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1巻

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「手間をかけるがよろしく頼む」
勿体もったいなきお言葉。誠心誠意、務めさせていただきます」

 メロディがそう言うのに合わせてハノンももう一度礼をする。顔を上げると視界の端にはフェリックス=ワイズの姿があった。
 クリフォードが薬剤師長に言う。

「期間中の調剤の目付け役として、近衛このえのワイズとモラレスが任に当たる。目障りかもしれんが許してくれ」

 クリフォードの言葉の後に、後ろに控えていた両名が目礼をする。

「とんでもないことにございます。どうぞよろしくお願いいたします」

 薬剤師長がそう答えると、クリフォードが話を続けた。

「さっそくだが今日の分からの薬を頼む。私が服用している魔法薬は作り置きしておくとどんどん苦味が増す。それだけならまだ良いが、あの独特な臭いも増すのが厄介なのだ。それでいつもその日に出来た薬が飲めるようにしてもらいたいのだ」
「「お任せください」」

 ハノンとメロディが声を揃えて返事をした。しかしなんだろう。先ほどからやたらと視線を感じる。
 なぜかフェリックス=ワイズがハノンの方をいぶかしげに見つめているのだ。

(なんなのいったい? こちらはともかく、向こうはわたしの顔をハッキリ知らないはずよ)

 さっきから嫌な汗が止まらない。早くこの場を去りたかった。ハノンは伏し目がちにして謁見が終わるのをひたすら待つ。
 ふいにフェリックスがハノン達に声をかけてきた。

「殿下の視察の予定もある。出来れば調剤は十六時以降にしてもらえないでしょうか。その時間帯なら私か隣のモラレスのどちらかが立ち会えますので」

 メロディはハノンと顔を合わせて、ややあってから答えた。

「承知しました。ではご滞在中は毎日十六時に調剤室にお越しいただいてもよろしいでしょうか」
「承知した」

 フェリックスがそう言うと、クリフォードとの謁見が終了した。

(なんだかもう既に今日の業務を終えたくらいに疲れたんだけど……)

 ぐったりと項垂うなだれながら歩くハノンにメロディが言った。

「十六時に近衛このえが来るまであと二時間か……その後の調剤の時間も考えて……まぁ業務時間内には終わると思うけど、アンタはルッシーのお迎えもあるから時間が来たら上がっていいわヨ」
「メロディ~、ホントいつもありがとうね。いよっ! オトコマエっ!」
「それを言うならイイ女でしョ!」

 メロディはハノンがシングルマザーであることをもちろん知っている。
 でも細かい事情は何も話していない。
 フェリックス=ワイズが来た以上、何かと協力してもらわないといけないし、話しておいた方がいいのだろうか。
 ハノンはそんなことを考えながら医務室へと戻っていった。


 一方その頃、ハノン達が退室した後の王子の滞在する部屋では……

「なんだか風変わりな薬剤師だったな」

 第二王子クリフォードが言うと、近衛このえ騎士の一人が同調した。

「本当ですね。あのデカい方はアレですよね、オネェってヤツですよね? 隣にいた娘は薬剤師としては若い気がするし、大切な薬を任せて大丈夫なんでしょうか?」

 それに対し調剤の目付け役の一人、モラレスが口を開く。

「ここの騎士団長は腕は確かだと言っていたぞ。騎士達にも信頼を寄せられているそうだし。見かけは関係ないんじゃないか? まぁ調剤の様子を見ればわかるだろう」
「それもそうだな……おい? フェリックス、どうした、さっきからぼんやりして」

 他の騎士と話していたクリフォードが何やら考え込んでいるフェリックスに向かって言った。

「あ、いや、なんでもない。ただなんか引っかかってな」
「引っかかる? 何にだよ?」
「いや自分でもよくわからんのだ」

 その言葉を聞き、クリフォードが呆れる。

「おいおいしっかりしてくれよ? お前のために視察先をわざわざここにしたんだぞ?」
「わかってるよ、俺だって焦ってるんだから」

 そう言いながら、フェリックスは窓の外を見る。また何やら思考の沼にハマったようだ。クリフォードは幼馴染おさななじみであり信の置ける友人である男の横顔を、ため息を吐きながら眺めていた。


 そして十六時。
 調剤室のドアがノックされ、ハノンはやや緊張した面持ちで扉を開ける。

(フェリックス=ワイズじゃありませんように!)

 しかし願いもむなしく……調剤室に入ってきたのはフェリックスその人であった。

「……お待ちしておりました」

 ハノンはそう言い、入室をうながす。
 フェリックスが部屋の中に入るのを見届けると、ハノンは端的に告げた。

「本日の調剤はメロディ=フレゲが担当いたします。途中、質問などはわたしの方へ言っていただければお答えいたしますので、作業中の薬剤師へのお声がけはご遠慮願います」
「承知した。こちらも一応、毎日王宮魔法薬剤師の調剤を見ています。使用する薬材や作業行程もすべて頭に入っているので不審な点にはすぐに気付きます。最初から疑うような言い方をしてすまないが、そのことをあらかじめご理解ください」

 今のは要約すると、〝変な細工をしたらすぐにわかるんだからな、おかしな真似はすんなよ〟である。
 ハノンは東方の国でまつられている〝ホトケ〟のような微笑を心がけて答えた。

「承知いたしました」
「……」
「なにか?」
「……いや」

 急に黙り込んだフェリックスにハノンが疑問符を投げかける。
 その時メロディが告げた。

「では始めさせていただきますネ」

 まずはメロディが砂糖を溶かしたシロップの入った小瓶をフェリックスに見せる。
 フェリックスがそれを受け取り、匂い、味、小瓶に不審な点がないかを調べる。異常がないことを確認すると小瓶をメロディに返した。
 それからメロディはあらかじめ用意しておいた調剤用の小さな魔法陣の上にその小瓶を置いた。
 処方箋しょほうせんとも呼ぶ魔術の術式が書かれた紙を確認し、メロディが魔法陣に置かれた小瓶に手をかざしながら術式を唱える。
 すると小瓶に入っていたシロップに淡い光が灯った。光の色が白から青へ、そして緑色へと変化した後、小瓶からポワンとした湯気が立つ。
 魔法薬剤師が作る魔法薬とは術式師が構築した、薬と同じ効果のある魔術を水や固形物、そして先ほどのようにシロップやクリームなどに施したものである。当然、魔法薬剤師は魔力保有者でないとなれない。
 最後にメロディがもう一度フェリックスに小瓶を渡す。
 小瓶の中の出来上がった魔法薬の匂いや味をチェックすると、フェリックスは頷きながらメロディに小瓶を返した。
 その小瓶を受け取ったメロディは瓶にふたをし、ラベルの作成に取りかかる。
 それを目でちゃんと確認しつつ、フェリックスがハノンに尋ねてきた。

「キミの……その髪色は元々のものですか?」
「は?」
「染めたとかそういうものではないのですよね?」
「……なぜこんなどこにでもあるような髪色にわざわざ染めるんですか? どうせならもっと珍しい色に染めますよ」

 ハノンの髪色はベージュブロンドで、この国の民にわりと多い髪色である。
 瞳の色もアンバーと、これもどこにでもいる色合いだ。なのにフェリックスはなぜか髪の色にこだわる。

「キミの髪色は……暗がりではプラチナのような色味になりますか?」
「先ほどからなんなんです? わたしの髪が調剤と関係あります?」
「いえ、関係ないでしょうね」
「なら答える必要はありませんよね」
「……」

 沈黙が訪れると、さっきまで全く気にならなかったメロディが作業をする音が妙に響く。嫌な沈黙だ。
 ところが「キミは年はいくつですか?」と、なおもフェリックスが尋ねてくるのでハノンは思わずキツい口調で返してしまった。

「調剤に関係ないことはお答えいたしかねます!」

 ホントにいったいなんなんだ。ナンパか? まさかね!!
 あり得ないと思う自分が悲しい。もしかしてあの夜の相手がわたしだと疑ってる? 
 でも肌を合わせたのは月明かりさえ射し込まない薄暗い部屋だった。
 彼は普通の状態ではなかったし……ハノンはいたたまれず、メロディの作業台の近くへと行く。
 すると、ちょうどメロディがラベルを貼り終わり魔法薬が完成した。
 それをハノンがかごに入れてフェリックスに渡す。心の中でさっさと帰れコールを連呼しながら。

「はい、本日分の魔法薬です。なるべく就寝前に服用されるようお伝えください」
「伝えます。ところでキミはどこの魔法学園を卒業したんですか?」

 などとフェリックスがまた別の質問を投げかけてきたのでハノンは――

「本日の調剤は終了です! また明日、この時間にお越しくださいね!」

 と、有無を言わさず扉を開けて退室をうながした。

「……ご苦労でした。また明日よろしく」

 フェリックスは何か言いたそうな顔をしていたが今日のところは諦めたようでそのまま調剤室を出ていった。
 その途端、メロディがニヤニヤしながらハノンに向かって言う。

「なにアンタ、気に入られちゃった? すんごい興味持たれてたじゃない。ハノンにもようやく春が?」
「そんなんじゃないしっ! ……なんか今日は二日分働いた気分……」
「まぁ今日は色々あったもんネ」
「そうね……やっと終業時間だ……じゃあ帰るわ」
「はいよ、お疲れサン。ルッシーによろちくび♪」
「……はいはい」

 こうしてようやく終業時間となり、ハノンの長~い一日が終わった。

(つ、疲れた……もう、ホントに疲れた……わたしをやせるのはルシーしかいないわっ、早くルシーを摂取しないと……!)

 そう思いながら、ハノンは息子を預けている託児所へと急ぎ向かった。


 その頃、魔法薬を持って第二王子クリフォードのいる部屋へ戻ったフェリックスが開口一番、こう告げた。

「クリフ! お前の暗部を一人、貸してくれ!」
「な、なんだ⁉ やぶから棒にっ。ワイズ侯爵家お前ん家の部下も優秀だろう?」
「今はまだ家には知られたくないんだ。急ぎ調べたいことがある、頼むよ」
「しょうがないな……一つ貸しだぞ」
「すまん、恩に着る」
(ハノン=ルーセルと言ったか……どうも初めて会った気がしないんだよな……調べてみる必要がありそうだな)

 どうやらフェリックスはハノンの身辺を探らせるようである。
 どうするハノン。迎えに行った託児所で息子の頭の匂いをいで癒されてる場合じゃないぞ。


   ◇◇◇◇◇


「まま、ぼくもおてちゅだいしゅる!」

 ルシアンがキッチンに立つハノンに向かって両手をかかげて言った。

「手伝ってくれるの? じゃあこのスプーンをテーブルまで運んでもらおうかな?」
「うん!」

 ハノンがルシアン用の小さな木のスプーンを渡すと、ルシアンは大切そうに抱えながらテーブルまで持っていった。

(はうんっ……わたしの息子、今日も天使)

 もうこれ以上下がらないというほど目尻を下げて、懸命におてちゅだいをする息子を見守る。
 本日の朝食は具沢山のミルクスープにした。玉ねぎや人参、キャベツとベーコンをルシアンのために小さく切ってからバターで炒める。
 全体に油が回ったら少量のコンソメスープを足し、ふたをして蒸し煮に。野菜がクタッとしたらミルクを投入し、塩と隠し味の砂糖ひとつまみで味を調ととのえて完成。大人用は仕上げに胡椒こしょうをかける。
 栄養があり体が温まる、消化も良くて朝食にはぴったりのメニューだ。
 このスープにパンをひたしながら食べるのもまた美味しい。
 ハノンはミルクスープと柔らかい丸パン、そしてオレンジジュースをテーブルに置いてルシアンを椅子に座らせた。

「さあ召し上がれ」
「いただちましゅ!」

 ハノンはこの朝の光景が何よりも好きだ。
 自分が作った食事を美味しそうに食べてくれる息子を眺めると、多幸感で心が満たされる。
 この幸せは絶対に守らなくてはならない。
 フェリックス=ワイズが何を考えているのかわからないが、ルシアンに侯爵家の血が流れていることを知られてはならない。
 もしルシアンを取り上げられたらと思うだけでハノンは恐怖で息が出来なくなる。
 最愛の我が子と引き離されるくらいなら死んだ方がマシだ。

(もう本当にフェリックス=ワイズとは極力接しないようにしよう……!)

 と、ハノンは決意を新たにした。


 ………だというのに。

「ハノン=ルーセル嬢、キミは私と同じ、王立魔法学園の卒業生だそうですね」

 ランチ休憩の時、なぜかわざわざフェリックス=ワイズがハノンのところまで来てそう言うのだ。
 それも一人でいるタイミングを狙っていたかのように。

「……なぜそのことを?」
「初めて会った時になぜか妙な既視感を覚えたんです。それがなんだか気になって。私は気になる物事を放置出来ない性格なので」
「そうですか……わたしに〝嬢〟をお付けになったのは没落子爵家の娘であることもご存知だからですね」
「……はい」

 そこで申し訳なさそうにされると腹が立つ。ハノンはカチンとなってつい言ってしまった。

「ええ。確かに王立魔法学園の出ですわ、ワイズ。ちなみに、わたしは知っております、貴方が令嬢達の前とそうでない時で言葉遣いと態度が全然違うことを。わたしはもう令嬢と呼ばれるイキモノではございませんし、どうぞ? 被った猫を脱ぎ捨ててお話してくださって構いませんわよ?」

 皮肉をたっぷり込めて、久々の貴族令嬢らしい言葉遣いをしてやった。

「……ほう」

 すると何を思ったのか、いや今の言い方が気に障ったのか、フェリックス=ワイズがニヤリと口の端を上げてハノンに答えた。

「さすがは同じ学園の出、だということか。知らないうちに見られていたようだな。まぁいい、こちらも色々とキミには話が聞きたいし、いちいち丁寧な言葉遣いをせずに済むのは助かる」

 さっそくですか。しかし何を聞きたいというのか。
 ハノンはダッシュでこの場から逃げ去りたかった。まさか初恋の相手にこんな感情を抱くようになるなんて。
 でもこれもすべて息子との生活を守るためである。

「ルーセル嬢……」
「〝嬢〟は付けないでください。仕事がやりにくくなります。ただのルーセルと呼んでください」

 フェリックスの言葉をさえぎってハノンは言った。

「女性を呼び捨てにするのには抵抗がある。ファーストネームなら話は別だが、ハノン?」
「……!」

 いきなり名を呼ばれ、ハノンは思わず息を呑んだ。

「ちょっ……勝手にファーストネームで呼ばないでっ」

 つい敬語を忘れてしまうほどに。

「あぁ、いいな。そういうフランクな喋り方。こちらも話しやすくなる」
「……侯爵家の方にこんな言葉遣いをしてしまい、申し訳ございません」
「俺がいいと言ってるんだ、さっきみたいに話してくれ」
「お断りです」
「ハノン」
「だからっ……!」
「卒業式」
「!」

 その言葉を聞き、ハノンはドキッとした。

「成績優秀者だったキミは、飛び級で一学年上の俺達と同時に卒業した、間違いないよな?」
「……それがどうかしましたか」

 ハノンは努めて冷静な素ぶりで返事をした。フェリックスは何かを探るようにハノンを見つめながら話を続ける。

「当然、卒業式には出席して、その夜に開催された祝賀パーティーにも出たはずだ」
「何がおっしゃりたいのかさっぱりわかりません」

 大嘘だ。今、心の中のハノンは滝のような大汗をかきまくりである。

(フェリックス=ワイズはあの夜のことを覚えてる?)

 どうしよう、いやどうしようじゃない、何がなんでもシラを切る!! と心の筋肉をマッスルにして備えた。
 しかしその時、救いの鐘が鳴る。昼休憩の終わりを告げる鐘の音だ。

(助かった!!)

 ハノンはシュバっと右手を上げてフェリックスに言った。

「大変! 業務に戻らなくては! それでは失礼します!!」
「おいっ……待っ……」

 フェリックスに有無を言わさずハノンはそそくさとその場を去る。
 令嬢とは思えない素早さにフェリックスは呆気に取られて見送る形となってしまった。

(逃げられたか……?)

 やはり怪しい。話せば話すほど、彼女がだと思わずにはいられない。
 あの夜、自分を救ってくれた女性ひとを忘れたことなど一日もなかった。
 暗く、誰もいない図書室。時折風に押されたカーテンの隙間から射し込む月明かり。
 そのもとで見えたプラチナの髪色。
 あと……何かの赤い花……胸元の赤い花。
 盛られた媚薬と催淫剤のせいで意識はかなり朦朧もうろうとしていたが、断片的にあの夜に起きたことを覚えている。

(絶対に事実を引き出してみせる)

 やはりこの地へ来たのは間違いではなかった。
 王都に帰ったらあの占い師に謝礼を弾もう……と、一人考えるフェリックスの後ろからふいに声がかかる。

「おい、フェリックス」

 振り向くとこの国の第二王子、クリフォードが立っていた。

「クリフか」
「クリフか、じゃないだろ。そろそろ午後から予定してる視察先に行くぞ」
「あぁ……」
「どうした? まさかとは思うが、例の女性が見つかったのか⁉」

 その言葉にフェリックスが反論する。

「まさかとはなんだ、まさかとはっ」
「だってお前っ……西方ここに来た理由が占い師に言われたからだぞっ⁉ 最初にそれを聞いた時、とうとうおかしくなったかと思ったんだぞっ⁉ それでもお前が思い詰めているのは知っていたし……だからわざわざ視察先をここにしたが、どう考えても普通じゃないだろうっ!」
「うるさい、わかってる! でもホントにもう八方塞がりだったんだよ! は迫ってきてるし、わらにもすがる思いだったんだっ……それに高魔力保持者の占いはバカにしたもんじゃないぞ。現にとうとう見つけたかもしれない」
「ホントに見つかったのかっ? 間違いないのかっ?」
「それはまだわからない。確認するのはこれからだ」
「そうか……その人が例の女性だといいな」
「そうだな……」

 ハノン=ルーセルがあの夜に出会った女性なのかどうか。仮に本人が認めなくても確かめる方法ならある。
 今日の調剤はモラレスが立ち会うことになっており、自分はこのまま視察へ向かわねばならない。
 今日は無理だが明日は必ず……次に彼女を捕まえたら白黒ハッキリさせてやる。
 と、固く決意するフェリックスだった。
 白黒ハッキリさせたくないハノンと白黒ハッキリさせたいフェリックス。
 二人の攻防が始まる。


   ◇◇◇◇◇


「や!」
「どうしたのルシー、何がそんなにイヤなの?」
「や! やなの!」

 少し前にイヤイヤ期は脱出できたはずなのに、今朝のルシアンは何をしてもイヤイヤ国の王子様であった。
 朝起きるのもイヤ、ゴハンを食べるのもイヤ、お気に入りのクマさんのパンツを穿くのもイヤ。
 とにかく何をするのもイヤがってぐずるのである。そしてハノンにしがみついて離れない。
 ルシアンの母親歴三年のハノンは確信した。

(これは体調が悪いんだわ)

 気分的に機嫌が悪い訳ではない、体調が悪くて機嫌が悪いのだ。
 ハノンは魔術で念書鳩メッセンジャーを出した。

「いつもみたいにメロディに今日は休むと伝えて」

 ハノンからのメッセージを聞き取ると、魔術で出来た鳩が窓から飛び立っていった。
 まっすぐメロディの家へ向かって伝えてくれるはずである。
 ハノンはルシアンを抱き上げた。

「ルシー。お熱を測って、ベッドに戻ろうか」
「まま、おうちいる?」
「ママはおうちにいるわ。ルシーの側にいるからね」
「まま……」

 ルシアンがハノンにしがみついた。こういう時、いつも我慢させてるんだろうなぁと切なくなる。
 本当ならずっと側にいてあげたい。でも働かなければ食べていけない。
 それに僅かに残る借金の返済もまだ終わっていない。
 ほとんどを毎月兄が払ってくれているが、たとえ少しの金額でもハノンも返していきたいのだ。
 ハノンは愛しい我が子を優しく包み込んだ。
 ルシアンは発熱はしていないけれど、念のために病院に連れていく。
 特に病気の症状は見つからなかったが、その日は一日機嫌が悪かった。
 しかし次の日はもうケロッとしていて、いつものルシアンに戻っていた。

(元気になってくれて良かった……)

 ハノンはいつも通り託児所にルシアンを預けて騎士団の医務室に出勤する。入室するとメロディが寄ってきた。

「おはよーハノン、ルッシーは大丈夫だった?」
「昨日はゴメンねメロディ。おかげ様ですぐに元気なルシアンに戻ったわ」
「良かったァ、でもアタシに出来ることあったらなんでも言ってネ。調剤の方もなんとかなるんだからさ」
「ありがとうメロディ。ホントに頼りにしてる。イイオンナね」
「やだもうっ! 当たり前ぢゃないっ!」

 メロディは照れながらハノンの背中をバシバシ叩いた。相当痛いが、これでもかなり手加減されていると思う。
 その後いつも通り業務をこなし、午前は終えた。
 しかしランチ休憩の時にまたあの男が現れた。フェリックス=ワイズである。

「昨日はなぜ休んだ? 体調が悪かったのか?」
「貴方に関係ありません」
「もう大丈夫なのか?」
「……はい、おかげ様で」

 大丈夫なのかと聞かれたら、無下むげには出来ないこの辛さ。

(ランチも食べたし、さっさと行こう)


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