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三章 ――白色の王子と透明な少女――
⑧<二人2> 『透明な少女』
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⑮【エストア】
「それにしても、遅いな、彼は」
『森のノカ』聖堂奥にある食堂には長机が置かれており、そこに二人の女が向かい合って座っている。その片方、ナルヴィがすっかり冷めてしまった紅茶を見つめながら、愛おしそうに呟いた。
その姿をエストアは冷めた目で見つめていた。
洞窟から戻ってきた当初は残していた、ミラの面影も今やすっかりと無くしてしまっている。
自分の愛することのできない存在へと変わり果ててしまった娘の姿を見つめる。
「あなたは、もうミラではないのですね」
呟きとも取れるエストアの言葉に、ナルヴィは眉を潜めた。
「私は、ミラであり、ナルヴィだ。ミラは私の中にいて、私と同化している」
「それは、……果たして、ミラだと言えるのでしょうか」
「見方次第だろうな。私はミラではないともハッキリと言えるが、同時にナルヴィではないともハッキリ言える。私は魔族でもないし、人間でもない。何色でもない存在だ」
ナルヴィは一息置き、ほんの僅かだけ寂しげな表情を見せる。
そして、続けた。
「そう考えると……ミラもナルヴィも存在だけが存在する、『透明な少女』だと言えるだろう」
「……私は、あなたをどう扱うべきかずっと迷っておりました」
「娘として扱うか、魔族として扱うかか? ……だから、あの『封印の箱』を手にしようとしたのかい?」
にやりと微笑みながら、ナルヴィはエストアを見つめる。
「それは――」
「私が気がつかないとでも思ったのかな? 君はわざと、『封印の箱』が眠る洞窟に、自分を愛する男と少年を送り込んだだろう?」
その通りだった。ワイバーンと戦った後、ロキ王子と別れたエストアとレオンは歩いて『森のノカ』へと向かっていた。
その途中、エストアとレオンは思い出話に花を咲かせてしまった。そして、エストアはつい、ナルヴィの事を打ち明けてしまった。
エストアの娘が受けてしまった不幸を聞き、レオンは即座に行動を起こす。
それこそが問題の発端になった場所、『夜のノカ』近くにある洞窟の調査だった。
封印から解放されたのであれば、再度封印することができるのではないか。それがレオンの考えだった。その言葉に従いレオンを送り出したエストアは、その足で『森のノカ』へと向かっていた。
黒髪の少年と出会ったのはその途中だった。
少年は不思議な地図を持っていた。中に入っていたのは白紙ではあったが、それが収まっている筒を見て、エストアはすぐに察しが付いた。
少年が持つ筒には、アエルヒューバの紋章が描かれていたからだ。
アエルヒューバの遺品は、特別な力を持った品物が数多くある。その中の一つだと考えたエストアは少年をレオンの元へと送りこんだ。
「あの箱は今、名も知らぬ少年の元にある。そのうちに回収をしようと思っているが、まだ住処を見つけていなくてね。まあそのうちに見つかるだろう」
ナルヴィはまたカップに口を付ける。中の紅茶はもう半分以上が無くなっていた。
「このままあなたを娘として扱うか、魔族として扱うか、混ざりあった存在として扱うか……ずっと私は迷っていました。けれど、ある人と相談して、思いを打ち明けて、私は踏ん切りがつきました」
「レオンかい? あの男は残念なことを――」
「違います。……王子です。あなたの愛する第五王子、ロキ様です」
淡々と話すエストアの言葉に、ナルヴィの表情が変わる。少女から、暗く醜悪なものへと変わっていく。
「……話したの? 彼に。私の正体を?」
「いいえ。彼はご存じでした。どうやって辿り着いたのかは分かりませんが……彼は思っている以上に、鋭い人間です」
『灰色の樹幹』に捕らえられていたエストアは、既にロキと話をしていた。
牢獄の中で、ここから出すと言われた直後、『黒髪の少女、ミラがナルヴィだな』と浴びせられ、エストアは頷《うなず》くしかなかった。
「そんな……嘘だ」
「嘘ではありません。彼はあなたが嫉妬に狂い、行った愚行に全て気がつきました。……はっきりと、言います。あなたの恋路は決して実らない」
「嘘だ! 嘘だ!!」
ナルヴィは立ち上がり、エストアを睨み付ける。その瞬間、エストアは立ちくらみのように頭を押さえ、よろける。
自分の身体に起こった変化に気がつき、不思議そうに自分の身体を見つめる。
「……やっと、効いてきましたか。正直、半信半疑でしたが」
エストアは言葉を句切り、自分の紅茶を飲み干す。
「エストア……貴様、なにをした!?」
少女の身体から、湯気のように黒い霧が噴き出してくる。ナルヴィの意志とは関係なく溢れていく。
「王子からの頂き物を使いました。……これです」
エストアはテーブルの上に小瓶を転がす。手のひらに収まるほどの小瓶。その中に本来入っているはずの液体は全て無くなっていた。
「人に化けた魔族を、元の姿に戻す薬だそうです。何故、あの王子がこんな物を持っているのか分かりませんが……あなたに使うのに、これほど効果的な物はありません」
「元の姿、元の姿だと!? ……エストア……エストアぁ!? 私を裏切るの!?」
少女の肌がひび割れていく。黒髪が抜け落ち、頭からぬめぬめとした触手が生えてくる。
「裏切る!? ふざけないで! あなたはミラじゃない! 私の娘じゃない! 私の娘は……あんな酷い事をしない! あなたは……あなたは」
少女の服が破れ、ナルヴィの身体が膨れ上がる。は虫類のような瞳が、エストアを睨み付ける。そして――。
「あなたは、私の娘を殺した! 最低の――」
『最低の魔族だ』。エストアの吐き出したかった言葉は彼女の身体から離れていかなかった。変わりに離れたのは――。
憎しみに歪んだ彼女の首が、テーブルに落ち皿を乱雑に散らかす。残った胴体が椅子から滑り落ち床へと倒れ込む。
「駄目、このままじゃ……」
自分から噴き出してくる黒い闇を纏いながらナルヴィは呟く。
「彼が戻ってくる。……彼には、こんな姿、絶対に見せられない」
ナルヴィの心は、一人の王子に支配されていた。自分の身体に訪れた変化そのものよりも、自分の本来の姿を一人の男に見せることが躊躇われた。
「逃げなきゃ……ここから、『森のノカ』から離れなきゃ」
人の心を持った魔族は、自分の本来の姿がどれだけ醜いか、よく分かっていた。人の愛情を知るからこそ、人には受け入れられない容姿をしていることが自覚できていた。
愛する存在から隠れたい。
もはや、ナルヴィの思考はそれだけに支配されていた。
「ここから……、王子から、離れなきゃ」
ナルヴィはゆっくりと動き出した。
『森のノカ』聖堂の地下にある、転移盤《アスティルミ》に向かって。
「それにしても、遅いな、彼は」
『森のノカ』聖堂奥にある食堂には長机が置かれており、そこに二人の女が向かい合って座っている。その片方、ナルヴィがすっかり冷めてしまった紅茶を見つめながら、愛おしそうに呟いた。
その姿をエストアは冷めた目で見つめていた。
洞窟から戻ってきた当初は残していた、ミラの面影も今やすっかりと無くしてしまっている。
自分の愛することのできない存在へと変わり果ててしまった娘の姿を見つめる。
「あなたは、もうミラではないのですね」
呟きとも取れるエストアの言葉に、ナルヴィは眉を潜めた。
「私は、ミラであり、ナルヴィだ。ミラは私の中にいて、私と同化している」
「それは、……果たして、ミラだと言えるのでしょうか」
「見方次第だろうな。私はミラではないともハッキリと言えるが、同時にナルヴィではないともハッキリ言える。私は魔族でもないし、人間でもない。何色でもない存在だ」
ナルヴィは一息置き、ほんの僅かだけ寂しげな表情を見せる。
そして、続けた。
「そう考えると……ミラもナルヴィも存在だけが存在する、『透明な少女』だと言えるだろう」
「……私は、あなたをどう扱うべきかずっと迷っておりました」
「娘として扱うか、魔族として扱うかか? ……だから、あの『封印の箱』を手にしようとしたのかい?」
にやりと微笑みながら、ナルヴィはエストアを見つめる。
「それは――」
「私が気がつかないとでも思ったのかな? 君はわざと、『封印の箱』が眠る洞窟に、自分を愛する男と少年を送り込んだだろう?」
その通りだった。ワイバーンと戦った後、ロキ王子と別れたエストアとレオンは歩いて『森のノカ』へと向かっていた。
その途中、エストアとレオンは思い出話に花を咲かせてしまった。そして、エストアはつい、ナルヴィの事を打ち明けてしまった。
エストアの娘が受けてしまった不幸を聞き、レオンは即座に行動を起こす。
それこそが問題の発端になった場所、『夜のノカ』近くにある洞窟の調査だった。
封印から解放されたのであれば、再度封印することができるのではないか。それがレオンの考えだった。その言葉に従いレオンを送り出したエストアは、その足で『森のノカ』へと向かっていた。
黒髪の少年と出会ったのはその途中だった。
少年は不思議な地図を持っていた。中に入っていたのは白紙ではあったが、それが収まっている筒を見て、エストアはすぐに察しが付いた。
少年が持つ筒には、アエルヒューバの紋章が描かれていたからだ。
アエルヒューバの遺品は、特別な力を持った品物が数多くある。その中の一つだと考えたエストアは少年をレオンの元へと送りこんだ。
「あの箱は今、名も知らぬ少年の元にある。そのうちに回収をしようと思っているが、まだ住処を見つけていなくてね。まあそのうちに見つかるだろう」
ナルヴィはまたカップに口を付ける。中の紅茶はもう半分以上が無くなっていた。
「このままあなたを娘として扱うか、魔族として扱うか、混ざりあった存在として扱うか……ずっと私は迷っていました。けれど、ある人と相談して、思いを打ち明けて、私は踏ん切りがつきました」
「レオンかい? あの男は残念なことを――」
「違います。……王子です。あなたの愛する第五王子、ロキ様です」
淡々と話すエストアの言葉に、ナルヴィの表情が変わる。少女から、暗く醜悪なものへと変わっていく。
「……話したの? 彼に。私の正体を?」
「いいえ。彼はご存じでした。どうやって辿り着いたのかは分かりませんが……彼は思っている以上に、鋭い人間です」
『灰色の樹幹』に捕らえられていたエストアは、既にロキと話をしていた。
牢獄の中で、ここから出すと言われた直後、『黒髪の少女、ミラがナルヴィだな』と浴びせられ、エストアは頷《うなず》くしかなかった。
「そんな……嘘だ」
「嘘ではありません。彼はあなたが嫉妬に狂い、行った愚行に全て気がつきました。……はっきりと、言います。あなたの恋路は決して実らない」
「嘘だ! 嘘だ!!」
ナルヴィは立ち上がり、エストアを睨み付ける。その瞬間、エストアは立ちくらみのように頭を押さえ、よろける。
自分の身体に起こった変化に気がつき、不思議そうに自分の身体を見つめる。
「……やっと、効いてきましたか。正直、半信半疑でしたが」
エストアは言葉を句切り、自分の紅茶を飲み干す。
「エストア……貴様、なにをした!?」
少女の身体から、湯気のように黒い霧が噴き出してくる。ナルヴィの意志とは関係なく溢れていく。
「王子からの頂き物を使いました。……これです」
エストアはテーブルの上に小瓶を転がす。手のひらに収まるほどの小瓶。その中に本来入っているはずの液体は全て無くなっていた。
「人に化けた魔族を、元の姿に戻す薬だそうです。何故、あの王子がこんな物を持っているのか分かりませんが……あなたに使うのに、これほど効果的な物はありません」
「元の姿、元の姿だと!? ……エストア……エストアぁ!? 私を裏切るの!?」
少女の肌がひび割れていく。黒髪が抜け落ち、頭からぬめぬめとした触手が生えてくる。
「裏切る!? ふざけないで! あなたはミラじゃない! 私の娘じゃない! 私の娘は……あんな酷い事をしない! あなたは……あなたは」
少女の服が破れ、ナルヴィの身体が膨れ上がる。は虫類のような瞳が、エストアを睨み付ける。そして――。
「あなたは、私の娘を殺した! 最低の――」
『最低の魔族だ』。エストアの吐き出したかった言葉は彼女の身体から離れていかなかった。変わりに離れたのは――。
憎しみに歪んだ彼女の首が、テーブルに落ち皿を乱雑に散らかす。残った胴体が椅子から滑り落ち床へと倒れ込む。
「駄目、このままじゃ……」
自分から噴き出してくる黒い闇を纏いながらナルヴィは呟く。
「彼が戻ってくる。……彼には、こんな姿、絶対に見せられない」
ナルヴィの心は、一人の王子に支配されていた。自分の身体に訪れた変化そのものよりも、自分の本来の姿を一人の男に見せることが躊躇われた。
「逃げなきゃ……ここから、『森のノカ』から離れなきゃ」
人の心を持った魔族は、自分の本来の姿がどれだけ醜いか、よく分かっていた。人の愛情を知るからこそ、人には受け入れられない容姿をしていることが自覚できていた。
愛する存在から隠れたい。
もはや、ナルヴィの思考はそれだけに支配されていた。
「ここから……、王子から、離れなきゃ」
ナルヴィはゆっくりと動き出した。
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