とある男のプロローグ

サイ

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第二章

一五話

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小学一年の、夏休みに入って間もなくの事だった。
誰もいなくなった蒸し暑い家の中で一人、ぼんやりと縁側に座り込んでいた俺を迎えに来たのは派手派手しいスーツを纏う男だった。
男は気の毒そうな顔をしながら「恨むなら、母親を恨むんだな。」と言って、飴玉をくれた。
その後、男に連れて行かれたのは大きくて綺麗な家。
そこには口ひげを生やした初老の男が居て、俺はそのオジサマに買い取られた。
それからしばらくはどう過ごしたのか、思えていない。
覚えているのは、俺が自分を人間だと認識できなくなった後の事だけ。
当時、俺は自分を“五十嵐 涼”と言う人間ではなく、可愛らしい洋服と裁縫とお菓子作りが大好きな“蕾ちゃん”と言う名称の人形なのだと認識していた。
ぬいぐるみで溢れかえった薄桃色の地下室おもちゃ箱の中で、俺はいっとう高価な人形。
オジサマは毎晩俺で遊んだ。
少しでも“蕾ちゃん”と違うと、癇癪を起してたくさんお仕置きをされた。
3年もすると、俺はもうすっかり完璧な“蕾ちゃん”になっていた。
オジサマはとても喜んで、友人たちを呼び寄せて“蕾ちゃん”のお披露目をした。
友人たちも“蕾ちゃん”をたいそう気に入って、細やかなお披露目会は毎週末の恒例行事になった。
お披露目会でオジサマに教え込まれたを披露すると皆はとても楽しそうに芸を褒めて、たくさん、俺で遊んだ。
その様を眺めて、オジサマは笑っていた。

「みんなが私の蕾ちゃんを可愛がってくれて嬉しい。」

そう言って、心底幸せそうに。
それでも、初めの内は“蕾ちゃん”を犯してよいのはオジサマだけと言う暗黙の了解があった。
友人たちは未成熟な体をただ弄ぶだけ。
その掟が崩れたのは、“蕾ちゃん”の体が女の子でいられなくなった日から。
精通を迎えたのだ。
オジサマは凄く凄く怒った。
たくさんお仕置きをされて、最後には去勢された。
それでもオジサマは許してくれなかった。
彼の甘美な夢を壊した“五十嵐 涼”を、決して許してはくれなかったのだ。
精通を迎えたのを境に、オジサマは俺を犯さなくなった。
代わりに、友人たちが俺を犯すようになった。
永遠に男性になれなくなった体は無数の大人達に貪り尽くされ、次第に行為はエスカレートし、最後には殆ど拷問紛いの物へと成り果てていた。
どれだけ年を重ねても未成熟で中性的なままの体に数えきれない程の傷跡が刻まれて、しかしそれでも死ぬことだけは許さないとばかりに手厚く厳重に管理されて………
そんな日々を朦朧と繰り返していたある日。
いつも通りフリルのワンピースを着せられ化粧を施された俺を見て、オジサマは心底不思議そうに首を傾げて言った。

「君は誰だ?」

と。
それからはあれよあれよと言う間にあっさりと追い出された。
使用人たちによって化粧を落とされ、男物の服を与えてもらえたのはせめてもの情けだったのかもしれない。
その後、街のガラスに写った自分の姿を確認して捨てられた理由を理解した。
齢18の男にしてはあまりに華奢で生白いが、かと言って女性と呼ぶには肉付きが薄く骨ばっている。
男でも女でも、当然“蕾ちゃん”でもない奇妙な生き物。
それが俺だった。

「…………」

あの日の衝撃を思い返しながら、服の上から傷跡に指を這わせる。
俺が“蕾ちゃん”だった証。
だが、いつからだ?
いつから俺は自分を“蕾ちゃん”だと認識するようになった?
9歳から10歳頃にはもう完全に“蕾ちゃん”だったように思う。
しかし、それ以前のことはどうだろう。
俺はどうやって“蕾ちゃん”になった?
変態金持ちオヤジに買われて“五十嵐 涼”を失うまでの2年間の記憶だけが、霞がかったように思い出せない。
そして、先程痛みと共にフラッシュバックした記憶の中で揺らめいていた真っ白なネグリジェ。
あんな服は後にも先にも俺が“蕾ちゃん”だった頃にしか着たことはない。
その事から俺が彼に出会った可能性があるのはこの空白の2年の間と推察できる。

「……成程な。」

拙い言葉でぽつりぽつりと語り終えると、今まで黙って話を聞いていた男が低い声で囁いた。
掠れたその声は嫌に無機質で、背筋が凍る。
ああ、嫌われてしまった。
そりゃそうだ。
だってこんな話、気色が悪い。
とてもではないが受け入れ難い。
こんな余すところなく穢れきった人間と一体誰が関わりたいと、触れたいと思うだろう。
自分自身でさえ受け入れ難い現実を、どうして他人が受け入れられるだろう。
分かっていた事だ。
分からっていたから、俺は今まで自分の過去を他人に明かしたりしなかった。
アルさんにさえ。
否。
アルさんだったからこそ。
産まれて初めて無償の慈愛を与えてくれた彼だったからこそ、話せなかった。
あの人にだけは軽蔑されたくなくて、見捨てられたくなくて。
けれど、湖であの笑みを向けられた時、思ってしまった。
全て曝け出してしまいたいと。
彼ならば全て曝け出した上で、それでも側に居ることを許してくれるのではないか、と。
だから逃げた。
もしも彼に受け入れられなかった時、俺はきっともう、正気ではいられなくなってしまうから。

「……っ」

どうして。
どうして、彼には包み隠さず語ってしまったのだろう。
アルさんにさえ晒さなかった過去を、どうして。
折角優しくしてくれたのに。
触れてくれたのに。
どうして、どうして、どうして、どうして。

「おい。」

いつの間にか深く俯けていた旋毛に吐息がかかり、堂々巡っていた思考が霧散する。

「悪い、怖がらせたな。」

子供をあやすように柔らかな声が鼓膜を震わせ、大きくて熱い身体にそっと包み込まれる。

「本当に、悪かった……もう二度とお前を怖がらせたいしない。」

謝罪の言葉と言うにはその声は酷く甘く、さながら恋人への睦言のようにも聞こえる。
背中を優しく撫でて宥めてくれる温もりに思考がジワリと溶け、いつの間にか強張っていた体から力が抜けていく。
しなだれかかるように凭れ掛かる俺をしっかりと抱きすくめた男が、耳元に囁く。

「俺は絶対にお前を傷付けない。」
「…………」
「絶対に離さないし、むしろ逃さないしな。」
「………ふ、ふふ…」
「あ?何笑ってやがる。本気だぞ?」

訝しそうな声が耳をくすぐり、俺は一層肩を震わせた。
彼の声が真剣であればあるほど妙に可笑しくて、涙が出た。

「なんて……つごうの、いい、夢。」

これは夢だ。
さもなくばどうしてこんなにも欲しかった言葉が与えられると言うのか。
今頃、俺は俺を落札したあのクソデブの下へと運ばれている最中に違いない。
ならばもう二度と目覚めたくない。
この幸せな夢の中で死んでしまいたい。

「おい。」

僅かに体を包む熱が離れ、顎先をカサついた指先がそっと掬い上げる。
上を向いた拍子に溢れた涙が頬を伝い、未だ顎先に触れる指を濡らした。
潤んだ視界の中でギラギラと輝く深緑が数度ゆっくりと瞬く。

「夢でたまるかよ。」
「……夢だよ。」
「まだ言うかこの野郎。」

呆れたような言葉と共にジッと俺の目を見つめ、男は言った。

「さっきは不意打ちだったが、今度は先に言っておく。嫌なら殴れ。」

深緑色がゆっくりと近づいてくる。
しばしの逡巡の後、俺は目を閉じた。

「ん……」

唇に重なる温もり。
熱い。
一瞬離れ、再び重ねられる。
何度も何度も。
啄むようなそれは、俺の知る口づけとは違って、酷く優しかった。

「………っ、は…」

何度唇を重ねた頃か。
短い吐息とともに最後とばかりにかぷりと柔く下唇を食まれ、熱は離れていった。
心地良さに微睡んだ瞳を開くと、目尻を赤く染めた彼がしたり顔で笑った。

「これが夢かよ。」
「……………………ち、がう。」

夢はその人の記憶を基に見るものだと言う。
ならば彼が言うとおり、これは夢ではないのだろう。
俺にはこんなにも優しい口付けの記憶などないのだから。

「……ほんとうに、本気?」

俯きそうになる顔を必死に上げて脈絡もなく尋ねる俺に、男は自信たっぷりに頷いて見せた。

「当たり前だ。20年の執念舐めるなよ?」

鋭い犬歯を覗かせて破顔する男に、俺も笑みを浮かべた。
今度は涙は出なかった。


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