NOISE

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Book 1 – 第1巻

Op.1-23 – Toward

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「(明らかに違う……!)」

 瀧野は隣のピアノに座る、まだ幼い少女の姿を山内穂乃果と重ねる。目を閉じて両手を膝の上に置き、顔を下に向けたまま動きを止めるその姿勢は山内が演奏前に必ず行うルーティーン。
 
 一見、幼い子が憧れの人の模倣をしているようにしか見えないその姿。しかし、瀧野のミュージシャンとしての本能が、精神が、目の前の少女はそれとは明らかに異質であると告げていた。

––––9歳の小さな指が鍵盤に降り立つ

 光の左手がエントランスのリフを奏で始め、瀧野の左手と重なる。山内が作曲したエントランスのインプロ部分の左手は基本的に同じリフを続ける。このリフはオクターヴを越えた跳躍を要求され、更に16分音符を18個並べた音列であるため、ある程度の指の大きさと腕の強さがなければ演奏し続けることが難しい。
 光の指はまだオクターヴに届かない。跳躍とはいえこのリフを演奏することすらも困難で場合によっては指を痛めてしまう。そのため、瀧野は左手のリフだけを続けて光の即興を促していた。

「(このリフ、続けるの!?)」

 瀧野の驚きに気付くことなく光は右手で即興を開始する。

 エントランスのインプロヴィゼーションはFマイナーコードのみと1コードでの即興。key=Fmの♭数は4つでA、B、D、Eに♭が付与される。

 光は右手でこの4つの♭を守りつつ16分音符を羅列する。

「!」

 瀧野は光がただ16分音符を適当に並べているだけでないことにすぐ気付く。光は7音で新たなリフを創り出している。左手のリフパータンは18/16拍子。これとポリリズムを編み出す場合、普通は2と3で割り切れる特性を生かして右手は15拍子や12拍子といったどちらの数字でも割り切れる拍子を用いる。これは山内も例外ではない。

 しかし光の右手が奏でるはそのどちらでも割り切れない7拍子。

 つまり両手の頭の音が再び揃うのは左手は8小節目、右手は16小節目と大きく開く。これは脳で分かっていても身体がついてこないことが多い。どちらかの指が引っ張られてしまうからだ。
 しかし光は引っ張られることなくしっかり頭を揃えてそれぞれ異なるリフを正確に演奏する。

 右手がリフから離れ、メロディーを形成し始める。光の右手は18/16拍子のリフの上で自由に演奏される。そしてその右手の拍子は独立してほぼ毎小節変化する。その間も左手は右手の自由な動きに惑わされることなく一定のテンポで正確にリフを刻む。

––––圧倒的なタイム感とリズム感

 光の自由な演奏を可能としている主な要因はこの2つ。タイム感とは音と音との間隔を把握してそれを維持する能力で、リズムキープの要となる力である。
 対してリズム感とは音と音の間にある音符を正確に導き出せる能力のことである。巷で聞かれる『リズム感の良い人』とは『走らず、もたらず、正確に音符を分割して演奏できる人』のことを指す。また、光はリズムに強弱をつけて平坦さを消し、聴く者に退屈さを感じさせない。

 光はそのタイム感から左手のリフパターンの1拍目を正確に把握し、狂いなく一定のテンポで刻む。そしてそのタイム感を常に維持しながら右手で自在に拍子を変えて合わせ、メロディーを奏でる。

「(まずい、私がついていけなくなる)」

 もはや瀧野には光の右手を一方的に楽しむ余裕はなく、補助に入っている左手のリフをキープさせることに集中力が削られる。

 光を見るに頭で考えてこれを行っている様子ではない。どこでこの感覚を身に付けたのか、あるいは彼女の生まれつきの才能か、いずれにせよ隣にいる、恐らく自分の年齢の1/3程度の幼い少女に畏れにも近い感情を瀧野は抱く。

「(メロディー展開はまだまだ稚拙。そしてそのフレーズは山内さんからの影響が大きい、というよりほぼ100%それ。それでも自分の色を少しずつ織り交ぜながら演奏している)」

 少しずつ光の左手に限界がきたのか、音が弱々しくなり、それを気にするように右手の勢いが止まり始める。それでも1拍目は正確に把握しており、ブレがない。

「(やはり華奢な腕にこのリフを続けるほどの持久力はまだない。音もまだ芯が通ってない部分が散見される。それでもそれを補って余りある才能。適切な指導者に合えば唯一無二の存在になれる)」

 折本恭子の一人一人の生徒に合ったレッスンで伸び伸びとその才能を育むスタイルは光にとって理想的と言える。しかし、折本はクラシック音楽が専門でポピュラー音楽に精通しているわけではない。また、作曲に関してもある程度は指導できるが、上の基準、つまりはプロ基準のラインを越えればその指導も限界を迎えるだろう。

 瀧野の合図に応じて光が即興をフェイドアウトし、瀧野は再びエントランスのテーマ部分に戻る。それを横からじっと見つめる光を感じながら瀧野は光の今後について思考する。

––––私なら導けるか?

 当時の瀧野は27歳。デビューまでの3年間はレギュラーで多くの生徒をレッスンしていたがデビュー後には特別レッスンという形でごく稀に指導をする程度となり、ここ最近ではその忙しさから皆無となっている。

 LMI卒業後にあらゆる生徒を見てきたが、瀧野自身は楽しさを覚えていた。指導する生徒がみるみる成長していくその姿には喜びを感じる。
 しかし、それ以上に世界の多くの人に自分の音楽を知ってもらいたいという野望が大きく、まだ若い自分は自身の音楽活動を優先させたいという思いが強かったため、デビューが決まってからはレッスンすることを抑えてきた。

 自分の目の前に突然現れた圧倒的な才能。この才能を育てる手助けを自分はできないだろうか? いつの間にか瀧野は光の成長に自分が関わることに興味を持ち始めていた。

「(いやいや、勝手に私は何を考えているんだ)」

 エントランスのエンディングのキメを終えた瞬間に瀧野は我に返る。

「私、お姉ちゃんみたいにいっぱい弾けるようになりたーい!」

 光の言葉に思わず振り向く。

「光ちゃんは何歳?」
「9歳!」

 年齢を聞いて少し驚いた表情を浮かべた後に瀧野は話を続ける。

「光ちゃんはピアノ弾いてる時、何か考えてる?」
「いっぱいピアノ弾きたいって考えてます!」

 質問の意図を理解されていないために瀧野は言葉を変えて聞き返す。

「えーと、例えばリズムとかは?」
「んー?」

 光の様子から基本的に何も考えていないことを察する。

「(天然か……)」

 光のタイムとリズムの才能は恐らく山内を凌駕する。これを更に強化しつつオリジナリティーが加われば日本人史上最も才能豊かな女性ジャズピアニストとも称される山内にも届きうるかもしれない。

「それじゃあ、作曲好き?」
「大好き!」

 ここで会話を聞いていた折本が口を挟む。

「光ちゃんはどちらかと言うと作曲の方が好きだもんね」

 その言葉により一層、光に興味を抱く。

「光ちゃん、お姉ちゃんと一緒に作曲してみない?」

 不意に口を突いて出た言葉。多忙になってきている自分にそんな時間はあるのか? そんな不安が一瞬よぎったもののマネージャーの木村に何とかしてもらおうと思い直し、光の返答を待つ。

「したい!」

 舞が光の迎えに来ていることに気付いた折本は彼女を招き入れて瀧野を紹介、経緯いきさつについて説明する。瀧野は両親のことを考慮に入れておらず、内心焦ったものの、人見知りの光が初対面の瀧野に懐いている様子と光の熱意にその提案を承諾した。 

 瀧野が日本に拠点を移すまでの2年間は帰国している時を除いてオンラインでレッスンし、5年前に拠点を移してからは月に1度、滝野が直接福岡へと赴き、作曲を中心としたレッスンを無料で行うようになった。

 光の音楽性・創造性を育てること、それが音楽界、ひいては芸術分野全体の成長を促すと瀧野は確信し、光の奔放さや天然、気まぐれに四苦八苦しながら熱心に指導を続けている。

 
<用語解説>
・タイム感:音と音との間隔を把握してそれを維持する能力。拍をいかにズレずに正確に感じられるかである。

・リズム感:音と音の間にある音符を正確に導き出せる能力。タイムを分割する感覚である。また、リズムには強弱があり、強さは均一ではなく、強かったり弱かったりする。リズムを正確に感じられて且つ、この強弱を上手につけられることが「リズム感がよい」と称される。

・グルーヴ感:一般的にはよく「ノリ」と説明される。リズムを刻む際、正確な拍に対して、あえて刻みを微妙に早くしたり(クう)、微妙に遅くしたり(タメる)することがある。このときに生まれるリズムのうねりのようなものをグルーヴという。グルーヴ感とは、タイムを同期しつつ、あえて(もしくは無意識的に)、このグルーヴを生み出す感覚である。



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