貴方の恋の行方…
アズやっこ
恋愛
私には婚約者がいる。
婚約者には役目がある。
例え、私との時間が取れなくても、
例え、一人で夜会に行く事になっても、
例え、貴方が彼女を愛していても、
私は貴方を愛してる。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 女性視点、男性視点があります。
❈ ふんわりとした設定なので温かい目でお願いします。
平凡令嬢の婚活事情〜あの人だけは、絶対ナイから!〜
本見りん
恋愛
「……だから、ミランダは無理だって!!」
王立学園に通う、ミランダ シュミット伯爵令嬢17歳。
偶然通りかかった学園の裏庭でミランダ本人がここにいるとも知らず噂しているのはこの学園の貴族令息たち。
……彼らは、決して『高嶺の花ミランダ』として噂している訳ではない。
それは、ミランダが『平凡令嬢』だから。
いつからか『平凡令嬢』と噂されるようになっていたミランダ。『絶賛婚約者募集中』の彼女にはかなり不利な状況。
チラリと向こうを見てみれば、1人の女子生徒に3人の男子学生が。あちらも良くない噂の方々。
……ミランダは、『あの人達だけはナイ!』と思っていだのだが……。
3万字少しの短編です。『完結保証』『ハッピーエンド』です!
新しい人生を貴方と
緑谷めい
恋愛
私は公爵家令嬢ジェンマ・アマート。17歳。
突然、マリウス王太子殿下との婚約が白紙になった。あちらから婚約解消の申し入れをされたのだ。理由は王太子殿下にリリアという想い人ができたこと。
2ヵ月後、父は私に縁談を持って来た。お相手は有能なイケメン財務大臣コルトー侯爵。ただし、私より13歳年上で婚姻歴があり8歳の息子もいるという。
* 主人公は寛容です。王太子殿下に仕返しを考えたりはしません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる