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黒い鬼
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真っ黒な沼のほとりに近付くと、草履がぬっと地面にめり込んだ。びくっとして立ち止まり、暗がりに目を凝らしながら恐る恐る一歩……また一歩と足を出すたびに、ぬっ、ぬぬっと体がわずかに沈む。おどろおどろしく絡み合う枝葉の影、その隙間からわずかに月明かりが漏れる山中はねっとりとした幽暗に満ち、まげを解いたざんばら髪の下からあふれた汗が、一糸まとわぬ姿をかすめて落ちる。突然、ずぶっと沈んでしまうかもとおびえながらほとりに寄り、そろそろとしゃがんで足元に触れると、手の平にべったりと泥が付く。それを右の胸に塗り、また泥を手に付けて今度は鎖骨、肩……上腕から前腕を経て指先、胸からみぞおち、腹から脇……腰から下へ……中途半端に硬くなった陰茎に塗ると、下腹部からぞくぞくした。尻とその割れ目に続いて太ももからひざ頭、ふくらはぎと来て、草履を脱いだ足の先まで塗り、仰向けになって背中をこすりつけ、仕上げに両手で泥をすくって顔に塗り付ける。
そうして全身真っ黒になると、先刻空腹を紛らわすために木苺や木の実、野草などを手当たり次第口にしたことと相まって、まるで自分が人ではない何かに変わったような錯覚に蝕まれる。
どうです、ちゃんと塗れましたか?
振り返ると、薄闇にかろうじてキジの輪郭が分かる。キジの方はそこそこ見えているらしく、ほうほう、なるほど、とうなずいている。その後方、ちょっと離れた闇にかすかな息遣いがあり、どうやらイヌがいるらしかった。
下地はそれくらいでいいでしょう、そうキジは満足げに言い、次に移りましょう、とサルを呼んだ。すると、がさがさと何かを引きずる音とともに小柄な影が浮かぶ。
では、これを身に着けてください。
引きずられてきたもの、それはサルが夜陰に乗じて海村から盗んできた蓑と腰蓑……稲藁を編んで作られたそれら雨具を沼のそばに置き、泥で表も裏もくまなく塗っていく。それが済むと、重くなった蓑をざんばら髪から通して黒い肌の上にまとう。その間にサルは赤ら顔を泥で黒くしていた。
それでは、仕上げに入りましょう。
キジの指示に従ってしゃがむと、肩にサルがぴょんと飛び乗って肩車の格好になる。毛深い左右の手には、刀で先端を尖らせた太い枝がそれぞれ握られている。その上から泥を塗った腰蓑をかぶせて腰紐を締め、藁の間からサルが顔を出し、尖った枝を左右から突き出す。その下のこちらの顔は隠れるように、藁の間から外が見えるようにして……こうすることで頭一つ高くし、けだものじみた、鬼と見まごう面構えを目に焼き付けさせることができる。キジが頭から足先まで視線を上下させ、ふむとうなずいた。
いささか拙いですが、まずまずです。この暗さなら十分欺けるでしょう。
自分では確かめられないが、黒い腰蓑をかぶった黒面の左右から角状の突起物を出し、黒い蓑でひざ下まで覆った姿は、海村の衆といえども白日の下でもない限り見分けはつきにくいだろう。キジの話では、北国にはこのように藁の衣装をまとった鬼の伝承があるらしい。頭の上でキキッと高ぶるサル――硬くそそり立った一物が、後頭部に押し付けられるというか突っ込まれたようで実に不快だったが、張りぼてが本物になった、自分にサルではなく一個の鬼だと感じられてきた。
本当に、やるんだな……――
泥と藁とに蒸され、半ばのぼせながら口にする。だが、何度問うても結論は変わらなかった。鬼が悪事を働いていることにしなければ、こっちが破滅しかねない……――
……いたずらに傷付けるつもりはないからな。キジを見下ろし、念押しする。鬼退治もやむ無しって思わせるだけでいいんだ……――
もちろんですよ、とキジはさも当然そうに返し、薄闇を仰いだ。夜も大分更けてきました。そろそろ頃合いですよ。
ほとりから離れ、よじれた幹に立てかけていた刀を抜き放つ。あそこには屈強な海の男たちもいる。甘く見ていたら、返り討ちに遭うかもしれない……ぎこちない動きにキジが、あなたには鬼を退治した腕があるのだから、と羽ばたく。
鬼どもに比べたら、あんな連中など恐れるに足りません。
がさっ、とイヌのいる辺りで下生えを踏む音がする。前足で踏み出すようなそれは、いまいち鈍い自分の背中を押した。
さ、もたもたしてはいられませんよ。
ケーッと低く鳴いたキジの後について戻り、灌木の間から入り江が臨める斜面に立つ。海村はすっかり夜の底に沈み、どぶ色の雲に塞がれた下で潮は満ちていた。
さあ、行きなさい!
キジの号令――頭で、けだものが応える。拍車をかけられて草鞋が小枝を踏み、槍の穂先に似た葉を蹴って、樹間を縫ううちにだんだんと速くなり、前のめりになって斜面を駆け下りる。行く手を妨げる灌木の枝に刀を振って――ぐんぐん流れ去る薄闇、早鐘を打つ鼓動で息が荒くなっていく。今や一陣の風になった身が地を這う根を蹴り、跳んで、着地してつんのめり、転がりかけながら平地を走って、どうにか立て直した先では、海村が寝苦しい闇に深くもぐり込んでいる。斜めに下げた刀を汗ばんだ手で握り締めると、荒ぶる充血が頭の奥まで食い込む。藁の下で密着する毛深い体は熱く、のぼせた頭と溶け合っていく……――
お、脅かすだけだ……あの連中をちょっと脅かして、鬼はやっぱり退治しなきゃいけないって思わせるだけだ!
浮かび上がった石置屋根の集落が迫り、とうとう突入――けだものが吠え猛る。どこへ――どれでもいい、刀の切っ先を上げ、目についた家へ小石を蹴って突進――潮騒を枕にする蒸し暑い晩、不用心という懸念はなかったのだろう、板戸は開けっ放しになっていた。
うがあああああアアアアアアアアッッッッ!!――
腹の底から噴き出す咆哮――飛び込み、土間から囲炉裏のある板の間へ跳躍――蓆に横になっていた人影が、何事かと飛び起きる。
脅かすだけだ、脅かすだけだ!――
薄闇でためらいがちに刀を振り上げると、がっしりとした影が怒鳴りながら飛びかかってきた。
おおッッ!?――
脊髄反射で刃が走り、肉を切る感触が伝わるや男の悲鳴が鼓膜を貫く。うろたえて刀を横にそらすと、ぎゃっ!――と幼い悲鳴がして小さな影が板の間を転がった。助けて、助けてェェッ!――と、半狂乱の金切り声が頭をかき乱す。混乱しながら表に飛び出すと、たくましい男の影と鉢合わせ――
何しとんじゃあッ!!
とっさに斬り、絶叫がほとばしって血臭が鼻を突く。騒ぎを聞きつけた海村の衆が起き出したらしく、辺りはにわかに騒然となった。恐慌をきたし、右へ左へ走り回る前がいきなり明るくなり、燃えるたいまつを持った男が鼻先に――揺らめく炎に照らされ、けだものが雄叫びを上げた。
おっ、鬼じゃ! 鬼じゃあッ!!
横一閃――悲鳴とともに男がよろめき、手を離れたたいまつが家の脇に積まれた竹籠や薪に飛び込む。それらを炎は貪って、たちまち母屋に食らいついた。水じゃ、火を消すんじゃ、と慌てふためく声をよそに、火の粉が嬉々としてどす黒い夜を舞う。炎の暴虐ぶりに我に返り、がく然とすると、左右の角の根元がうずいてたちまち自分は浮き足立った。
は、あぁ――
火の粉をまき散らし、板壁や板葺き、骨組みまでも貪欲に食らう炎から逃げ出して――悲鳴や怒声が次第に遠ざかり、やがて自身のあえぎだけが闇に響いていた。何をしたのか、信じられなかった。これは悪い夢ではないのか……しかし、夢うつつの奥には、焼印を押されたかのような感覚が残っている。今にも倒れそうに急ぐ先では、底知れぬ暗闇と混じった山が帰りを待っていた。
そうして全身真っ黒になると、先刻空腹を紛らわすために木苺や木の実、野草などを手当たり次第口にしたことと相まって、まるで自分が人ではない何かに変わったような錯覚に蝕まれる。
どうです、ちゃんと塗れましたか?
振り返ると、薄闇にかろうじてキジの輪郭が分かる。キジの方はそこそこ見えているらしく、ほうほう、なるほど、とうなずいている。その後方、ちょっと離れた闇にかすかな息遣いがあり、どうやらイヌがいるらしかった。
下地はそれくらいでいいでしょう、そうキジは満足げに言い、次に移りましょう、とサルを呼んだ。すると、がさがさと何かを引きずる音とともに小柄な影が浮かぶ。
では、これを身に着けてください。
引きずられてきたもの、それはサルが夜陰に乗じて海村から盗んできた蓑と腰蓑……稲藁を編んで作られたそれら雨具を沼のそばに置き、泥で表も裏もくまなく塗っていく。それが済むと、重くなった蓑をざんばら髪から通して黒い肌の上にまとう。その間にサルは赤ら顔を泥で黒くしていた。
それでは、仕上げに入りましょう。
キジの指示に従ってしゃがむと、肩にサルがぴょんと飛び乗って肩車の格好になる。毛深い左右の手には、刀で先端を尖らせた太い枝がそれぞれ握られている。その上から泥を塗った腰蓑をかぶせて腰紐を締め、藁の間からサルが顔を出し、尖った枝を左右から突き出す。その下のこちらの顔は隠れるように、藁の間から外が見えるようにして……こうすることで頭一つ高くし、けだものじみた、鬼と見まごう面構えを目に焼き付けさせることができる。キジが頭から足先まで視線を上下させ、ふむとうなずいた。
いささか拙いですが、まずまずです。この暗さなら十分欺けるでしょう。
自分では確かめられないが、黒い腰蓑をかぶった黒面の左右から角状の突起物を出し、黒い蓑でひざ下まで覆った姿は、海村の衆といえども白日の下でもない限り見分けはつきにくいだろう。キジの話では、北国にはこのように藁の衣装をまとった鬼の伝承があるらしい。頭の上でキキッと高ぶるサル――硬くそそり立った一物が、後頭部に押し付けられるというか突っ込まれたようで実に不快だったが、張りぼてが本物になった、自分にサルではなく一個の鬼だと感じられてきた。
本当に、やるんだな……――
泥と藁とに蒸され、半ばのぼせながら口にする。だが、何度問うても結論は変わらなかった。鬼が悪事を働いていることにしなければ、こっちが破滅しかねない……――
……いたずらに傷付けるつもりはないからな。キジを見下ろし、念押しする。鬼退治もやむ無しって思わせるだけでいいんだ……――
もちろんですよ、とキジはさも当然そうに返し、薄闇を仰いだ。夜も大分更けてきました。そろそろ頃合いですよ。
ほとりから離れ、よじれた幹に立てかけていた刀を抜き放つ。あそこには屈強な海の男たちもいる。甘く見ていたら、返り討ちに遭うかもしれない……ぎこちない動きにキジが、あなたには鬼を退治した腕があるのだから、と羽ばたく。
鬼どもに比べたら、あんな連中など恐れるに足りません。
がさっ、とイヌのいる辺りで下生えを踏む音がする。前足で踏み出すようなそれは、いまいち鈍い自分の背中を押した。
さ、もたもたしてはいられませんよ。
ケーッと低く鳴いたキジの後について戻り、灌木の間から入り江が臨める斜面に立つ。海村はすっかり夜の底に沈み、どぶ色の雲に塞がれた下で潮は満ちていた。
さあ、行きなさい!
キジの号令――頭で、けだものが応える。拍車をかけられて草鞋が小枝を踏み、槍の穂先に似た葉を蹴って、樹間を縫ううちにだんだんと速くなり、前のめりになって斜面を駆け下りる。行く手を妨げる灌木の枝に刀を振って――ぐんぐん流れ去る薄闇、早鐘を打つ鼓動で息が荒くなっていく。今や一陣の風になった身が地を這う根を蹴り、跳んで、着地してつんのめり、転がりかけながら平地を走って、どうにか立て直した先では、海村が寝苦しい闇に深くもぐり込んでいる。斜めに下げた刀を汗ばんだ手で握り締めると、荒ぶる充血が頭の奥まで食い込む。藁の下で密着する毛深い体は熱く、のぼせた頭と溶け合っていく……――
お、脅かすだけだ……あの連中をちょっと脅かして、鬼はやっぱり退治しなきゃいけないって思わせるだけだ!
浮かび上がった石置屋根の集落が迫り、とうとう突入――けだものが吠え猛る。どこへ――どれでもいい、刀の切っ先を上げ、目についた家へ小石を蹴って突進――潮騒を枕にする蒸し暑い晩、不用心という懸念はなかったのだろう、板戸は開けっ放しになっていた。
うがあああああアアアアアアアアッッッッ!!――
腹の底から噴き出す咆哮――飛び込み、土間から囲炉裏のある板の間へ跳躍――蓆に横になっていた人影が、何事かと飛び起きる。
脅かすだけだ、脅かすだけだ!――
薄闇でためらいがちに刀を振り上げると、がっしりとした影が怒鳴りながら飛びかかってきた。
おおッッ!?――
脊髄反射で刃が走り、肉を切る感触が伝わるや男の悲鳴が鼓膜を貫く。うろたえて刀を横にそらすと、ぎゃっ!――と幼い悲鳴がして小さな影が板の間を転がった。助けて、助けてェェッ!――と、半狂乱の金切り声が頭をかき乱す。混乱しながら表に飛び出すと、たくましい男の影と鉢合わせ――
何しとんじゃあッ!!
とっさに斬り、絶叫がほとばしって血臭が鼻を突く。騒ぎを聞きつけた海村の衆が起き出したらしく、辺りはにわかに騒然となった。恐慌をきたし、右へ左へ走り回る前がいきなり明るくなり、燃えるたいまつを持った男が鼻先に――揺らめく炎に照らされ、けだものが雄叫びを上げた。
おっ、鬼じゃ! 鬼じゃあッ!!
横一閃――悲鳴とともに男がよろめき、手を離れたたいまつが家の脇に積まれた竹籠や薪に飛び込む。それらを炎は貪って、たちまち母屋に食らいついた。水じゃ、火を消すんじゃ、と慌てふためく声をよそに、火の粉が嬉々としてどす黒い夜を舞う。炎の暴虐ぶりに我に返り、がく然とすると、左右の角の根元がうずいてたちまち自分は浮き足立った。
は、あぁ――
火の粉をまき散らし、板壁や板葺き、骨組みまでも貪欲に食らう炎から逃げ出して――悲鳴や怒声が次第に遠ざかり、やがて自身のあえぎだけが闇に響いていた。何をしたのか、信じられなかった。これは悪い夢ではないのか……しかし、夢うつつの奥には、焼印を押されたかのような感覚が残っている。今にも倒れそうに急ぐ先では、底知れぬ暗闇と混じった山が帰りを待っていた。
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