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三章 ――白色の王子と透明な少女――
起-上巻①<少女1> 『幻想の森』
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見上げると、涙が空の青に溶け込む。白色が溶け込む。
あの日、あの時、私は夢を見ていたんだと思う。
そう――あの時の光景は、
今は朧気《おぼろげ》になってしまった情景だ。
あの日、私はお母さんに叱られて、涙を浮かべて座っていた。
自分が嫌になって、泣いていた。
気がつけば、あの人は私の隣に居た。
いつの間にか、優しそうな男の人が立っていた。
あの白い王子様に出会ってから、
私はずっと――
①【ソフィア】
ガタリ、と大きな音を立てて、馬車が大きく揺れた。
安物の窓から見える風景が上下に動く。
何か踏んだのかな。結構大きな衝撃だった。なんかその後から小さく揺れている気がするし、車輪が外れたらどうしよう。
心の中に不安が芽生え、お母さんを見る。
とうのお母さんはというと何事も無かったかのように自分の手帳とにらめっこしていた。表紙が皮で覆われたちょっと上等な手帳はお母さんが私のお父さんと出会った頃に贈られた物と言っていた。値段を聞くと舌が乾いちゃうくらい長い時間、口を開きっぱなしにしてしまうくらい、とても高いもの。
お父さんがそんなお金持ちだったからか、お母さんは高い馬車にも安い馬車にも乗り慣れている。ちょっと目を凝らせば見える距離のお店に、わざわざ馬車を呼んで向かったこともあるらしい。今じゃ考えられない贅沢だ。
そんなお母さんがなんの心配もしていないし、馬車も特に止まることなく進んでいる。どうやら私の思い過ごしだったらしい。心配して損した。
お母さんの隣に座る、私の敵《おとうと》も分かりやすいふくれっ面を見せながら窓の外に広がる樹木達を睨み付けたままだ。
ま、弟のマシューはこの数日間ずっとこうだから、どうでもいいけどね。
「ねえ、幌《ほろ》を空けていい? わたし、外の空気が吸いたい」
「いいわよ。でも暑いから、すぐに閉めなさいね」
返事よりも早く、私の真横に設置されていた回転棒をくるくると回す。
ほどなく布で出来た天井が音を立てて動き始めた。
見上げると、白色の生地だけだった光景が青と緑へと移り変わっていく。
縦横無尽に伸びた梢の隙間から大空が顔を出し、大白鳩《シェバト》の群が、我が物顔で飛び回っている。それを見た途端、私のお腹は可愛い物音を立てた。
……美味しそう。
大白鳩《シェバト》はこの大陸では鶏馬《ルロ》の次に食べられている一般的な食材だ。
何度か間近で見たけど、大きな翼と大きな足が特徴の丸々太った鳥だ。
子供くらいなら抱えて飛べそう、と思ったけど臆病な性格らしく、自分からは人間には近づかないらしい。
……その割には良く食べられているけれど。なんか、見てたらお腹空いてきた。
大白鷲《シェバト》から目を離し、身体を持ち上げると霧が私の顔を濡らしていく。お母さんは暑いと言っていたけれど、そんなことはない。
息抜きがてら伸びをしてみると、二頭の馬を操るおじさんと目が合い、一礼してきた。私も慌てて小さく会釈する。
私達が乗る馬車の周りには、碧色の景色が広がっていた。
見わたせば大小様々な木々。それはどれも苔むしていて、老木だけど力強さを感じる。
馬車は鬱蒼《うっそう》とした木々の間を縫う様に張り巡らされた空中通路を進んでいた。
けれどその道は地面じゃない。
大きな木の枝の上を私達は馬車で走っていた。
枝っていっても、その道自体はかなり広く作られている。
元々は枝と枝の間を移動しやすいようにと橋を架けたのが始まりだったらしいんだけど、その橋は苔やツタ、木の枝が絡みついて今はすっかり自然と同化してしまっている。
遠くの方を見ると、霧が光に当てられて森の色と混じり、幻想的な碧色が広がっている。
「もう太陽が真上だよ。まだ着かないの?」
生い茂る葉っぱの影に潜んでいる太陽の位置を確認しながら、私は自分の腰を浮かして痺れきったお尻を摩る。
このまま揺られていたら、私のお尻はお皿みたいに真っ平らになっちゃいそう。
「もうすぐのはずよ。我慢しなさい」
木漏れ日の光を頼りに、手帳から目を離さないお母さん。そんなんだから目を悪くしちゃうんだ。
「僕、もう帰りたい」
残念なことだけど、私の弟として生まれて来たマシューが絶対に無理なお願いを口にする。
「まだ新しい家に着いてもいないでしょ」
私がたしなめると、黒色の髪をわさわさと掻きむしり、分かりやすくふてくされながら続けた。
「こんな田舎嫌だ。王都《ルスラン》がいい!」
「ここも一応、王国《ルスラン》でしょ。無茶言わないで。もう前の家は無いのよ」
「嫌だ。僕、お父さんと暮らす」
「お父さんも、こんな我が儘ばっかりのガキんちょとふたりでなんて暮らしたくないでしょ」
「うるさい、ババア!」
「うるさい、クソガキ!」
「あ、また眉間に皺寄ってる。しわくちゃソフィア!」
「誰の所為だと思ってんの!?」
「もう、ソフィアもいい加減にしなさい! マシューも機嫌直しなさい! お父さんとはもう、暮らせないって言ったでしょ!」
お母さんからの一声で社内がしん、と静まりかえる。
言葉だけだ。マシューと目が合うと、舌を出しながら威嚇してきた。
ホント、ムカつく。ホント、死んでもらいたい。よりによって十三歳の乙女に向かってババアだ!? ホント、ムカつく。四つも年下の癖に口の利き方すら知らないのか。
「ほら、見えてきたわよ。……あれが新しいお家よ」
お母さんの言葉を受けてマシューは飛びはね、身を乗り出して進行方向を見る。
ぶつくさ言ってた割に気にしてんじゃない。
枝の道を降り、森が雑木林に変化してきている。
その場所に近づくにつれ、碧の霧が薄れていき、代わりにツタに覆われた石造りの建物が徐々に姿を見せ始めた。
雑木林に紛れるように、その建物はひっそりと佇んでいた。
斜塔付きのこぢんまりしたお家、だけど、三人で暮らすには十分な広さはありそう。
家の周りは当然の様に手入れはされていない。草や花々が生え放題になっているけれど、綺麗に刈り取れば結構、広い遊び場になるかも。
少し離れた場所に四角い木の屋根が着いたレンガ壁の休憩場所があり、その下には長いすも設置されている。
ランタンも吊るされているので、ここで夜にのんびり森の風景を眺めることも出来そうだ。
まるで田舎の教会聖堂をそのままお家にしたような場所。……というよりも、その言葉どおりなんだけどね。
お母さんのお父さん、私からしたらおじいちゃんになる人が若い頃に、金山で稼いだお金が沢山あって、売りに出ていた古い教会聖堂を買ったことがあるんだって。
教会聖堂が売りに出るなんて滅多にないっていうか今だと禁止されていることなんだけど、五十年前の当時は今より人も法律も色々と穏やかだったみたいだ。
おじいちゃんも友達の勧めで買ったらしいんだけど、自分のお屋敷がルスランにあったし、避暑地に使うには遠すぎるという理由で、使い道がなくほったらかしていたみたいだ。
だったら売ってしまえばいいのに。改装とかもしていたらしいんだけど、勿体ない話だよね。
元々、私達はルスラン王国の城下町、王都に住んでいたんだけど、お母さんとお父さんがそれはもう一言では語れない程の大喧嘩をしてしまい、色々あってお家を売りに出さなきゃいけなくなっちゃった。
それなら、ってことでおじいちゃんのほったらかしていた家を思いだしたお母さんは、丁度良いかと私とマシューを連れて移り住むことを決めてしまった。
王都から遠く西にあるノカって名前の田舎町にね。
森の町ノカ。町って言っても、なあんにも無い田舎町だよ。
けれど、森の町っていうくらいだから、古くて背の高い木々と同化したような街並みが広がっている。その景色は王都では絶対見られないくらい綺麗なもので、貴族の中にはわざわざ観光に行く人達もいるみたい。私も、王都に居たころに耳にしたことがあるくらい有名な町だ。
私も最初は楽しみにしていた。行く前はね。
もう見飽きたけど。
だってさぁ、王都から五日もかけて森の中に入って、そこから町まで二日だよ。その間、ずーっと同じような光景。やっと町らしいところにたどり着いたと思ったら、私達のお家は更に遠く、馬車で半日揺られるような離れた場所にあった。
ほんと、ここで生活していけるか今から心配。
愚痴言っててもしょうがないけど。
なんせ、今の私は一人では何もできない、十三歳の女の子だ。
住む家と食べる物があるだけ、幸せなんだろう。
②【ソフィア】
「うぁあ、きったなー……」
扉を開けた瞬間、広間に長年積もった埃が風に舞って広がっていく。
それを見て、新天地を見て浮かれていたマシューの顔が一気に険しくなる。
「家具は一通り揃ってるみたいで良かったわ。……先ずは掃除からね」
奥の部屋から出てきたお母さんの手は既に真っ黒になっている。
五十年分溜まりに溜まった汚れ。手強そうだけど、私なら勝てる。
さあ、いくよ。
と言うわけで、新居に辿り着いて早々に、私とお母さんは雑巾を片手に家中の汚れと格闘することになった。
マシューも一応手伝うけれど、貧弱だからすぐに飽きて家の中をぷらぷらするだけの存在になった。相変わらず碌な役にたたない。
私とお母さんの頑張りで家の中はみるみる綺麗になっていき、夜になる前にはある程度は我慢して住めるような状態に変わっていた。
そして、私達家族三人の、新たな生活が始まった。
*****
「この、ずっと湧き出てくる水、どんな原理なのかしら?」
台所に立ったお母さんが細工が施された金属の筒を前にして、首を傾げる。
私も気になっていた。
その筒は先のほうが魚の形をしていて、口から水がずっと流れている。
その水は壁に沿って掘られた溝を伝って家の外に流れていく。
「飲めるみたいだし、気にしないでいいんじゃない」
深く考えてもしかたないよ、という私の言葉に納得したのかしていないのか、お母さんはそれ以上続けることもなく料理を続けだした。
不思議だけど、考えても分からない事は分からない。なんにしたって、井戸を使わなくていいのは便利だ。
*****
短く刈り取られた芝生が広がる庭の真ん中で、私とマシューの影がぶつかり合う。
金属同士が擦れ合う音が連続して響く。
「ほら、右、左、右、足下お留守だよ!」
ぱしん、と軽い音を立てて、私の持った細剣の刀身がマシューの太股を叩きつける。
「ってぇ!?」
マシューが自分の持つ細剣を放り投げ、太股をさすりながら私を睨み付ける。
「何よ、言っとくけど、稽古付けろって言ってきたのはそっちだからね」
「だからって、ちょっとくらい手加減しろよ、この性悪女」
「あぁん? なんか言った?」
「ちょ、痛っ、痛いって!」
細剣でペシペシとマシューの頭を叩く。
練習用だから無茶な使い方しない限り安全だ。だから遠慮無く叩ける。
……もう、ほんと、心苦しいけど、可愛い弟の為だからしょうがない。
ちょっと厳しくなっちゃうのもしょうがない。
だってぇ、強い男に育ってもらいたいからぁ。
「糞ソフィア! ニヤニヤすんな!」
危ない危ない、顔に出てしまっていた。
*****
「あなた達、また喧嘩したのね。仲良くしなさいって言ってるでしょ」
晩ご飯の食卓。
顔や手が擦り傷だらけになった私達を見て、お母さんが深いため息を付く。
「僕は悪くない! ソフィアの所為だ!」
「アンタが飛びかかってきたんでしょ!」
まぁ、その前にマシューの色んなところを細剣でペシペシしてたけど。
「うるさい! お前なんか消えちゃえばいいんだ! 魔物に食べられちゃえばいいんだ!」
「人間なんで消えませーん。この辺りは魔物もいませーん。残念でしたぁ」
その後、割って入ってきたお母さんに私とマシューのにらみ合いは中断させられて、何故か私だけが夜通し叱られた。
お姉ちゃんなのに、口が悪すぎるとクドクド言われた。
私は悪くないのに。とばっちりだ。
*****
夜、ふと目が覚めてしまった私は水を飲みに一階へと降りる。
今更だけど、新しい家は二階建てで、私とマシューは二階の部屋を一部屋づつ自分の自由にできる空間として割り当てられている。
外から見た感じだと、二階の上に斜塔があるけれど、そこには登れないみたい。
多分、おじいさんが改装したときに斜塔に登る部分を無くしちゃったんだと思う。
実際あっても使わないんだろうけど、ちょっと残念だ。
台所に設置された魚型の筒から流れる水を飲んで、自分の部屋に戻ろうとした時、私の耳にうっすらと、聞き慣れた音が聞こえてきた。
細剣《レイピア》を突くときに出る、空気を裂く音だ。
*****
「……あんた、何してんの?」
寝間着に外套を羽織っただけの格好で外に出てみると、マシューが暗闇に紛れ、細剣《レイピア》を不器用に振り回していた。
汗だくになったマシューの黒髪から水の滴が流れ落ち、休憩場所に取り付けられたランタンの光に照らされながら次々に地面へ吸収されていく。
「げっソフィア……」
マシューの顔がまるでお化けを見つけた時みたいに真っ青になる。
「秘密の特訓でもしてるつもり? 別にそんなの格好良くないよ」
「う、うるさい! 別にそんなつもりじゃない!」
とか言ってるわりには動揺してる。絶対そうでしょ。
「いくらやっても、私には勝てないよ、あんたは」
「そんなの、やってみなきゃ分からないだろ!」
分かるよ。私はこれでも王都に居た頃は、剣術大会少年少女の部で準優勝になったこともあるくらいの腕前だ。
細剣《レイピア》同士なら、そこんじょそこらの奴らに負ける気はしない。
当然、このクソガキにだって、負けるつもりなんかない。
「大体、なんで細剣《レイピア》なのよ。あんただって、私の腕前知ってるでしょ? 同じ事してても私には絶対勝てないよ」
長椅子に座り、伸びをする。冷たい夜風と虫の鳴声が私の身体を安らげてくれる。
王都から来たばかりの頃はどうなるかと思ってたけど、慣れてきたら、こんな生活も悪くないのかもしれないと思えるようになってきた。
買い物はほんっっとうに不便だけど、王都に居た頃と比べて人も、環境も何もかもがゆったりとした空気が流れていて、自然と心が穏やかになっていく。
「別に……ねぇちゃんに勝つつもりでやってるわけじゃない」
あら珍しい。いつも私の事、呼び捨てばかりなのに。
「じゃあ、なんでやってるの?」
「ねえちゃんが強いの分かってるけど、それでも女だから」
「は?」
いやまあ、私は女の子だけど、それがどうした。
男の子にだってそうそう負けないつもりだけど、そういうこと?
「お父さんと離ればなれになって……この家に居る男、僕ひとりだろ」
いつもの生意気な弟とはまとう雰囲気が違うことを感じ取った私は、続く言葉に黙って耳を傾ける。
「前にお父さんに言われたんだ。何かあった時、お父さんがいない時は、僕がふたりを守れって。それができる、強い男になれって言われたんだ」
……なるほど。
お父さんが居なくなった今も、その言葉を律儀に護っているわけね。
「僕は……僕はねえちゃんから剣を教わって、そのうちねぇちゃんより強くなって……お母さんとねぇちゃんを護る。そうお父さんと約束したんだ」
「……馬鹿だね。ホント。私だってまだ十三歳だよ。これからまだまだ強くなれる。それを追い越して、私より強くなろうなんて十年早いよ」
「だったら、僕はそれよりも早く成長する!」
男って馬鹿だね。別に家族相手で男も女もないのに。
お母さんに何かあったときは私も護るし、マシューにも護ってもらう。
家族なんだから、いざって時にそうやって助け合わなきゃ。
「だったら、先ずはそのへなちょこな構えをどうにかしなさい。……剣を水平にして、腕と合わせて一本の線みたいにする」
「! ……こんな感じ?」
素直に私の言葉を飲み込んで、剣を構えるマシュー。
「そう、その体勢のまま、しばらく動かずにいなさい」
「しばらく、ってどのくらい?」
マシューの腕は早速プルプルしてきている。どんだけ貧弱なのよ。
「……剣、取ってくる」
「へっ?」
「私が剣取ってくる間、その体勢してなさい、って言ってるの」
私の言いたい事をやっと理解したのか。満面の笑みで頷くマシュー。
ほんと、面倒くさい。なんでこんな真夜中に、私がクソガキの稽古を付けなくちゃいけないのよ。
……でもまあ、いいや。今日はたまったま、そんな気分になっただけ。
別にいつもって訳じゃないし、今日くらいは、馬鹿で気真面目な弟に付き合ってやるか。
あの日、あの時、私は夢を見ていたんだと思う。
そう――あの時の光景は、
今は朧気《おぼろげ》になってしまった情景だ。
あの日、私はお母さんに叱られて、涙を浮かべて座っていた。
自分が嫌になって、泣いていた。
気がつけば、あの人は私の隣に居た。
いつの間にか、優しそうな男の人が立っていた。
あの白い王子様に出会ってから、
私はずっと――
①【ソフィア】
ガタリ、と大きな音を立てて、馬車が大きく揺れた。
安物の窓から見える風景が上下に動く。
何か踏んだのかな。結構大きな衝撃だった。なんかその後から小さく揺れている気がするし、車輪が外れたらどうしよう。
心の中に不安が芽生え、お母さんを見る。
とうのお母さんはというと何事も無かったかのように自分の手帳とにらめっこしていた。表紙が皮で覆われたちょっと上等な手帳はお母さんが私のお父さんと出会った頃に贈られた物と言っていた。値段を聞くと舌が乾いちゃうくらい長い時間、口を開きっぱなしにしてしまうくらい、とても高いもの。
お父さんがそんなお金持ちだったからか、お母さんは高い馬車にも安い馬車にも乗り慣れている。ちょっと目を凝らせば見える距離のお店に、わざわざ馬車を呼んで向かったこともあるらしい。今じゃ考えられない贅沢だ。
そんなお母さんがなんの心配もしていないし、馬車も特に止まることなく進んでいる。どうやら私の思い過ごしだったらしい。心配して損した。
お母さんの隣に座る、私の敵《おとうと》も分かりやすいふくれっ面を見せながら窓の外に広がる樹木達を睨み付けたままだ。
ま、弟のマシューはこの数日間ずっとこうだから、どうでもいいけどね。
「ねえ、幌《ほろ》を空けていい? わたし、外の空気が吸いたい」
「いいわよ。でも暑いから、すぐに閉めなさいね」
返事よりも早く、私の真横に設置されていた回転棒をくるくると回す。
ほどなく布で出来た天井が音を立てて動き始めた。
見上げると、白色の生地だけだった光景が青と緑へと移り変わっていく。
縦横無尽に伸びた梢の隙間から大空が顔を出し、大白鳩《シェバト》の群が、我が物顔で飛び回っている。それを見た途端、私のお腹は可愛い物音を立てた。
……美味しそう。
大白鳩《シェバト》はこの大陸では鶏馬《ルロ》の次に食べられている一般的な食材だ。
何度か間近で見たけど、大きな翼と大きな足が特徴の丸々太った鳥だ。
子供くらいなら抱えて飛べそう、と思ったけど臆病な性格らしく、自分からは人間には近づかないらしい。
……その割には良く食べられているけれど。なんか、見てたらお腹空いてきた。
大白鷲《シェバト》から目を離し、身体を持ち上げると霧が私の顔を濡らしていく。お母さんは暑いと言っていたけれど、そんなことはない。
息抜きがてら伸びをしてみると、二頭の馬を操るおじさんと目が合い、一礼してきた。私も慌てて小さく会釈する。
私達が乗る馬車の周りには、碧色の景色が広がっていた。
見わたせば大小様々な木々。それはどれも苔むしていて、老木だけど力強さを感じる。
馬車は鬱蒼《うっそう》とした木々の間を縫う様に張り巡らされた空中通路を進んでいた。
けれどその道は地面じゃない。
大きな木の枝の上を私達は馬車で走っていた。
枝っていっても、その道自体はかなり広く作られている。
元々は枝と枝の間を移動しやすいようにと橋を架けたのが始まりだったらしいんだけど、その橋は苔やツタ、木の枝が絡みついて今はすっかり自然と同化してしまっている。
遠くの方を見ると、霧が光に当てられて森の色と混じり、幻想的な碧色が広がっている。
「もう太陽が真上だよ。まだ着かないの?」
生い茂る葉っぱの影に潜んでいる太陽の位置を確認しながら、私は自分の腰を浮かして痺れきったお尻を摩る。
このまま揺られていたら、私のお尻はお皿みたいに真っ平らになっちゃいそう。
「もうすぐのはずよ。我慢しなさい」
木漏れ日の光を頼りに、手帳から目を離さないお母さん。そんなんだから目を悪くしちゃうんだ。
「僕、もう帰りたい」
残念なことだけど、私の弟として生まれて来たマシューが絶対に無理なお願いを口にする。
「まだ新しい家に着いてもいないでしょ」
私がたしなめると、黒色の髪をわさわさと掻きむしり、分かりやすくふてくされながら続けた。
「こんな田舎嫌だ。王都《ルスラン》がいい!」
「ここも一応、王国《ルスラン》でしょ。無茶言わないで。もう前の家は無いのよ」
「嫌だ。僕、お父さんと暮らす」
「お父さんも、こんな我が儘ばっかりのガキんちょとふたりでなんて暮らしたくないでしょ」
「うるさい、ババア!」
「うるさい、クソガキ!」
「あ、また眉間に皺寄ってる。しわくちゃソフィア!」
「誰の所為だと思ってんの!?」
「もう、ソフィアもいい加減にしなさい! マシューも機嫌直しなさい! お父さんとはもう、暮らせないって言ったでしょ!」
お母さんからの一声で社内がしん、と静まりかえる。
言葉だけだ。マシューと目が合うと、舌を出しながら威嚇してきた。
ホント、ムカつく。ホント、死んでもらいたい。よりによって十三歳の乙女に向かってババアだ!? ホント、ムカつく。四つも年下の癖に口の利き方すら知らないのか。
「ほら、見えてきたわよ。……あれが新しいお家よ」
お母さんの言葉を受けてマシューは飛びはね、身を乗り出して進行方向を見る。
ぶつくさ言ってた割に気にしてんじゃない。
枝の道を降り、森が雑木林に変化してきている。
その場所に近づくにつれ、碧の霧が薄れていき、代わりにツタに覆われた石造りの建物が徐々に姿を見せ始めた。
雑木林に紛れるように、その建物はひっそりと佇んでいた。
斜塔付きのこぢんまりしたお家、だけど、三人で暮らすには十分な広さはありそう。
家の周りは当然の様に手入れはされていない。草や花々が生え放題になっているけれど、綺麗に刈り取れば結構、広い遊び場になるかも。
少し離れた場所に四角い木の屋根が着いたレンガ壁の休憩場所があり、その下には長いすも設置されている。
ランタンも吊るされているので、ここで夜にのんびり森の風景を眺めることも出来そうだ。
まるで田舎の教会聖堂をそのままお家にしたような場所。……というよりも、その言葉どおりなんだけどね。
お母さんのお父さん、私からしたらおじいちゃんになる人が若い頃に、金山で稼いだお金が沢山あって、売りに出ていた古い教会聖堂を買ったことがあるんだって。
教会聖堂が売りに出るなんて滅多にないっていうか今だと禁止されていることなんだけど、五十年前の当時は今より人も法律も色々と穏やかだったみたいだ。
おじいちゃんも友達の勧めで買ったらしいんだけど、自分のお屋敷がルスランにあったし、避暑地に使うには遠すぎるという理由で、使い道がなくほったらかしていたみたいだ。
だったら売ってしまえばいいのに。改装とかもしていたらしいんだけど、勿体ない話だよね。
元々、私達はルスラン王国の城下町、王都に住んでいたんだけど、お母さんとお父さんがそれはもう一言では語れない程の大喧嘩をしてしまい、色々あってお家を売りに出さなきゃいけなくなっちゃった。
それなら、ってことでおじいちゃんのほったらかしていた家を思いだしたお母さんは、丁度良いかと私とマシューを連れて移り住むことを決めてしまった。
王都から遠く西にあるノカって名前の田舎町にね。
森の町ノカ。町って言っても、なあんにも無い田舎町だよ。
けれど、森の町っていうくらいだから、古くて背の高い木々と同化したような街並みが広がっている。その景色は王都では絶対見られないくらい綺麗なもので、貴族の中にはわざわざ観光に行く人達もいるみたい。私も、王都に居たころに耳にしたことがあるくらい有名な町だ。
私も最初は楽しみにしていた。行く前はね。
もう見飽きたけど。
だってさぁ、王都から五日もかけて森の中に入って、そこから町まで二日だよ。その間、ずーっと同じような光景。やっと町らしいところにたどり着いたと思ったら、私達のお家は更に遠く、馬車で半日揺られるような離れた場所にあった。
ほんと、ここで生活していけるか今から心配。
愚痴言っててもしょうがないけど。
なんせ、今の私は一人では何もできない、十三歳の女の子だ。
住む家と食べる物があるだけ、幸せなんだろう。
②【ソフィア】
「うぁあ、きったなー……」
扉を開けた瞬間、広間に長年積もった埃が風に舞って広がっていく。
それを見て、新天地を見て浮かれていたマシューの顔が一気に険しくなる。
「家具は一通り揃ってるみたいで良かったわ。……先ずは掃除からね」
奥の部屋から出てきたお母さんの手は既に真っ黒になっている。
五十年分溜まりに溜まった汚れ。手強そうだけど、私なら勝てる。
さあ、いくよ。
と言うわけで、新居に辿り着いて早々に、私とお母さんは雑巾を片手に家中の汚れと格闘することになった。
マシューも一応手伝うけれど、貧弱だからすぐに飽きて家の中をぷらぷらするだけの存在になった。相変わらず碌な役にたたない。
私とお母さんの頑張りで家の中はみるみる綺麗になっていき、夜になる前にはある程度は我慢して住めるような状態に変わっていた。
そして、私達家族三人の、新たな生活が始まった。
*****
「この、ずっと湧き出てくる水、どんな原理なのかしら?」
台所に立ったお母さんが細工が施された金属の筒を前にして、首を傾げる。
私も気になっていた。
その筒は先のほうが魚の形をしていて、口から水がずっと流れている。
その水は壁に沿って掘られた溝を伝って家の外に流れていく。
「飲めるみたいだし、気にしないでいいんじゃない」
深く考えてもしかたないよ、という私の言葉に納得したのかしていないのか、お母さんはそれ以上続けることもなく料理を続けだした。
不思議だけど、考えても分からない事は分からない。なんにしたって、井戸を使わなくていいのは便利だ。
*****
短く刈り取られた芝生が広がる庭の真ん中で、私とマシューの影がぶつかり合う。
金属同士が擦れ合う音が連続して響く。
「ほら、右、左、右、足下お留守だよ!」
ぱしん、と軽い音を立てて、私の持った細剣の刀身がマシューの太股を叩きつける。
「ってぇ!?」
マシューが自分の持つ細剣を放り投げ、太股をさすりながら私を睨み付ける。
「何よ、言っとくけど、稽古付けろって言ってきたのはそっちだからね」
「だからって、ちょっとくらい手加減しろよ、この性悪女」
「あぁん? なんか言った?」
「ちょ、痛っ、痛いって!」
細剣でペシペシとマシューの頭を叩く。
練習用だから無茶な使い方しない限り安全だ。だから遠慮無く叩ける。
……もう、ほんと、心苦しいけど、可愛い弟の為だからしょうがない。
ちょっと厳しくなっちゃうのもしょうがない。
だってぇ、強い男に育ってもらいたいからぁ。
「糞ソフィア! ニヤニヤすんな!」
危ない危ない、顔に出てしまっていた。
*****
「あなた達、また喧嘩したのね。仲良くしなさいって言ってるでしょ」
晩ご飯の食卓。
顔や手が擦り傷だらけになった私達を見て、お母さんが深いため息を付く。
「僕は悪くない! ソフィアの所為だ!」
「アンタが飛びかかってきたんでしょ!」
まぁ、その前にマシューの色んなところを細剣でペシペシしてたけど。
「うるさい! お前なんか消えちゃえばいいんだ! 魔物に食べられちゃえばいいんだ!」
「人間なんで消えませーん。この辺りは魔物もいませーん。残念でしたぁ」
その後、割って入ってきたお母さんに私とマシューのにらみ合いは中断させられて、何故か私だけが夜通し叱られた。
お姉ちゃんなのに、口が悪すぎるとクドクド言われた。
私は悪くないのに。とばっちりだ。
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夜、ふと目が覚めてしまった私は水を飲みに一階へと降りる。
今更だけど、新しい家は二階建てで、私とマシューは二階の部屋を一部屋づつ自分の自由にできる空間として割り当てられている。
外から見た感じだと、二階の上に斜塔があるけれど、そこには登れないみたい。
多分、おじいさんが改装したときに斜塔に登る部分を無くしちゃったんだと思う。
実際あっても使わないんだろうけど、ちょっと残念だ。
台所に設置された魚型の筒から流れる水を飲んで、自分の部屋に戻ろうとした時、私の耳にうっすらと、聞き慣れた音が聞こえてきた。
細剣《レイピア》を突くときに出る、空気を裂く音だ。
*****
「……あんた、何してんの?」
寝間着に外套を羽織っただけの格好で外に出てみると、マシューが暗闇に紛れ、細剣《レイピア》を不器用に振り回していた。
汗だくになったマシューの黒髪から水の滴が流れ落ち、休憩場所に取り付けられたランタンの光に照らされながら次々に地面へ吸収されていく。
「げっソフィア……」
マシューの顔がまるでお化けを見つけた時みたいに真っ青になる。
「秘密の特訓でもしてるつもり? 別にそんなの格好良くないよ」
「う、うるさい! 別にそんなつもりじゃない!」
とか言ってるわりには動揺してる。絶対そうでしょ。
「いくらやっても、私には勝てないよ、あんたは」
「そんなの、やってみなきゃ分からないだろ!」
分かるよ。私はこれでも王都に居た頃は、剣術大会少年少女の部で準優勝になったこともあるくらいの腕前だ。
細剣《レイピア》同士なら、そこんじょそこらの奴らに負ける気はしない。
当然、このクソガキにだって、負けるつもりなんかない。
「大体、なんで細剣《レイピア》なのよ。あんただって、私の腕前知ってるでしょ? 同じ事してても私には絶対勝てないよ」
長椅子に座り、伸びをする。冷たい夜風と虫の鳴声が私の身体を安らげてくれる。
王都から来たばかりの頃はどうなるかと思ってたけど、慣れてきたら、こんな生活も悪くないのかもしれないと思えるようになってきた。
買い物はほんっっとうに不便だけど、王都に居た頃と比べて人も、環境も何もかもがゆったりとした空気が流れていて、自然と心が穏やかになっていく。
「別に……ねぇちゃんに勝つつもりでやってるわけじゃない」
あら珍しい。いつも私の事、呼び捨てばかりなのに。
「じゃあ、なんでやってるの?」
「ねえちゃんが強いの分かってるけど、それでも女だから」
「は?」
いやまあ、私は女の子だけど、それがどうした。
男の子にだってそうそう負けないつもりだけど、そういうこと?
「お父さんと離ればなれになって……この家に居る男、僕ひとりだろ」
いつもの生意気な弟とはまとう雰囲気が違うことを感じ取った私は、続く言葉に黙って耳を傾ける。
「前にお父さんに言われたんだ。何かあった時、お父さんがいない時は、僕がふたりを守れって。それができる、強い男になれって言われたんだ」
……なるほど。
お父さんが居なくなった今も、その言葉を律儀に護っているわけね。
「僕は……僕はねえちゃんから剣を教わって、そのうちねぇちゃんより強くなって……お母さんとねぇちゃんを護る。そうお父さんと約束したんだ」
「……馬鹿だね。ホント。私だってまだ十三歳だよ。これからまだまだ強くなれる。それを追い越して、私より強くなろうなんて十年早いよ」
「だったら、僕はそれよりも早く成長する!」
男って馬鹿だね。別に家族相手で男も女もないのに。
お母さんに何かあったときは私も護るし、マシューにも護ってもらう。
家族なんだから、いざって時にそうやって助け合わなきゃ。
「だったら、先ずはそのへなちょこな構えをどうにかしなさい。……剣を水平にして、腕と合わせて一本の線みたいにする」
「! ……こんな感じ?」
素直に私の言葉を飲み込んで、剣を構えるマシュー。
「そう、その体勢のまま、しばらく動かずにいなさい」
「しばらく、ってどのくらい?」
マシューの腕は早速プルプルしてきている。どんだけ貧弱なのよ。
「……剣、取ってくる」
「へっ?」
「私が剣取ってくる間、その体勢してなさい、って言ってるの」
私の言いたい事をやっと理解したのか。満面の笑みで頷くマシュー。
ほんと、面倒くさい。なんでこんな真夜中に、私がクソガキの稽古を付けなくちゃいけないのよ。
……でもまあ、いいや。今日はたまったま、そんな気分になっただけ。
別にいつもって訳じゃないし、今日くらいは、馬鹿で気真面目な弟に付き合ってやるか。
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