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第二部

後悔

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 この部屋でコーヒーの入ったマグカップを二つ並べたのは何年ぶりだろう。

 ありがとう、と言ってトーヤはサングラスをつけたまま頭からバスタオルを被り、ニット帽を椅子に背もたれにか掛け、そして熱いコーヒーを啜った。私はそんな格好のトーヤを前にして目のやり場に困ってしまう。

 べつに許したわけじゃない。許せるわけがない。なのにどうして、呼び止めて家の中にまで入れてしまったのだろう。さらにはコーヒーまでだして……いったい私は何をしているのだろう。こんな男に何をしたかったのだろう。私は自分自身を理解できず困惑している。
  
「愛っていうんだな」

 トーヤは襖の向こうで眠る愛を見て言った。愛を起こさないように声を絞っている。

「気安く呼ぶんじゃねえよ。てゆうか、何で知ってんだよ」

「い、いや、その……」

 トーヤは慌てて視線をコーヒーに戻しマグカップを傾けて揺れる水面を見た。真っ黒なサングラスにトーヤの見ているものが映しだされる。マグカップの中は泥水が波打ち、蟻のように小さなトーヤが溺れかかっている。このままほおっておけば溺れ死んでしまうのだろうか。トーヤはそれを眺めながら口を開いた。

「……妊娠したのを知らされた時、俺すぐ単車乗って出てったよな……実はあん時どこかに逃げたい気持ちだった。

 借金もあったし前科もんだし、キレたら自分でも何するかわからんし、まして捨て子だった俺が、そんな奴が父親なんてありえねえしよ。

 そんなこと思いながら行く宛もなく、狂ったようにアクセル開けて、ただただ単車を走らせてたら、急に単車がイカれちまったんだ。
 街灯が少ない幹線道路でたまにトラックが通るぐらいだった。土地勘もない俺はそんな道をひたすら単車を押して歩いたら、なんかめっちゃ寂しくなっちまって、お前に会いたくて堪らなくなった。

 そんで連れに電話して迎えに来てもらった。車中で連れにいきさつを話したら、急にコンビニで車を停めて金おろしてきて。壊れた俺の単車に相場以上の金額を出してくれた。

 旧車の修理はパーツ代だけでもめっちゃ金がかかる。それは明らかに高すぎるからって断ったんだけど『祝儀だ、嫁さんに指輪でも買ってやれ』って言ってくれた。途中でドンキに寄って一緒に指輪選んでくれたんだ。最高にイカした奴だったわ。
  
 そいつのお陰で気持ちを入れ換えることができたオレはまず借金を返そうと思って、夜は飲み屋でバイトするにことした。飲み屋いってもラフな感じのボーイズバーで、そこである女と出会った。親密な関係になるまでそう時間はかからなかった。

 そんである日、その女が一緒に逃げてくれ、って言ってきたんだ。嫁がいるし子供産まれるし無理だ、って言ったら、『アンタも殺されるよ』そう言い返された。

 オレは墨の入ったその女の躰を何度も抱いてたし金も使わせてた。どっかの半グレグループの女だったんよ。どうりで羽振りがいいわけだよな。さすがにオレも焦って現状をすべて話したら女は不気味に笑った。

 半グレの女だけあって悪知恵は腐るほど持っててよ。逃げるためしばらく身を隠すための金がいる。オレがお前の通帳を持ち出せば女はその金を何倍にもすると言うた。俺は躊躇った。お前に借金を背負わしてまうことぐらい、俺でもわかってた。

『どうせ親に泣きついて払おてもらうんだから気にする必要ないって』

 その女の言葉に妙に納得してしまったんよ。
 ボーイズバーでバイトしてた大学生は学費を稼いでるわけでもなく、なんかワケのわからんシルバーのネックレスを買うためだけに金を注ぎ込み、そこで知り合う女と毎日遊んでた。

 親っていう奴は何百万も払ってバカ息子を4年間も遊ばせるどうしようもない人種なんだと思ってたんだ。だからお前の親も当然そういうもんだと勝手に思ってたんだ。今思えばオレが都合よくそう思いたかっただけだったんだけどな……。
  
 しばらく身を潜め、やがてほとぼりがさめると、オレと女は水商売を始めた。オレはホストで女はキャバ嬢。

 天職だったんかわからへんけど、三ヶ月でナンバー入りして次の月にはトップになった。売上のためだったら何でもした。枕営業はもちろん、えげつない売り掛け回収もした。

 そんなある時客の女と寝てたら、女の叫び声で跳び起きた。そんで俺の顔面に猛烈な激痛が走った。

 あまりの痛みにオレも声を上げたんやけど、隣の女の叫び声は尋常やなくて掻き消されちまうほどだった。女はベッドから転げ落ちて、まだ悶えてた。そしてオレは恐る恐る女の顔を覗き込んだ。
 
 女の顔面の皮膚はどす黒くなって、煮立ったカレーのルーみたくぶくぶくと水泡が浮き上がってた。ホラー映画に出てくるゾンビより醜くなって、オレは女の顔が破裂して脳みそが弾け飛ぶんじゃないかと思っちまうくらいだった。

 硫酸をかけられたらしくてよ。犯人はオレの女。つまり一緒に逃げた女だった。本当かどうかわからんけどオレにかけるつもりなかったらしいけど、隣に寝てたらそうもいかんよな。

 そんで被害者の女は自分の顔を鏡で見たその夜に……自殺しちまった。その自殺した女はキャバ嬢だったんだ。そのキャバ嬢の店のバックまで出てきて、オレは身ぐるみを剥がされ追い込みをかけられて、オレは顔の火傷も治らないまま、その街から逃げ出した。
  
 そんな放浪生活をしてるうちに自然とこの町にたどり着いてさ。町を懐かしむように歩いてたんだ。そしたらさ、保育園みたいなところの柵を乗り越えようとしてる女の子がいてさ。どうやら外に出たボールを取りたかったみたいでな。危なっかしいなと思って見てたら案の定バランス崩して落ちそうになって、オレは無我夢中でその女の子をキャッチしたんよ。オレは女の子を庇って転んじゃって、ニット帽もサングラスも外ちまってた。当然、腕の中の女の子もオレの顔見て泣き叫ぶだろうと思ってたら、やっぱり女の子は泣いてた。でもさ、女の子は潤んだ瞳でこう言ったんだ。

『お顔大丈夫? 痛くない?』ってよ」

 トーヤはそこまでいうとサングラスをずらし目頭を押さえ鼻を啜った。私がティッシュを差し出すと、震えた声でありがとう、と言って多めにティッシュを抜き取った。

「……オレさ……この顔になって初めてだったんよ……怖がらずに心配されたの……。なんとも言えない気持ちになったんだ。オレは女の子を柵の内側に戻して、問題になったら面倒だから二人だけの内緒にするように約束した。

 そんでオレはもう住んでないと思ってたけど、懐かしんでお前と暮らしてたアパートまで行ってみたんだ。そしたら、自転車に乗った親子が帰ってきた。一目でお前ってわかったよ。でもな、後ろに座ってるの女の子……さっき女の子だってわかった時……オレの子供だってわかった瞬間、なんかさ、運命みたいなもんを感じちまってよお……どうしても、もう一度、話したいと思っちまってよお……」

 トーヤはまたティッシュを何枚か抜き取り俯いて顔を拭う。全部見えてきた。遊園地で愛が迷子になったこと。郁人さんが翌日の約束をドタキャンし突然、私の店に訪れたこと。私たちをつけ回していたんだ。

「じゃあ、彼に私のことを?」

「……彼? な、なんの話だ? オレ、知らねえよ。 オレは何も言ってねえし」

「あんたバカ? 今、私『彼に私のことを』としか言ってねえよ。墓穴掘りやがって」

 トーヤはバツ悪そうに俯いた。そして開き直って口を開いた。

「……やめとけ、あんなヤサ男なんて。お前がソープ嬢って知ってどうだったんだよ」

「どの口が言ってんだよ。てめえなんかに関係ないだろ」

 サングラスには無気力な私が写り込んでいた。この女は誰だ。風俗嬢の愛だ。殴ってやれ。死ぬほど殴ってやれ。粉々に砕いて消してやれ。

「すまんかった!」トーヤは椅子から飛び降りて土下座した。「オレにチャンスをくれ! オレは死ぬつもりだった。だけど、あの子に会って、希望みたいなんもんを感じちまったんよ。オレはもう何もいらん。お前と愛の以外は何もいらん。お前と愛のためだったら何でもする。当たり前だけど借金も全部オレが返すから! なっ! 頼む! やり直すチャンスをくれ!」

 そう懇願して頭を床に擦り付けた。

「……フッ」

 私は口端を吊り上げて笑っていた。

「……金。かー、ね。……じゃあ金は? 金は持ってきてくれたの?」

「……い、今は無い。でもちゃんと働いてオレが返していくからよ」

 私は給与明細を取り出してトーヤの前に落とした。

「こんだけ稼いでこれる?」

「……あ、ああ……やってみせるよ。朝も夜も働いて……やってみせる」

「簡単に言ってくれるよなあ。こんだけ稼ぐのにどんな思いしてるのかも知らねえくせに。いいよねえ、都合悪くなって出ていって、また都合悪くなったら戻ってきて、やり直してくれって、それって都合良すぎだろ?」

「…………」

 何も言わないトーヤを尻目に玄関のドアを開けた。雨に濡れたゴミのようなサンダルに黒い足跡が染み付いている。

 トーヤおもむろに立ち上がり、椅子の背もたれにバスタオルをかけた。毟り取られたような頭が露わになり、雨水を含んだニット帽を被りなおすと薄汚れた雫が走り落ちる。この雨の中どこへ行くのだろうか。私の知ったことじゃない。

 トーヤは汚いサンダルを引っ掛けて、豪雨の中に飲み込まれに行く……。死ぬのだろうか。いや、死なないかもしれない。でも本当に死ぬかもしれない。これでサヨナラ。もう知らない。勝手にのたれ死ね……。クソッ! 私は人を死なすのか? 昔愛した男を死なすのか? トーヤを殺すのか? 愛の父親を殺すのか? 愛の父親を殺し、愛は悲しまないのか? そして私は後悔しないのか……? クソッ!

「おいっ! シャワー浴びてけよ!」
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