片隅の天使

mizuho

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第一章

あなたを信じる

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 リゼ・クレイン。
 自前のスケッチブックに、少女は小さくそう書いた。
 少女の名前だった。

 初めはそれ以上何も語ろうとしなかった。シイナもミクラスも無理に聞き出す事はなかった。
 けれど少しずつ、何日かかけて少しずつ、時折苦しそうに少女リゼは自らの事を紙に書き出していった。
 書こうとしても、書けない日もあった。
 本人のペースに任せるとシイナは言った。そんな日には、ミクラスは温かいシチューを作ってくれる。
「温かくて美味しい物を食べれば、心もあったかくなるでしょ?」そう言って。
 静かに見守ってくれるシイナと、温かく気遣ってくれるミクラスに、リゼの心は少しずつ解れていくのを感じたのだ。

 リビングのソファの上で、リゼは目を覚ました。
 スケッチブックを抱きしめたまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 窓の外は綺麗なオレンジ色だった。

「起きたか」

 声のした方を振り返ると、窓際の定位置にシイナが立っていた。
 リゼはソファから降りてシイナの隣に立つ。

『お仕事は?』

 手にしたスケッチブックに書かれた言葉を読んで、シイナは眉根を少し上げた。

「お前もあいつみたいに、仕事しろと口うるさく言うタイプか?」

 小さな頭が、困ったようにふるふると横に振られると、シイナは冗談だと言って軽く笑った。この人も笑うのだとリゼは思った。

「もう終わりの時間だからな。後はミクラスに任せてきた」

 リゼはオレンジが映り込むシイナの黒い瞳をじっと見た。

「――どうした?」

 何か言いたげな視線に、問いかける。 
 シイナの問いに、少し考えてからリゼはスケッチブックに目を落とした。

『どうして助けてくれるの?』

 今まで信頼できる人間が周りにいなかったのだから、当然の疑問だろう。
 シイナは片膝を床につくと、リゼの目線に合わせた。

「今まで、国に保護してもらおうと思った事はあるか?」

 首は横に振られた。

『兄が、国に知られたら研究や戦争に利用されるからダメだって』
「賢明な判断だ」

 だが――とシイナは澄んだ青い瞳をまっすぐに見た。

「俺達が国側の人間だとしたらどうする? それも、もっとも国の中枢に近い人間だ」

 沈黙が続いた。
 やがて、リゼはおもむろに片手を伸ばすと、目の前のシイナの頬にそっと触れた。
 初めて会った時のように、何かを確かめるようにシイナを見た後、ぎこちなく笑った。

『人の色が見えるの』

 書かれた言葉を読んで、シイナは怪訝な顔をした。

「色?」

 リゼがこくりと頷く。

『生き生きとしてる人ほど眩しく、死が近い人は少しモヤが掛かって見える。悪い事を考える人はどす黒く。それは触れるとよりはっきり見える』

 驚きの表情で、シイナは目の前に綴られていく文字を見つめる。 
 リゼの力は治癒だけではないようだ。

『昔、私を捕らえようとした人も、私達に悪さをしようとした人達も、みんな黒く汚れて見えた。今なら色が持つ意味が分かる。だから――』

 ページがめくられ、そこに書かれた文字は、

『あなたを信じる』だった。

 シイナには、それはどんな言葉よりも説得力のある言葉に思えた。
 その綺麗な青い瞳には、なにが映って見えるのだろうか。

「俺は何色に見える」

 そう尋ねると、うーんと考える仕草をして、『紫に近いとても綺麗な色』とリゼが答える。
『でも、奥に哀しそうな色も見える』とも。

 なるほどこれは、と。

「お前に隠し事は出来なそうだな」

 苦くそう言うと、リゼが首を傾げる。その仕草がリスのようで、シイナは口元だけで笑った。

「子供が姿を消す事件は知っているか?」

 気を取り直し、最初のリゼの問いに対する答えを告げるための質問を投げかける。
 リゼがゆっくりと頷く。

『だから私達は隣の国へ逃げようとした』

 シイナの中で一つ疑問が解けた。だから国境近くの村へ向かうバスに乗っていたのか。

「昔、お前を捕らえようとした奴らと同じ仲間が、この事件を起こしている。お前が持つその力を、人工的に作り出そうとしているんだろう。そして、それに俺の身内が大きく関わっているかもしれない」

 リゼの瞳が大きくなる。

「だから止めたい。これが、俺がお前を助ける理由だ」

 少しの間の後、大きく開かれたままのリゼの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。青い瞳からこぼれる雫が綺麗で、一瞬おいてから、ああ泣いているのかとシイナは思った。

『セラを助けて』

 涙で滲んだスケッチブックに書かれた見知らぬ名前。

「……お前の兄さんの名前か?」

 こくこくと必死に頷くリゼの頬を両手で包むと、堰を切ったように溢れ出てくる涙をぬぐう。初めてリゼが助けを求めた瞬間だった。
 シイナとのやり取りで、助けを求めても大丈夫な大人だと判断したのだろう。

「最初からそのつもりだから、安心しろ」

 シイナの言葉で、リゼの涙は益々止まらなくなった。

「分かった、分かったから――」

 困り果て、リゼの身体を引き寄せると、腕の中で背中をぽんぽんと優しく叩く。
 まるで子供のようだと思い、そういえばまだ子供だったと思い直す。言動が大人びているせいか、忘れそうになる。

 部屋が急に明るくなった。窓の外はいつの間にか夜の帳が下りている。

「……暗い部屋で何してるんですか、シイナさん」

 仕事から戻ったミクラスが、呆れた顔をして立っていた。

「ミクラス、助けてくれ」

 普段無表情のシイナが、心底困り果てた顔をして助けを求めてくる姿に、思わずミクラスは吹き出した。

「馬鹿ミクラス! シイナさんに失礼でしょう!」

 後ろからスパンと頭を叩かれ、ミクラスの身体が前につんのめる。

「やめてよ、シェリア。馬鹿力なんだから」
「はぁ? もう一回言ってみなさいよ」
「ちょ、待って待って。それよりあっちの解決が先でしょ」

 殴られまいと頭を抱え、飛び退いたミクラスの後ろから、赤いショートヘアーが現れる。

「こんばんは、シイナさん。お邪魔致します。それとリゼちゃん?」

 シェリアが歩み寄り、リゼの前で腰をかがめた。

「はじめまして。国家諜報員のシェリア・リオネスといいます」
「本当の名前、名乗っていいの?」

 今さっき本名で呼んだ人が何を言っているのかと内心思ったが、シェリアはぐっと堪えた。

「信じてもらうには、まず自分からさらけ出さないとでしょう」

 鼻をすすりながらリゼが顔を上げる。
 目が合うと、赤い瞳が優しく微笑んだ。
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