とある男のプロローグ

サイ

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第一章

三話

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晴れやかな空の下、ニスの禿げた縁側から足を投げ出して座っていた。
眼前には申し訳程度の狭い庭が広がっていて、さわさわと揺れる雑草を見るともなしに眺めている。
柔らかい風が前髪を揺らし、甘い香りが鼻孔をくすぐる。

『あぁ、今年も咲いたね。』

背後から聞こえた穏やかな声に、嬉しくなって振り返った。
そこには。

『今日も可愛いね、私の可愛い蕾ちゃん。』

ひゅ、と息を飲む。
いつの間にか俺の座っていた場所は褪せた縁側ではなくぬいぐるみで溢れかえった子供部屋に変わっていて、顎髭を蓄えた初老の男がニコニコと俺を見下ろしていた。

『さあ、今日は何して遊ぼうか?』

穏やかに微笑む男の手には、ジャラジャラと耳障りな音を立てる鎖が握られている。
恐ろしくなって、一目散に逃げだした。
薄桃色の扉を開いた先には、慌ただしい足音や男の怒鳴り声、腹に響くような低い機械音が鳴り響く工場の風景が広がっていた。

『おいテメェ!!』

怒鳴り声に肩を震わせて振り返ると、禿頭にビール腹の中年男が顔を真っ赤にして俺を指差していた。

『この書類出しとけって言っただろうが!』

ずんずんと無造作に歩み寄ってきた男は、俺の胸倉を掴みながらありとあらゆる罵声を喚き立てている。
自分のミスを、ことごとく俺に擦り付けながら。

『これだから学のねぇ奴はよぉ!!』

ひと際大きな声で叫んだ男に突き飛ばされて、たまらずよろめいて床へと倒れこむ。
驚いて閉ざした瞼を開くと、中年男の姿は消えていて、場所も工場から屋外へと変わっていた。

『**!!』

聞き覚えのない言語で放たれた怒声に視線を向けると、不可思議な装いの男が鬼のような形相でこちらへ駆け出していた。
あぁ、逃げなければ。
思うが早いか、俺は急いで森の中へ逃げ込む。
背後から聞こえる荒々しい足音と獣のような男の息遣いに急き立てられながら、暗い森の中を一心不乱に駆け抜ける。
進めば進むほど森は深くなり、日の光が失せてゆく。
それがたまらなく恐ろしいのに、背後から聞こえる無数の息遣いが立ち止まることを許さない。
やがて一切の光が消え失せて、俺は真っ暗な闇の中を恐怖に突き動かされるまま駆け続けた。
視界の片隅で闇が蠢いている。
俺を捕えるために悍ましい形を成して、這いずるように迫ってくる。
もっと早く走りたいのに、その思いに反して足は鉛のように重く、思うように進めない。
鉤爪のような真っ黒い腕が、ゆっくりと、伸びてくる。
その刃のように鋭い爪先が俺の腕に触れようとした、その時。

『――――!!』

掠れた叫び声と共に、俺は何かに突き飛ばされて真っ黒な地面に勢いよく倒れ込んだ。
振り返った視界に映ったのは、赤。
真っ黒な世界の中で、まるで懸命にその存在を知らしめんとするかのような、そんな鮮烈な赤だった。

『ぁ……』

赤が揺らめいて、闇の中へ倒れていく。
手を伸ばしたけれど、幼く小さな手は虚空を掴むだけで。
闇が蠢いている。
悍ましい化け物が、這いずり、迫ってくる。
恐ろしい。
いっそ死を願うほどの恐怖がこの身を苛む中にあって、けれど俺はもう逃げようとはしなかった。
闇に包まれた世界の中で、辛うじて灯ったその赤を、涙で滲むこの目に捉えたから。
掠れた絶叫。
俺はできるだけ優しく微笑んで、口を開いた。

「――――――…、ぁ、れ?」

ふと、何かを呟く自分の声で目を覚ました。
夢と現実の境で彷徨う意識を、窓から差し込む日差しが柔らかく現実へと引き寄せる。
次第に意識がハッキリしてくるにつれ、夢の記憶が急速に薄れていく。
何だか、とても恐ろしい夢を見ていた気がする。
恐ろしくて、けれどどこか懐かしい夢を。
思い出そうと記憶を探ってみるが、霞がかった思考ではとても思い出せそうにはなかった。
とりあえず起きようと身動ぎをしたところで、ようやく違和感に気づいた。

「知らない天井だ。」

毎朝拝んでいた雨漏りのシミが滲む黄ばんだ天井はそこにはなく、代わりに眼前にあるのはシミ一つない真っ白な天井。
それに俺は今、固いせんべい布団ではなくキングサイズのベッドに身を横たえている。
一生この上で生活したいと思えるほど柔らかいマットレスに、繊細な模様の折り込まれた手触りのいい毛布はうっかり二度寝してしまいそうな程に寝心地が良い。
だが、こんなベッドは知らない。
そもそも四畳半の自室にキングサイズのベッドなんか置けるはずがないし、よしんば置けたとしてもこんな上等な寝具を買える金など、悲しいことに俺は持ち合わせていないのだ。
いや、そんな悲しい現実はともかくとして、現状把握に努めようと気怠い体を起こして周囲に視線を巡らせた俺は、予想外な部屋の広さに目を瞠った。
学校の教室が軽く収まりそうなほど広い。
そんな部屋の内装は非常に上品で、壁には白地に淡い花模様の描かれた壁紙が張られ、床にはワインレッドの柔らかそうなそうな絨毯が敷かれている。
部屋の広さのわりに調度品が少ないように思えるが、それでも置かれている物は目利きのできない俺でさえ一目で『高そう』と分かる物ばかりだ。
例えるなら、西洋の貴族でも住んでいそうな部屋とでも言おうか。
今にも王子様やお姫様が現れてお茶会でも始めそうな、そんな部屋だった。
まさかまだ夢でも見ているのではないかと目を擦ろうとしたところで、更なる異変に気付いて動きを止めた。
いつもの寝間着のジャージではなく、なぜかシルク製のワンピースを着ている。
それに、首元が妙に窮屈だ。

「何だこれ?」

恐る恐る指先で首元を確かめてみると、そこにあったのは柔らかい布の感触。
これは、いわゆるチョーカーってやつか?

「……あ!」

思い出した。
そうだ、俺は誘拐されたんだ。
目が覚めたら見知らぬ部屋で、見かける人間は全員外国人で言葉も分からなくて、人生二度目の人身売買を経験して、逃げ出して…
そして、途中で倒れた。
意識がなくなる寸前にフランダースの犬よろしく天使が迎えに来てくれていた気がするが、どうやら錯乱した俺の幻覚だったらしい。
想像力の乏しい頭があんな美しい幻覚を生み出したことに驚きを隠せないが、いつまでもそんな下らない驚きに浸っている場合ではない。

「……とりあえず逃げるか。」

気を失った後にあのクソデブの部下に捕らわれたに違いない。
逃げ出したと言うのになぜか拘束はされていない上、窓の外を見る限りここは1階のようだ。
不用心すぎて逆に怪しいが、この機を逃すのは惜しすぎる。
善は急げとばかりに素早くベッドから降りて窓へと一歩を踏み出そうとした。
その時。

「あ!ぐぅうう……!?」

柔らかなカーペットに足を着いた途端両足に走った激痛。
たまらず転倒した俺は何とか悲鳴をかみ殺して痛みに見悶えた。
生理的に浮かんだ涙で滲む視線を足へ向け、自分の馬鹿さ加減に思わず状況も顧みずに自嘲の笑みを溢した。

「そう言えば森、裸足で走ったっけ。」

両足に巻かれた包帯に滲む真っ赤な血が、傷の多さ、そして深さを物語っている。
通りで拘束がないわけだ。

「!」

ようやく自身の置かれた絶望的な状況を理解したところで、もう一つの絶望が耳を打つ。
微かな足音だ。
悲鳴は抑えたつもりだが、何せ派手な転倒音を上げてしまったのだ。
出入り口の扉はそれなりに分厚そうだが、微かではあるものの足音すら通してしまう程度のもの。
近くに人が居たのであれば確実に耳に届いていたことだろう。
足音の軽さから、今こちらへ向かっている人物があのクソデブでないことは分かる。
ならばあの変な服を着たおっかない強面男か?
俺の肩を弓で射た、あの?
自分の予想にゾッと背筋が凍り付く。
人に向かって平気で弓を射かけられるような人間が、俺の元へやって来る。
次は肩だけでは済まないかもしれないと言う原始的な暴力への恐怖が、痛みに竦んだ体を突き動かした。

「ぅ、っぐ……ぅぅううっ」

貧血で力の入らない体を推し、這いずるようにして逃げ込んだのはベッドの下。
さながら悪夢に怯える子供のように拙く安易な隠れ場所。
しかしここが、立ち上がれない俺に残された唯一の場所だったのだ。
一瞬の静寂、そして。

ガチャリ。

扉の開く音。
そしてベッドがもぬけの殻であることに驚いたのか、僅かに息を飲む声。
ややあって、コツコツと足音がゆっくりベッドまで近づいて、ピタリと止まる。
目前にある艶やかな黒い革靴。
ドクドクと鼓動が煩い。
恐怖のあまり今にも叫びだしそうな口を両手で塞ぎ、微動だにしない両足を凝視する。
どれほどの間そうしていただろう。
1分のようにも、1時間のようにも感じる緊張と静寂。
永遠にも感じるその沈黙が、不意に破られる。

「*********?」

静かな声だ。
あの強面男の声ではない。
勿論、あのクソデブでもない。
しかしどこか聞き覚えのある耳に心地よい声。
何処で聞いた声だったか。
恐怖と混乱によって働かない思考を巡らせていると、僅かな衣擦れの音と共に男が床に膝をついた。

「******、*********」

どこか気遣うような声と共に差し伸べられたのは、女性のように華奢で白い手のひら。
窓から差し込む日の光に照らされて淡く輝くようなその美しい手は、俺を強引に引きずり出すこともなくただ優しく静かにそこにある。

「………」

長い逡巡の後、俺はそのスラリと長い指先に自身の武骨な指先を重ねた。

「***」

俺を怖がらせないよう細心の注意を図っているかのように、男はゆっくりと俺の手のひらを握りこむ。
どこか覚えのあるその温もりに、ハッと息を飲んだ。
これは、そんなまさか。
この温もり、この声………この人は。
未だ消えない恐怖心と現状を把握できない混乱、そして仄かな期待を胸に、俺は男の手を借りてベッド下から這い出た。
明順応によって眩んだ目を細めながら、男の指先から腕、腕から肩、肩から首へと恐る恐る視線を上げていく。
細く白いきめ細やかな顎先、淡く色づいた薄い唇、オリオンブルーの切れ長な瞳。
そして日の光を受けてキラキラと輝く銀色の髪。
その姿はまごう事なく、あの時目にした天使その人だった。


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