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第三部 最終章

約束

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 私はいつか鳴るかわからない電話の前で終わらない時を過ごしている。まるで底無し沼に沈み続けるように生きた心地がしない。

 草井くんを助けてください……草井くんを助けてください……草井くんを……真っ暗なリビングが急に明るくなった。

「桜ちゃん、まだこんなことしてたの? 桜ちゃんも頭怪我してるんだし、取り調べとかで疲れてるんだから、ベッドで寝ないとだめよお……」

 膝と手と額を床に付け、電話をまるで神仏のように崇めるような私を床から引きはがそうとする涙声のお母さん。私が全く動かないことを悟るとお母さんは私の背中にモーフをかけた。

「何か口にしないと身体に毒よ。お腹空いたらスープがあるから温めて食べなさいね」

 再び部屋が暗くなると私はモーフを畳み同じ体勢に戻る。私はとんでもないことをしてしまった。

 あの草井くんを育てたお母さんは、きっと優しい人なんだと思う。そんな人が私への憎悪を剥き出しにした。あの時、罵倒されて殴られた方が少しは楽だったかもしれない。

 私がしたこで……私が死のうとしたことで……私以外の人が悲しみと憤りに暮れている。
 草井くんの両親はもちろん私の親までも……。そして何より草井くんに……。

 床には私の涙と鼻水と唾液でできた後悔という名前の沼が拡がっていった。
  
 電話が鳴ったのは事件が起こってから二日後の朝だった。干からびた身体で私は病院へ向かった。草井くんのお父さんがロビーで待っていてくれて、草井くんの居る場所まで案内してくれた。ドアを開けると草井くんのお母さんが泣いていた。赤く腫れた目、やつれた顔が、これまでの時間を物語っていた。彼女は私に頭を下げ部屋を出ていってしまった。
 そして草井くんを見た途端全身の力が抜けて膝から崩れ落ちた。そして、ごめんなさいごめんなさい、と繰り返し、まるで幼児のように泣き叫んだ。

「私があんなことさえしなければ、草井くんはこんなことに……。もう、しません……。二度とあんなことしません。どんなに苦しくても、死ぬほど辛くても全て受け止めて、草井くんが護ってくれた命で、私は生きていきます……」
  
「ああ、わかったよ。でも、また死のうとしたら、ひっぱたいてやる。俺のビンタは死ぬより痛いぜ!」

 大きな拳を突き出した草井くんは強く笑ってみせた。私はその大きな拳を両手で掴んだ。温もり……生きているからこその、この温もり。生きてほしいと、ただただ願い続けた。あれからずっと一秒も余すことなく草井くんが生きることを願っていた。

 誰にも必要とされてない……、自分が死んだって誰も悲しまない……、そんなことを思っていた私を命をかけて助けてくれた。無意味だと思っていたこの命をだ。でも草井くんが私を必要としてくれた。

 自分に関わる誰かが居なくなったことを想像して、悲しい気持ちになったのなら、その相手も同じように自分のことを思ってくれてるはず。それなら辛くても苦しても生きていようと改めて思った。

 私は草井くんに生きていてほしかった。そして草井くんも私に対してそう思ってくれたに違いない。

 生きる意味? そんなのあるか本当はわからないけど、誰かを悲しませないためだけでも、それは存在意義なのかもしれない。
  
 病室を出ると、草井くんのお母さんが私を待っていたて、少しだけお話できますか? と彼女は言った。

「……はい」

 人気のない場所に移動した。何を言われるのだろうか。不安で仕方ない。それでも私は全てを受け止め自分の意思を伝えなければならない。

「先日は酷いこと言ってすみませんでした。息子がああいうことになって、気が動転してたんです」

「いえ、当然のことですし、謝るべきなのは私の方です。私の軽率な行動で草井くんがあんなことになってしまって、本当に申し訳ありません」

 私は深く頭を下げた。

「もういいんです。うちの息子だって、あなたの顔に傷を残してしまったんですから……」

「こんな傷痕、草井くんに比べれば何でもないです」

 彼女は俯いた。

「息子はあなたに何て言ってましたか?」

「詳しくは訊いてませんがリハビリすれば、すぐ退院できるだろう……って」

「そうですか……」

 そして私は意を決して訊ねた。

「また明日来てもいいですか?」

 彼女は私の眼を見ながら黙り込んだ。
  
「それは息子とあなたの問題ですよ」

 ホッとして涙が溢れた。

「……ありがとうございます。私、毎日来ます」

 そうですか……と言って彼女は踵を返した。その日の夜に草井くんからメールがあった。
 リハビリするために転院することになったとの事だった。私が転院先を訊ねると、かなり遠い場所としか教えてもらえず、さらに理由を訊ねると、見舞に来れるような距離じゃないし、教えたら無理してでも私が見舞に来るだろうと懸念していた。すぐ元通りになって戻ってくるから……。そんなやり取りを繰り返し、私が渋々納得した形になった。

 私は退学になった。両親は私が面倒を起こすことを嫌い、編入手続きもしなかった。マスコミが取り上げるような事件だったので仕方ないのかもしれない。

 しばらくすると草井くんと連絡がとれなくなった。病院に訊いても誰に訊いてもわからない。私は草井くんを信じて待つしかないのだろうか。ふと刑事からもらった名刺に目が留まる。刑事なら何か知っているかもしれない。すぐに電話をかけてみると、あの事務的な口調が私を出迎えた。

「清野ですが、お伺いしたいことがあってお電話しました」

「清野さん……? ああっ、高校の『飛び降り』の件ですね。それで、どうしました?」

『飛び降り』と称されたことが腹立たしかった。でも事実であることが情けなくて悔しくて、こんなことの為に草井くんを身代わりにしてしまったことを猛烈に悔いた。

「……草井くんの転院先をご存知でしょうか?」

「クサイ……クサイ……。ええと確か被害者の方ですよね? でもあの事件は既に私共の手から離れてますからね。そういった情報は入ってこないんですよね」

 名前すらろくに覚えちゃいない。一刑事にとって片付けた数ある内の一つにすぎないのだろう。

「でも、あの病院は医療レベルも低くないのに、どうして転院を?」

「リハビリをするとかで……」

「えっ、リハビリ? あれだけの重傷で、すぐリハビリのために転院なんて……」

 私は電話を切り慌てて家を飛び出した。 
 向かった先は病院だ。到着すると一度訪れた病室に飛び込んだ。

「どうして……? なんで此処にいるの?」

 私は乱れた呼吸を整える間もなく声を荒らげた。

「……え? どうして桜さんが?」

「ずっと心配してるのに! 私と関わりたくないなら、ちゃんと言ってよ! 草井くんがそれを望むなら私は二度と草井くんの前に現れないから」

「違う! そうじゃない!」

 草井くんは眉を八の字にして切実に訴えかけた。

「……ねえ、私、ずっと前から草井くんのことが好きよ」

「俺も桜さんのことが好きだよ。好きだからこそ迷惑とか心配かけたくないんだ」

「迷惑とか心配とか、そんなのどうでもいい。私、退学になっちゃって暇人なの。だから毎日遊びに来てもいいかな?」
 
 草井くんは俯いて黙り込んだ。何を考えているのだろうか。

「一つだけ約束してくれないか?」

 草井くんが意味ありげに言うので私は身構えた。

「……うん……何?」

「今日みたいに急に来たりしないで、来る前に必ず連絡してから来てくれないか?」

「……は? それだけ?」

「……ああ、それだけ」

 私は拍子抜けして笑った。

「そんなこと普通にするよ」

 私がそう言うと、それならいいんだ……と彼は苦笑した。それから私は約束と呼ぶに及ばないような約束を守り、毎日草井くんに会いに行った。

 草井くんのお母さんに会うことはなかった。私は彼女に心底憎まれているのかもしれない。もしかしてこれが約束の理由なのかもしれない。

 いつものように草井くんと時間を過ごした後、家路の途中、ケータイを忘れたことに気がついたので取りに戻ることにした。ケータイが無いので草井くんに伝える術がない。

 病室を出て30分ぐらい経った。今から戻ると草井くんのお母さんが来ていてもおかしくない。できるだけ会わないようにした方がいい。今さっき通った道をとぼとぼと引き返す。病院に入ると緊張感が高まる。病室の前で足を止めたのは話し声は聴こえない。

 私はドアを指一本分開けて、中を覗いた。それと同時に息を呑んだ。私はその光景をしばらく見ていた。そしてその光景を理解するまでに、もうしばらく時間を要した。そして私は息を殺したままそっとその場を後にした。
 

 
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