上 下
77 / 83
第三部 最終章

再会

しおりを挟む
 お母さんに訊いても、きっと舞に会うことを反対するだろうから刑事から住所を教えてもらっていた。両親は舞が家を出てから一切彼女のことは口にしなかった。もちろん私も舞のことを訊ねたことはないのだから、何がどうということもないが、私自身の舞への関心や謝罪する気持ちを忘れていたことに嫌悪感が増幅し、昨日はまったく眠れず吐き気がとまらない。

 舞の住む最寄り駅。舞が生活している町。舞が普段見ている景色。舞が呼吸している空気。私と同じ顔がこの群れの中にあるかもしれないと思うと途端に自分の足元しか見れなくなってしまった。

 挙動不審になりながら駅を出て、舞の住むアパートに辿りつくと動悸がはやくなる。アパートから自然と遠ざかってしまう。やっぱり無理かもしれない。

 自販機でミネラルウォーターを買い、近くの公園のベンチに腰を落とした。渇ききった口の中に水を含み一気に飲み込む。変わらず気持ちは落ち着かない。心が圧迫されているようで息苦しい。

 ダメだ。やっぱり今日は帰ろう。また次の休みの日に来よう。逃げるわけじゃない。また別の日に出直すだけだ。ペットボトルを勢いよく傾けガバガバと水を流し込む。

 帰ると決めたせいか、少し気が楽になった。
 ベンチからスッと立ち上がったが、そこから少しも動けなくなってしまった。
  
 私と同じ顔がこちらを見ていた。いや、睨まれていた。血の気が引いて心臓が暴れ回る。

 もうダメだ。……殺される。彼女は乗っていた自転車から降りて公園の中に入ってくる。圧倒的恐怖が迫り来る。距離は二、三十メートルある。今なら逃げられる。走って逃げて、運よくタクシーをつかまえれば大丈夫かもしれない。うまく呼吸ができない。吸って吐く、のリズムとバランスが不規則で不均等だ。

 彼女は私から一切視線を外さずに歩みを進めてくる。逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ……今すぐ逃げろ! 危険信号が眼球の裏側で猛烈に点滅している。脚が動かない。動けない。脚が濡れている。失禁だ。失禁してしまった。

 いや、違う。ペットボトルの水が流れ落ちている。キャップを閉めず、傾けてしまっていただけのようだ。

 強烈な恐怖と不安の中、些細な安堵を手に入れたのも束の間、再び顔を上げると彼女が目前に迫っていた。もうダメだ。逃げられない。死ぬ死ぬ。殺される。

 私はペットボトルを投げ捨て、濡れた地面に額を擦りつけた。そして繰り返し唱えた。呪文のように唱えた。

 ゴメンナサイモウシマセンユルシテクダサイゴメンナサイモウシマセンユルシテクダサイゴメンナサイモウシマセンユルシテクダサイ……と。
  
 足音が傍までやってきて、威圧的な彼女の気配が縮み上がる私を丸呑みした。頭を踏み付けられるかもしれない。奥歯をきつく噛み締め、身体中にある全ての筋肉をギッと固める。けれど足音は呆気なく私を通り過ぎた。尻を蹴飛ばされるかもしれない。恐怖は続く。

「いつまで、そんなことしてるつもり?」

 後ろから聴こえる声。顔を上げた途端、顔面を蹴られるのだろうか。

 顔を上げず腋の下から後方を覗くと、彼女はベンチに座っていた。顔を上げると、彼女以外の公園にいた人たちも私を見ていた。

 座れば……と彼女は言った。私は膝についた砂利は掃わずにベンチのできるだけ端に腰かけた。

 恐怖を拭いきれないまま私は自分の足許だけをじっと見た。沈黙が心をどんどん重くする。

「何しにきたんだよ」

「……あの……その……」

 なんて言えばいい。言葉が出てこない。

「何もないなら行くから」

 彼女は立ち上がってそう言うとスタスタと歩き出した。

「待って!」私は慌てて立ち上がった。「ごめんなさい! ずっと謝りたかった。酷いことして本当にごめんなさい!」
  
 彼女はこちらに向き直り、フッと笑った。

「こっちはオマエのことなんか完全に忘れてたのに、私が双子であることすら忘れてたのに今更何なんだよ。私がこんな時に何なんだよ。オマエの顔を見て私が喜ぶとでも思ったか? オマエの謝罪なんて私にとって何の意味もない。ほんと、どうでもいいって感じ。じゃあね、バイバイ、もう二度と会うことないと思うけど、お元気で……。消えろ」

 そう吐き捨てた彼女は最後の最後に私を睨みつけた。それが全てを物語っている気がした。私は立ち上がることもできず、歩みとともに躍る彼女の茶色い髪をずっと見ていた。

 彼女がいなくなって、濡れた前髪が乾いても、私はそのベンチから動けなかった。

 ペットボトルが地面に横たわっている。中に水が残っている。色がない。生まれたての人間は水のように無色透明だ。最初はきっと誰もが透明だ。

 その透明に色が落とされていく。たくさんの色が混じり合うことで見たこともない綺麗な色が生まれることもあるだろうが、私と舞は違う。

 私は小学生の頃、舞に墨汁をかけたことがある。それも頭から。一度、黒色が入ってしまったら、どんなに綺麗な色でも暗い色になってしまう。私は舞に黒色を注ぎ過ぎてしまったのかもしれない。

 そんな無意味のような思考を延々と巡らせているうちに日が暮れてしまっていた。
  
 これでいいのだろうか。私が謝罪したところで何がどうなるというのだろう。私はただ自分の謝罪したいというエゴを舞にぶつけたに過ぎない。

 舞の子供は未だ意識不明の昏睡状態だと聞いている。草井くんが昏睡状態の時、私はどうだっただろう……。ただただ祈っていた。草井くんが回復することを。そんな心境の時にムカつく奴が現れたら私ならどうしただろうか……。

 深い溜め息が漏れた。わからなかった。何一つわからなかった。私はどうすべきなのか。どうあるべきなのか。無力だ。無力というよりも、私の存在は、この世界にとってマイナス要因なのかもしれない。少なくとも舞にとってはそうに違いない。

 夜が闇をつくりだしコバルトの空が急に泣き出した。太くて冷たい雨粒が容赦なく私を打ち付け一瞬で不快な冷たさが全身を被った。

 一分もすれば不快さが諦めに変わるほどずぶ濡れになってしまった。空を仰げば無数の針が私を目掛けて落ちてくるようだ。これが現実なら私は死んでるな……。

 私が何者で、何のために此処に居て、何という生物で……もう思考能力すら失いたかった。だからそのまま動かなかった。動けなかった。そのまま眠るように気を失った。
  
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】諦めた恋が追いかけてくる

キムラましゅろう
恋愛
初恋の人は幼馴染。 幼い頃から一番近くにいた彼に、いつの間にか恋をしていた。 差し入れをしては何度も想いを伝えるも、関係を崩したくないとフラレてばかり。 そしてある日、私はとうとう初恋を諦めた。 心機一転。新しい土地でお仕事を頑張っている私の前になぜか彼が現れ、そしてなぜかやたらと絡んでくる。 なぜ?どうして今さら、諦めた恋が追いかけてくるの? ヒロインアユリカと彼女のお店に訪れるお客の恋のお話です。 \_(・ω・`)ココ重要! 元サヤハピエン主義の作者が書くお話です。 ニューヒーロー?そんなものは登場しません。 くれぐれもご用心くださいませ。 いつも通りのご都合主義。 誤字脱字……(´>ω∂`)てへぺろ☆ゴメンヤン 小説家になろうさんにも時差投稿します。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

(本編完結・番外編更新中)あの時、私は死にました。だからもう私のことは忘れてください。

水無月あん
恋愛
本編完結済み。 6/5 他の登場人物視点での番外編を始めました。よろしくお願いします。 王太子の婚約者である、公爵令嬢のクリスティーヌ・アンガス。両親は私には厳しく、妹を溺愛している。王宮では厳しい王太子妃教育。そんな暮らしに耐えられたのは、愛する婚約者、ムルダー王太子様のため。なのに、異世界の聖女が来たら婚約解消だなんて…。 私のお話の中では、少しシリアスモードです。いつもながら、ゆるゆるっとした設定なので、お気軽に楽しんでいただければ幸いです。本編は3話で完結。よろしくお願いいたします。 ※お気に入り登録、エール、感想もありがとうございます! 大変励みになります!

【本編完結】実の家族よりも、そんなに従姉妹(いとこ)が可愛いですか?

のんのこ
恋愛
侯爵令嬢セイラは、両親を亡くした従姉妹(いとこ)であるミレイユと暮らしている。 両親や兄はミレイユばかりを溺愛し、実の家族であるセイラのことは意にも介さない。 そんなセイラを救ってくれたのは兄の友人でもある公爵令息キースだった… 本垢執筆のためのリハビリ作品です(;;) 本垢では『婚約者が同僚の女騎士に〜』とか、『兄が私を愛していると〜』とか、『最愛の勇者が〜』とか書いてます。 ちょっとタイトル曖昧で間違ってるかも?

記憶喪失の令嬢は無自覚のうちに周囲をタラシ込む。

ゆらゆらぎ
恋愛
王国の筆頭公爵家であるヴェルガム家の長女であるティアルーナは食事に混ぜられていた遅延性の毒に苦しめられ、生死を彷徨い…そして目覚めた時には何もかもをキレイさっぱり忘れていた。 毒によって記憶を失った令嬢が使用人や両親、婚約者や兄を無自覚のうちにタラシ込むお話です。

旦那様、これが内助の功なのです!〜下町育ちの伯爵夫人アナスタシアは旦那様の敵を許さない〜

腹ペコ鳩時計
恋愛
『内助って、こんな目立つの!??』 「これは政略結婚だ。君を愛するつもりはない」  どこぞの大衆娯楽小説で読んだ様な、オリジナリティの欠片も無い台詞から始まった結婚生活。  国有数の資産家である伯爵家の若き当主ユージーンと、下町育ちの公爵家の養女アナスタシアの、政略結婚から始まるちぐはぐストーリーは、ついに二人が結ばれた事で幕を閉じた……と思いきや!?  精霊が見えるアナスタシアの出生の秘密と失踪した両親の行方を追う二人は、否応なしに『かつて滅びた精霊の国』に纏わる継承問題に巻き込まれて行く。  隣国アウストブルクへ。フェイラー辺境伯領へ。 王都と領地を飛び出して、雑草魂の伯爵夫人、アナスタシアは今日も行く!  一方、まさかの旦那様にも不穏な魔の手が……!? 「夫婦の間に挟まろうとする人間は、精霊に蹴られても文句は言えません……よね?」 ⚠️《注意》⚠️  このお話は、拙作『旦那様、ビジネスライクに行きましょう!〜下町育ちの伯爵夫人アナスタシアは自分の道を譲らない〜』の続編にあたります。  前作を読んでいないと話の繋がりが分からないかと思いますので、もしよろしければ是非、前作もお読み頂けると、作者至上の喜びです! ※この作品は、小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。

【第一章完結】相手を間違えたと言われても困りますわ。返品・交換不可とさせて頂きます

との
恋愛
「結婚おめでとう」 婚約者と義妹に、笑顔で手を振るリディア。 (さて、さっさと逃げ出すわよ) 公爵夫人になりたかったらしい義妹が、代わりに結婚してくれたのはリディアにとっては嬉しい誤算だった。 リディアは自分が立ち上げた商会ごと逃げ出し、新しい商売を立ち上げようと張り切ります。 どこへ行っても何かしらやらかしてしまうリディアのお陰で、秘書のセオ達と侍女のマーサはハラハラしまくり。 結婚を申し込まれても・・ 「困った事になったわね。在地剰余の話、しにくくなっちゃった」 「「はあ? そこ?」」 ーーーーーー 設定かなりゆるゆる? 第一章完結

【本編完結】婚約者には愛する人がいるのでツギハギ令嬢は身を引きます!

ユウ
恋愛
公爵令嬢のアドリアーナは血筋だけは国一番であるが平凡な令嬢だった。 魔力はなく、スキルは縫合という地味な物だった。 優しい父に優しい兄がいて幸せだった。 ただ一つの悩みごとは婚約者には愛する人がいることを知らされる。 世間では二人のロマンスが涙を誘い、アドリア―ナは悪役令嬢として噂を流されてしまう。 婚約者で幼馴染でもあるエイミールには友人以上の感情はないので潔く身を引く事を宣言するも激怒した第一皇女が王宮に召し上げ傍付きに命じるようになる。 公爵令嬢が侍女をするなど前代未聞と思いきや、アドリア―ナにとっては楽園だった。 幼い頃から皇女殿下の侍女になるのが夢だったからだ。 皇女殿下の紹介で素敵な友人を紹介され幸せな日々を送る最中、婚約者のエイミールが乗り込んで来るのだったが…。

処理中です...