同居人は料理が美味いけど、俺は料理を食べるのが上手い

篠崎汐音

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同居人と良い雰囲気になってるけど、俺は先へ進むのが怖い

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 賢太郎が帰ってきて、健は安心半分不安半分だった。横にいてくれるだけで嬉しいのだが、賢太郎に申し訳ない気持ちもある。賢太郎が大事で、ずっと一緒にいたいと思っているのに、彼のために痛みを堪えて頑張れる気がしない。……所詮、その程度の気持ちなのだと突き付けられているような気がして、後ろめたい気分だった。
 その日の晩御飯のポトフは美味しかった。キャベツや人参の甘みが優しく体に染み込んでいくようで、重い気分が少しだけ和らいだ。
 夜、同じ布団に入るとき、少し体が強張った。賢太郎は健の頭を撫でて優しく口付けをし、「おやすみ」と笑いかけてくれた。彼は性急に事を進めたいわけではないらしく、本当にただ、健と同じ布団で眠りたいと思っているようだ。
 ――やっぱり賢太郎が好きだ、この気持ちは嘘じゃない。キスを返しながら、健は繰り返し自分に言い聞かせた。


***


 優しい夜を何度も繰り返して、それでも健の気分は晴れなかった。あれから何度も風呂場で練習しているのに、不安を払拭するほどの結果が出てくれないのだ。
 もし、『そのとき』になったらどうすればいいのだろう。賢太郎が自分のことを求めてくれているのに、「今はごめん、無理」とすげなく断るなんて絶対にできない。かと言って、最後まで行為を完遂できる自信もなかった。

 『そのとき』が来ることを恐れて賢太郎の優しさに甘んじていたが、そんな安穏とした日々にもいつかは終わりが来る。練習を始めて何週間か経った頃、晩御飯の後片付けも終わってテレビの前で一段落していると、賢太郎が体を近づけてきた。

「今日も疲れた」
「お疲れ様。今日の、きゅうりと白きくらげ? のサラダ。美味しかった」
「ん、白きくらげだよ。良かった、喜んでもらえて。最近、少し元気なさそうだったから心配だった」
「……ありがとう。大丈夫だよ」

 図星を突かれて健は動揺したが、笑顔で誤魔化した。頬に賢太郎の手が添えられ、気づいたときには唇が重なっていた。
 湿った吐息が唇にかかり、心地良かった。労いの気持ちを込めて優しく頬を撫でていると、賢太郎の舌が口内に入ってきて、歯列をなぞられる。息が唇の隙間から漏れていった。服の裾から手が入り込んで、素肌に触れる。指先のひやりとした感触に小さな悲鳴を上げると、賢太郎が遠慮がちに目を合わせてぼそりと呟いた。

「良い?」

 その言葉の示す意味は分かっている。その先を想像するだけで息が苦しくなって、少しの期待と大きな不安が頭を支配する。

「風呂入ってからじゃ、だめ?」

 賢太郎に縋りついて懇願する。この先は未知で恐ろしい。だから、少しでも先送りしたかった。

「分かった。じゃあ、後でな」

 健の身体の震えを知ってか知らずか、賢太郎は頭を撫でてくれた。腹の底にあった冷たい鉛玉のような不安が、少しだけ軽くなった。しかし、風呂場に入るころには、その重さが再び健の動きを鈍らせていた。
 風呂で声を押し殺しながら、賢太郎の身体の一部が入ってくるであろう箇所を広げようとする。彼と同じ布団に入るようになってから、こうして一人で試しているけれど、二本目の指が入らない。何も入れられなかった最初からしたら大きな進歩だが、このままでは行為を完遂するのはどう考えても無理だ。ここからどうすれば良いのか分からない。恐怖で身体が竦んで、息が上がる。
 本当に何も知らない頃は、ただ期待を募らせていた。痛みと恐怖を知ってしまった今、もうその頃には戻れない。一人だから上手くいかないのだろうか。賢太郎と一緒にやってみたら、案外すんなり入ってしまうのだろうか。
 結局どうにもならないまま、健は風呂から出た。髪を乾かしてリビングに戻ると、布団の上で賢太郎が寝転がっていた。

「結構長かったな」
「……そうだね」

 曖昧な相槌を打つことしか出来なかった健は、恐る恐る布団の隅に座る。賢太郎は健の頬に手を当て、額と額をくっつけてきた。

「大丈夫か? 不安なら無理しなくて良いから」
「……大丈夫」

 詰めた息を吐き出すと、思考の風通しも良くなった気がした。目の前の賢太郎に焦点を合わせる。賢太郎は心配そうな顔をしていたけれど、健が軽くキスしたのを合図に、二人で布団に倒れ込んだ。

 健の服を脱がせて覆い被さる賢太郎は、恐怖のせいで知らない人に見える。顔も身体も賢太郎なのに。震える手で賢太郎の背を掻き抱く。賢太郎も健を抱きしめ返してくれた。賢太郎の身体は熱かった。……自分が冷えているだけなのかもしれないけれど。

「好きだ、健。大丈夫」

 質量を持った賢太郎の言葉が、背中を支えてくれるようだった。その言葉だけで頑張れる気がした。賢太郎が首筋に舌を這わせる感触で、身体が歓喜に震える。胸に触れる手が熱くて、冷えた身体に温もりが移っていくようだ。
 
 賢太郎の言葉に勇気を貰って、先に進めるはずだと思った。けれど、彼の手が下の方にずれて行くにつれ、健の身体は分かりやすく硬直してしまった。大丈夫か、と賢太郎は声をかけてくれる。大丈夫、と健も復唱する。けれど、言葉に身体と心がついていかない。温もりを貰ったはずの身体は末端から冷えていく。自分の指を入れたときの恐怖と圧迫感が消えてくれない。
 もし上手くいかなかったらどうしよう。賢太郎のことが好きなのに、痛みに耐えられないのは何故だろう。彼に見放されてしまうことが、健には一番耐えられないことだった。
 賢太郎は健の身体にたくさん触れてくれた。その温かさに心が何度も支えられる。けれど、それにも限りがあった。賢太郎の指先が冷たくなっていく。いけない、このままでは駄目だ。頭の中で警鐘が鳴り響く。
 賢太郎の指先が尻に触れたとき、風呂の中で息を殺し苦しんだ記憶がよみがえる。健は反射的に賢太郎の腕を握った。

「……賢太郎、ごめん。無理だ」

 賢太郎の顔に落胆の色が浮かんでいる。それを見て、心臓が冷えた刃に刺されたように健は動けなくなった。

 その後のことはあまり覚えていない。ただ、賢太郎と同じ布団に入るのが申し訳なくて、最近使っていなかったベッドに横たわった記憶は残っていた。
 翌朝目を開けると、隣で窮屈そうに賢太郎が眠っていた。彼の耳に顔を寄せて謝罪の言葉を呟くと、健は起き上がって身支度をし、家を後にした。
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