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第二部

痛み

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 愛は久しぶりに再会した郁人さんと遊び疲れたせいもあって、いつもより早く寝てしまった。

 そして私が食器を洗いながらのゴミ箱の残骸を覗き見ていたその時だった。後ろから急に口を塞がれる。

「声出すな……愛が起きちまうぞ」

 蛇口から落ちる水が食器に跳ね上がっている。トーヤは私の腰に手をかけた。ジーパンをずり下ろされる。

「なにしてん……」

 声を出そうとした私の頭を蛇口の下に押し込む。私の髪の毛を排水口が飲み込む。そしてトーヤは私の下着を脇にずらして乾いたまま強引に挿入した。

 地獄で聞き慣れた肉弾の音が部屋中に響き渡る。私の頭は冷水を浴び続けキンキンに冷やされていく。頭を上げようとすると、トーヤは私の首の根っこを掴んで耳元で囁く。

「お前、なに調子こいてんだよ。ガキなんかにデレデレしやがって。お前はオレの女で、愛の母親だろうが」

 そう言ってトーヤはとち狂ったように腰をぶつける。頭から水を被り続けてるせいで顔面の皮膚は氷のように冷たくなり、眼球だけが異常に熱かった。発狂しそうな感情を冷水が冷やし続ける。絶妙なバランスだ、と、もう一人の私が笑う。

 一緒に暮らし始めてから一切トーヤとはセックスをしなかった。私の仕事を気遣ってか、今までトーヤから求められたことはなかったし、私もする気にはなれなかった。久しぶりの性交なのか怒りなのかわからないがまるで獣のように腰を動かす。

 きっと郁人さんの似顔絵を見てトーヤは嫉妬したに違いない。あそこに描かれていた笑顔は、私が愛する人にしか見せないような笑顔だったのだろう。昔私と愛し合ったことのあるトーヤはそれを敏感に感じ取ったのかもしれない。
  
「わかってるんか? お前はこうやって毎日パンパンして男から金巻き上げてるんだ。お前は普通じゃないんだよ。あんな普通のガキなんて諦めろ……」

 トーヤの言葉は私の身体中を撫でるように這いずりまわる。私はそれを振り払うように、髪の毛を飲み込み続ける排水口に響かせた。

「誰が私をそうさせたんだよ」

「ああっ!  黙っとけコラァッ!」

 トーヤは私の首を強く押さえつけ、蛇口の水を強めた。滝のように打ち付ける水は辺りに飛び散り、私の上半身まで濡らしていく。トーヤは乱暴に私の尻に腰をぶつける。擦り切れるように熱くて痛い。次第に動きが早くなり、やがてトーヤは私の中で脈打った。トーヤが引き抜くとどろっとした液体が生物のように内股を這い下り、ずぶ濡れになった私は力無く崩れ落ちた。

 トーヤは肩で息をしながら半分熔けた顔で私を見下ろす。いったいなんなんだよ。なんでこうなっちゃうんだよ。どうしていつもうまくいかないんだよ。私がなにをしたっていうんだよ。……初体験の人に……旦那だった人に……笑顔をくれた人に……孤独から救いだしてくれた人に……痛いくらい愛していた人に……手を差し伸べた人に……罵られながら犯されるなんて……

 氷のように冷え切った頬を燃えるような熱い涙が走った。

「二度とあの男と会うな!  保育園も変えろ! わかったか!」

 私はトーヤを睨んだ。

「返事しろ!」

 私はトーヤの言葉を言葉を使わず全身全霊で拒絶した。するとトーヤは私の髪を掴んで、無理矢理頭を持ち上げた。

「痛ってえな!」

「言うこと聞けっ!」

 トーヤは感情を剥き出しにして、硬い拳で私を殴りつけた。

 私の頭は左にふっ飛びテーブルや椅子が弾け飛び食器が割れた。トーヤに初めて殴られた。

「いったい……あんたは私のなんなんだよ!」

 私は揺れる視界の黒い影に涙ながらに叫び散らした。

「うるせえ! 黙れ!」

 トーヤが怒鳴り私の顔面を目掛けて足を振り上げたその時だった。
 
「ママをいじめるなあああ!!」

 愛が叫びながら、その小さな身体で私を庇うようにして抱き着いた。

「……ママ、いたいねえ……」

 愛が私の唇に触れるとその華奢な指先は赤く濡れた。殴られたせいなのか視界の中の愛が揺れている。そして愛の瞳が輝いてゆらゆらと揺れている。涙を見てこんなにも綺麗だと思ったのは初めてだ。でもどうして泣いてるの? 私のほうが悲しくなるよ……。

「ママをいじめたら、愛がぜったいにゆるさないんだから!」

 振り返りトーヤに一喝した愛の小さな背中はとても大きかった。
 
「……愛、違うんよ。……これには訳があってな……」

 トーヤは腰を屈めて愛に近寄る。

「くるなあっ!!」

 愛は精一杯の力でトーヤを押し返す。愛の僅かな力にトーヤは呆気なく後へ転がった。なおもトーヤは縋り付くように愛に訴えかける。

「ゆ、許してくれ……なあ、愛……トーヤくんは愛のパパなんだ……本当のパパなんだぞ」

「そんなことない! 愛のパパはお空になったってママが言ってたもん! パパはいつだってお空から愛とママのこと見守ってくれてるんだもん! 愛のパパはバイクの運転が上手で、落ち込んでるママを励ましてくれて、いつも笑顔で優しい人だってママが言ってたもん! だから愛の大好きなママを叩いて怪我させて泣かせる人は絶対に愛のパパなんかじゃないもん!!」
  
「そんなこと言わんでくよ……許してくれよ! 二度とこんなことしないから! なんでもするから許してくれよ! 頼むよお、なあ、愛、なあ! なあああっ!」

 トーヤは悲痛な表情で愛の肩を掴む。

「……いたいっ、はなして!」

 愛が泣きながら嫌がっている。私はよろけながらもトーヤから愛を引き離した。

「……嫌がってんだろ! 愛になんかしてみろ。……ただじゃおかねえぞ!」

 愛は気を張っていたせいか私の腕の中で肩を揺らし声をあげて泣き出し、引きつけを起こしてしまった。
  
「ごめん、愛……ごめんよお、こんなつもりじゃなかったのにいいいい……ああ……ああ……もうダメだ……愛に嫌われちまった。終わりだ……もう全部終わりだ。もう何もかも終わりだあ……」

 そう歎いたトーヤは帽子もサングラスもつけず、うなだれながら家を出て行く。部屋は荒れ果て蛇口からは滝のように流れ続ける。髪からは冷や水が滴り落ち、上半身は冷え切ってジーパンは膝までずり落ちたまま腕の中の愛に言った。

「……愛、助けてくれてありがとね」

 すると愛が宝石のような涙を流しながら乱れた呼吸で私に言った。

「う、う……マ……マ、ママ……がいた……いと……愛もいたい……のお……」

 私と愛は抱き締め合い、まるで互いの存在に共鳴するように声をあげて泣いた。冷えきった身体を愛の温もりが私を保たせてくれる。愛が私を生かしてくれている。

 きっとトーヤもそうだろう。今度こそトーヤは死んでしまうのだろうか。でも、この時の私には愛を守ることが精一杯で、出ていったトーヤを気にかけることはできなかった。
 
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