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Book 1 – 第1巻

Op.1-16 – The Well-Tempered Clavier

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 『平均律クラヴィーア曲集』はバッハが作曲した鍵盤楽器のための作品集で1巻と2巻がある。それぞれ24の全ての調による前奏曲とフーガで構成される。

 光のレベルであればもっと早くにこの曲集に取り組んでいてもおかしくないのだが、これも光のモチベーションが関わっている。光は小さい頃からバッハとモーツァルトをあまり好んでいない。前者は無機質でつまらない感じがすると言い、後者は単純に音使いが好みでないらしい。

 折本は特にバッハを優先的に取り組ませようと説得してきた。理由はいくつかあるが、大きなものとして家庭の事情を考慮しないのであれば、折本は光に音楽の道を進んで欲しいと思っていることにある。 

 音大受験において課題曲としてよく使われるのが『ショパン エチュード集』『ベートーヴェン ソナタ全集』そして『平均律クラヴィーア曲集』である。
 もし光が音大受験をするならば、ピアノ科ではなく作曲科に進む可能性の方が高いが、それでもこの3つは音楽を志す者として必要なものであると折本は考えている。

 ショパンやベートーヴェンは何の心配もなく取り組んでくれるのだが、バッハに限っては小さい頃からやる気が一気に低下する。
 しかし、『平均律クラヴィーア曲集』は各声部が影響し合って構築する立体的な音楽、その調性や美しい響き、計算された構成を実際に演奏し、理解することは作曲が好きな光にとってとても重要で、彼女の更なるレベルアップを図るには最も適した曲集だと折本は確信している。

 そんなバッハを嫌う光が先週のレッスンで突然、「バッハを弾いてみたい」と言い始めた時には折本は驚くと同時に音大受験を考え始めたのかもしれないと少し嬉しく思った。
 だが実際に理由を聞いてみると、光の好きな音楽であるロックやプログレッシヴ・ミュージックで多くのギタリストやキーボディストがバッハに影響されたフレーズを技巧を交えて演奏しているという動画サイトのコメントに気付き、自分も弾いてみたいと感じたらしい。

 光らしい理由に折本が思わず笑ってしまい、その様子を不思議そうに眺めていた光を横目に、動画サイトのコメント主に感謝しながら「とにかくやってみよう」と言ってこの『平均律クラヴィーア曲集』を練習曲として課した。

 光に最初に課した曲は『第1番ハ長調 前奏曲』と『第2番ハ短調 フーガ』。

 第1番のフーガは4声の構成で複雑となっており、一般的にはフーガの経験を積んでから取り組ませることが多い。勿論、光の実力ならばこなしてくることは可能であるが、「つまらない」と再び言いそうであることと、全体を把握しやすい構成且つ手に馴染みやすい3声であるという理由で第2番のフーガを選んだ。
 対してプレリュードに第1番を選択したのは単純に有名であるために弾きながら楽しめると思ったからである。

 光が『第1番ハ長調 前奏曲』のページを開き、膝の上に両手を置き、背筋を伸ばして呼吸を整える。しばらく譜面を真っ直ぐ見つめた後に、1度目を閉じて大きく息を吸い、両手を鍵盤の上に乗せる。

––––|ドミ ソドミソドミ – ドミ ソドミソドミ |……

 光の華奢な細い指から有名な美しいメロディーが奏でられる。1番プレリュードは3声からなる構造で左手で2声、右手で1声を紡ぐ。この曲は4/4拍子 (1小節に4分音符が4つ入る拍子) の曲で、2拍を一塊としてそれを2度繰り返す構成が基本的に続く。

 左手はまずベースに2分音符を鳴らして伸ばしつつ (1小節目におけるC音)、別の指を使って16分休符の後に付点8分音符とタイで接続して4分音符でベースとは別の音を伸ばす。(1小節目におけるE音) 
 右手は8分休符の後 (左手の2声が奏でられた後) に16分音符3つ (1小節目におけるG–C–E) を1セットとしたアルペジオを2回繰り返す。
 ここまでで4拍の内、2拍を消費するが、この一連の流れをもう1度くり返して1小節を構成する。(最後の3小節だけ少しだけ構成が変わる)

 『平均律クラヴィーア曲集』では強弱や速度記号などが (出典にもよるが) 記載されていない。バッハはこの曲集をクラヴィーア、すなわちクラヴィコードやチェンバロのような (ピアノが作られるよりも前の) 鍵盤楽器のために作曲しており、それらの楽器は当時、強弱などが付けにくかったことから想定していなかったためと言われている。

 そのため、演奏者は自分の解釈でこの曲集を演奏する。とは言っても多くの場合は数多の音源を聴いて解釈のすり合わせを行って演奏を完成させる。

「(あなたはどう弾く?)」

 折本は光がどう演奏してくるのかを密かに楽しみにしていた。

 光はベース音を2拍ずつ正確に伸ばし、しっかりとベース音を響かせる。その後に続く2声音も譜面通りに伸ばしつつ、右手のアルペジオを一息にまとめて最後の音を伸ばしすぎない程度に切る。
 演奏開始直後、光はなるべく抑揚を抑えて優しく2拍の塊を弾き、2回目もそのまま演奏を続ける。

––––| ドミ ラレララレラ – ドミ ラレララレラ |……

 4小節目まで大した変化をつけないまま5小節目に入るとこれまでの右手のアルペジオを演奏する指が広がり、オクターヴまで届く。すると光は僅かに指に力を入れてA5の音をよく響かせる。
 そして6小節目ではアルペジオの感覚が再び狭まる。6小節目では臨時記号のF♯、更にC–Dとぶつかる音が使われてこれまでとは違う響きが始まる。光はこれらの音を僅かにアピールしつつ美しくピアノの鍵盤を押す。

 プレリュードは5小節目、6小節目の和音の動きの後、7小節目からはト長調へと転調する。このままト長調のまま11小節目まで続く。

––––| ソシ♭ ミソド♯ミソド♯ – ソシ♭ ミソド♯ミソド♯ |

 ここでもいきなり響きに変化が起こる。減七の和音が奏でられ、光はこれをしっかりと意識して弾き、少し時間をかけてドロドロとした印象で演奏する。次の13小節目ではサラッと弾き流し、14小節目で再び減七の和音が現れた際にはまたしても雰囲気を暗く変え、15小節目では弾き流す。

「(上手い)」

 光は、流れを断ち切るような不思議な印象の部分では気持ち遅く、強調、その次の音では帳尻を合わせるかのように気持ちスピードを速めて抑揚なく弾くことで楽曲全体のスピードが速くなり過ぎたり、遅くなり過ぎたりしないように自分でコントロールし、表情を付けて演奏を続ける。

 19小節目で1小節目のオクターヴ下の音でハ長調の1度の和音。20小節目の属七の和音を経由して21小節目で一瞬、ヘ長調に転調し、減七やぶつかった音を使った不思議な響きが続く。ここで光は再びじっくりと演奏し強調させる。

 ここまでで光は20小節ほどしか演奏していないものの、その研ぎすまれた感性と表現力でシンプルな構成のプレリュードに荘厳な印象を与える。森の中に流れる小さな川。その水が上流から下流へ進むまでにある取り止めもない物語を描いているようである。

 24小節目から31小節目までベース音としてG音を響かせる。G音はハ長調における5番目の音であるため、この持続するG音はドミナントペダルと呼ばれ、緊張感を高める効果がある。
 光は最初から強く演奏せず、小節が進むにつれて音を膨らませてクレシェンドさせていく。正に楽曲のクライマックスへと続くことを意識して演奏する。

 32小節目にあるC音へとそれまで溜め込んできたものを放出し、音型の変化する最後の3小節に突入する。33小節目、34小節目のアルペジオで少し勿体ぶって演奏し、特に最後の16分音符4つ (1拍分) に時間を費やし、最後の全音符のハ長調1度の和音へと帰結した。

 光が音を十分に伸ばして指を鍵盤から離した瞬間に折本は思わず軽く拍手し、「上手」と呟く。

 光は少し照れながら笑い、折本のその後に続く言葉を待った。


<用語解説>
・音名について①:ド–レ–ミ–ファ–ソ–ラ–シの7音はそれぞれC–D–E–F–G–A–Bに対応する。臨時記号(♭や♯)はその音の右側に表記する。この小説では会話の流れや文章の流れで使い分ける。

・音名について②:今話にあったC5といった表記について、音名の後の数字は音の高さを表す。中央のC音 (ドの音) をC4として1オクターヴ (全部で12音) 上がるごとに数字が増え、逆に1オクターヴ下がるごとに数字が減る。

・演奏表現について:本作では基本的にドレミ……の音名で表す。なるべく音の塊で分け、半角スペースで表現する。また、イマジナリーバーラインを"–"、小節線を"|"で表す。

・イマジナリーバーライン:架空の区切り線。4拍子の場合、拍分の場所に架空の区切り線があると考える。その線をまたぐようなリズムの書き方は基本的にはしない。これは譜面を見やすく書く際に意識されることである。

・平均律:1オクターヴなどの音程を均等な周波数比で分割した音律。西洋音楽で用いられる十二平均律 (1オクターヴを12等分する) がよく知られている。

・Prelude (プレリュード、前奏曲):規模の大きい楽曲の前に演奏する楽曲を指す。後に独立した即興性の高い曲となった。通常は声楽を伴わない器楽曲で演奏される。

・Fuga (フーガ、遁走曲):対位法を主体とした楽曲形式の1つ。曲の途中から、前に出た主題や旋律が次々と追いかけるように出る曲。

・アルペジオ:和音を構成する音を一音ずつ低いものから (または、高いものから) 順番に弾いていくことで、リズム感や深みを演出する演奏方法である。

・クレシェンド:だんだん強く

・Diminished 7th Chord (減七の和音、ディミニッシュ):根音と第三音の音程、第三音と第五音の音程、第五音と第七音の音程も全て短三度。コードネームとしてディミニッシュは"dim"で表される。

・Dominant 7th Chord (属七の和音、ドミナント):属音上から作られた七の和音のことで音程構成は、『長3和音 + 短3度』



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