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ゾンビの坩堝【7】
ゾンビの坩堝(66)
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そうだ、ロバ先生……――
ぼわっとした頭に浮かび、自分はふらふらと立ち上がった。起床時間前のトイレ誘導では、いつも尿取りパットはびっちょり……取り替えるのが遅れたら……――
息を乱して106号室に入ったところ、仰向けのロバ先生は口を半開きにしていた。いびきもかいておらず、血の気のなさもあって遺体と間違ってしまいそうだ。輪投げのごとく声をかけ、数ミリずつ近付くとまぶたが動き、わずかに開いたので自分は安堵した。
朝ですよ、起きてください――
自身のウォッチを背中に隠し、掛け布団を無造作にはいだところ、ぬふっと悪臭……股の湿ったパンツが目に飛び込む。これは、尿だけじゃない……とにかく、早いところどうにかしなければ……スピーカーからの脈動に焦り、タイムリミット間近の時限爆弾を持て余して自分は手振りをした。
早く、早く起きて! 漏れてますから、今すぐトイレに行かないと! ほら、サンダル履いてください!――
やっとのことで起き上がりはしたが、くしゃくしゃの白髪頭は垂れたままだった。もたもたしていたら朝の体操が始まってしまう……参加できなかったら、自分の評価は……語調を強め、躍起になるもロバ先生はうつむくばかり……互いのウォッチが鳴り出し、とっさに下がった自分は相手をにらんだ。アラートがのぼせた奥まで響き、ぎりぎりと歯がみして……こみ上げるものが噴き出す寸前、遠慮がちなノックが聞こえた。
「どう? 様子は……」
部屋をのぞき、壁に手をつきながら入ってくるディア……自分は憤った顔を背け、ウォッチを押さえながら奥に離れた。ディアはおおよその状況を察したらしく、パイプベッドの足下側にふらつきながらしゃがんだ。
「お、おはようございます……」
掛け布団に手を置き、ディアは顔をのぞき込んだが、相手の反応はなかった。
「あの、どうされましたか……」
「……死にたい」
ぽたり、とロバ先生は漏らした。隅の自分は水をかけられたようになり、ディアはぐらついて倒れそうになった。
「……死にたい、ですよね……」
パイプベッドを支えにし、ディアはたどたどしく、それでもかみ締めようとするように口にした。自分はただ、ふたりを見ていた。外からあおり立てる音楽をよそに、そこだけの時が重ねられていく……と、それぞれのウォッチが騒ぎ出して、よろけたディアが床に膝をつく。ロバ先生は左手首の黒い輪に目をやり、おもむろにベッドから足を下ろした。
「せ、先生、どちらへ?」
「……帰らないと……」
アラートを誤解したのか、裸足でよたよたと部屋を出ていこうとする。
「そ、それでしたら……あの、わたしがご案内します。ええと、その前に身だしなみを整えましょう。寝起きのままですから……」
ああ、とロバ先生は鈍くうなずき、黒サンダルを履かされた。その腰に手を添えたディアは替えの尿取りパットを一枚持ち、こんなふうに対応すればいいよ、という顔をこちらに向けて、アラートに構わず付き添っていく。後を追わない自分の前で、片引き戸は緩やかに閉まった。
ぼわっとした頭に浮かび、自分はふらふらと立ち上がった。起床時間前のトイレ誘導では、いつも尿取りパットはびっちょり……取り替えるのが遅れたら……――
息を乱して106号室に入ったところ、仰向けのロバ先生は口を半開きにしていた。いびきもかいておらず、血の気のなさもあって遺体と間違ってしまいそうだ。輪投げのごとく声をかけ、数ミリずつ近付くとまぶたが動き、わずかに開いたので自分は安堵した。
朝ですよ、起きてください――
自身のウォッチを背中に隠し、掛け布団を無造作にはいだところ、ぬふっと悪臭……股の湿ったパンツが目に飛び込む。これは、尿だけじゃない……とにかく、早いところどうにかしなければ……スピーカーからの脈動に焦り、タイムリミット間近の時限爆弾を持て余して自分は手振りをした。
早く、早く起きて! 漏れてますから、今すぐトイレに行かないと! ほら、サンダル履いてください!――
やっとのことで起き上がりはしたが、くしゃくしゃの白髪頭は垂れたままだった。もたもたしていたら朝の体操が始まってしまう……参加できなかったら、自分の評価は……語調を強め、躍起になるもロバ先生はうつむくばかり……互いのウォッチが鳴り出し、とっさに下がった自分は相手をにらんだ。アラートがのぼせた奥まで響き、ぎりぎりと歯がみして……こみ上げるものが噴き出す寸前、遠慮がちなノックが聞こえた。
「どう? 様子は……」
部屋をのぞき、壁に手をつきながら入ってくるディア……自分は憤った顔を背け、ウォッチを押さえながら奥に離れた。ディアはおおよその状況を察したらしく、パイプベッドの足下側にふらつきながらしゃがんだ。
「お、おはようございます……」
掛け布団に手を置き、ディアは顔をのぞき込んだが、相手の反応はなかった。
「あの、どうされましたか……」
「……死にたい」
ぽたり、とロバ先生は漏らした。隅の自分は水をかけられたようになり、ディアはぐらついて倒れそうになった。
「……死にたい、ですよね……」
パイプベッドを支えにし、ディアはたどたどしく、それでもかみ締めようとするように口にした。自分はただ、ふたりを見ていた。外からあおり立てる音楽をよそに、そこだけの時が重ねられていく……と、それぞれのウォッチが騒ぎ出して、よろけたディアが床に膝をつく。ロバ先生は左手首の黒い輪に目をやり、おもむろにベッドから足を下ろした。
「せ、先生、どちらへ?」
「……帰らないと……」
アラートを誤解したのか、裸足でよたよたと部屋を出ていこうとする。
「そ、それでしたら……あの、わたしがご案内します。ええと、その前に身だしなみを整えましょう。寝起きのままですから……」
ああ、とロバ先生は鈍くうなずき、黒サンダルを履かされた。その腰に手を添えたディアは替えの尿取りパットを一枚持ち、こんなふうに対応すればいいよ、という顔をこちらに向けて、アラートに構わず付き添っていく。後を追わない自分の前で、片引き戸は緩やかに閉まった。
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