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オレは同居人と先へ進みたい
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ホテルの客室に戻ると、賢太郎は浴槽に湯を溜め始めた。十五分くらいはかかるだろう。ベッドに座る健の隣に腰掛けて、携帯のタイマーをセットしておく。後は、これが鳴るのを待って、健と二人でお風呂に浸かるだけ。そうすれば、この旅行の目的は全て達成される。
賢太郎は安心したと同時に一気に疲れを感じて、背中からベッドに身を投げ出した。食べ物の消化にエネルギーを持っていかれてしまっていることもあって、瞼が自然と下りていく。頭頂部に手の温もりを感じて目線を上げると、健が慈愛に満ちた笑みを浮かべて、賢太郎の頭を撫でていた。
「賢太郎、お疲れ様。今日は本当に、いろいろとありがとう。お陰で、すごく楽しかった」
「ん……気にするな」
「運転もしてくれたし、気を張ってたんだろ? タイマー鳴ったら、俺がお湯止めるから大丈夫。寝てて良いよ」
一旦、おやすみ。
一際優しい声に抱かれて、賢太郎の意識は深く沈んでいった。
***
シャワーの音が遠くで鳴り響いている。心地良い水の音が賢太郎の意識を浮上させた。
目を開けて起き上がる。アラームが鳴る前に目覚めてしまった。その割には、疲労がしっかり取れているような気もする。健はいない。トイレにでも行っているのだろうか。
携帯に目を遣ると、賢太郎は固まった。湯を溜め始めてから三十分が経過していたからだ。アラームは解除された形跡がある。シャワーの音は未だ鳴り止まない。……起こしてくれると言っていたのに、どうして一人で風呂に入っているんだ、健は。期待を裏切られたような気がして、賢太郎は気分を損ねた。
脱衣所で服を脱ぎ捨てる。健の服もそこにあった。少し乱暴に浴室の扉を開けると、健がシャワーに打たれたまま佇んでいる。
「おはよう。ゆっくりできた?」
「どうして起こしてくれなかったんだよ。オレと風呂入るの、そんなに嫌か?」
「違うから怒んないでよ。よく眠ってたからさ、起こすのが忍びなかったんだ」
少し元気が無いように見える健は、オレンジと黒のストライプ柄が入った容器を持っていた。見間違いでなければローションだ。え、と間抜けな声が出てしまった。それがローションだとしたら、健はまた一人で、賢太郎に黙って苦痛を耐えようとしていたに違いない。恋人に頼られない悲しみが、怒りと綯い交ぜになる。
「賢太郎? どうかした?」
「それ、何?」
思ったより低くてキツい声が出る。健は答えに窮していた。痺れを切らして、ローション? と尋ねると、健は気まずそうに頷いた。
「どうして?」
「え、っと……」
「また一人で、オレに黙って辛い思いするのかよ」
「……俺、痛いのは嫌だけどやりたくないとは言ってないよ」
健はローションの容器を両手で握りながら、声を絞り出した。中身は半分ほど減っていて、健がそれだけ一人で頑張ってきたことを裏付けている。
「出来なくても好きでいるって賢太郎が言ってくれて、めちゃくちゃ安心したし嬉しかった。さっきもすごく……気持ち良かったよ。でも、自分のことでいっぱいいっぱいになっちゃうのが申し訳ないんだ」
「それの何が悪いんだ。オレはかなり満足したよ」
「……それは良かったけどさ。自分の力で賢太郎を気持ち良くさせてあげたい、というか。違うな」
健は言葉を選んでいるというより探しているようで、発言が要領を得ない。賢太郎は、健にとって適切な言葉が出てくるまで待った。最終的に健の口から出てきたのは、文脈を無視した突飛な発言だった。
「……賢太郎は、したくないの?」
風呂の中で上目遣いでローションを持ちながら、そういうことを言うなんて卑怯だ。したい、と答える以外の選択肢がない。
健と最後まで出来なくても良いと思ったのは嘘じゃない。失敗したって、今すぐ出来なくたって、結果的にずっと出来なかったとしても、彼のことを嫌いにはならない。絶対に。けれど、健と繋がりたいという気持ちも捨てられない。矛盾しているように思えるけれど、どちらも健への好意から生まれた感情だ。失敗するとしても試してみたいし、健のことを求めたい。この気持ちに蓋はできない。
「したいけども」
「良かった。求められるのはとても嬉しいから。出来ないんだけどさ。さっきも別に、何もしてないんだ。ただローション持ってただけ。情けないけど勇気が出ない。期待させるようなこと言ってごめん」
健は努めて明るく振る舞っていたけれど、また一人で抱え込まれるのは困ると賢太郎は思っていた。健はしたいと思ってくれていて、賢太郎も同じ気持ちなのだ。だったら、痛みにまつわることは二人の問題だし、健だけが謝るのはおかしい。痛みを健に強いることは、本当ならしたくないけれど、できることなら二人で乗り越えてみたいと思っているのも事実だ。痛みや辛さを回避するのは悪いことではないけれど、折角二人で居るのだから、支え合って立ち向かってみたかった。
ただ、賢太郎は入れるだけだからそういうことが言えるのであって、健は痛いだけかもしれないし、気持ち良くなれないかもしれない。それを健に求めるのは賢太郎のエゴで、甘えだ。賢太郎は、健と物理的な痛みを分かち合うことはできないのだから。それでも、自分の欲求と相手の気持ちを擦り合わせて、二人で先に進んでいきたい。恐怖なら、共有して軽減することができる。自分に出来る範囲のことは、なんでもしてやりたかった。
賢太郎は安心したと同時に一気に疲れを感じて、背中からベッドに身を投げ出した。食べ物の消化にエネルギーを持っていかれてしまっていることもあって、瞼が自然と下りていく。頭頂部に手の温もりを感じて目線を上げると、健が慈愛に満ちた笑みを浮かべて、賢太郎の頭を撫でていた。
「賢太郎、お疲れ様。今日は本当に、いろいろとありがとう。お陰で、すごく楽しかった」
「ん……気にするな」
「運転もしてくれたし、気を張ってたんだろ? タイマー鳴ったら、俺がお湯止めるから大丈夫。寝てて良いよ」
一旦、おやすみ。
一際優しい声に抱かれて、賢太郎の意識は深く沈んでいった。
***
シャワーの音が遠くで鳴り響いている。心地良い水の音が賢太郎の意識を浮上させた。
目を開けて起き上がる。アラームが鳴る前に目覚めてしまった。その割には、疲労がしっかり取れているような気もする。健はいない。トイレにでも行っているのだろうか。
携帯に目を遣ると、賢太郎は固まった。湯を溜め始めてから三十分が経過していたからだ。アラームは解除された形跡がある。シャワーの音は未だ鳴り止まない。……起こしてくれると言っていたのに、どうして一人で風呂に入っているんだ、健は。期待を裏切られたような気がして、賢太郎は気分を損ねた。
脱衣所で服を脱ぎ捨てる。健の服もそこにあった。少し乱暴に浴室の扉を開けると、健がシャワーに打たれたまま佇んでいる。
「おはよう。ゆっくりできた?」
「どうして起こしてくれなかったんだよ。オレと風呂入るの、そんなに嫌か?」
「違うから怒んないでよ。よく眠ってたからさ、起こすのが忍びなかったんだ」
少し元気が無いように見える健は、オレンジと黒のストライプ柄が入った容器を持っていた。見間違いでなければローションだ。え、と間抜けな声が出てしまった。それがローションだとしたら、健はまた一人で、賢太郎に黙って苦痛を耐えようとしていたに違いない。恋人に頼られない悲しみが、怒りと綯い交ぜになる。
「賢太郎? どうかした?」
「それ、何?」
思ったより低くてキツい声が出る。健は答えに窮していた。痺れを切らして、ローション? と尋ねると、健は気まずそうに頷いた。
「どうして?」
「え、っと……」
「また一人で、オレに黙って辛い思いするのかよ」
「……俺、痛いのは嫌だけどやりたくないとは言ってないよ」
健はローションの容器を両手で握りながら、声を絞り出した。中身は半分ほど減っていて、健がそれだけ一人で頑張ってきたことを裏付けている。
「出来なくても好きでいるって賢太郎が言ってくれて、めちゃくちゃ安心したし嬉しかった。さっきもすごく……気持ち良かったよ。でも、自分のことでいっぱいいっぱいになっちゃうのが申し訳ないんだ」
「それの何が悪いんだ。オレはかなり満足したよ」
「……それは良かったけどさ。自分の力で賢太郎を気持ち良くさせてあげたい、というか。違うな」
健は言葉を選んでいるというより探しているようで、発言が要領を得ない。賢太郎は、健にとって適切な言葉が出てくるまで待った。最終的に健の口から出てきたのは、文脈を無視した突飛な発言だった。
「……賢太郎は、したくないの?」
風呂の中で上目遣いでローションを持ちながら、そういうことを言うなんて卑怯だ。したい、と答える以外の選択肢がない。
健と最後まで出来なくても良いと思ったのは嘘じゃない。失敗したって、今すぐ出来なくたって、結果的にずっと出来なかったとしても、彼のことを嫌いにはならない。絶対に。けれど、健と繋がりたいという気持ちも捨てられない。矛盾しているように思えるけれど、どちらも健への好意から生まれた感情だ。失敗するとしても試してみたいし、健のことを求めたい。この気持ちに蓋はできない。
「したいけども」
「良かった。求められるのはとても嬉しいから。出来ないんだけどさ。さっきも別に、何もしてないんだ。ただローション持ってただけ。情けないけど勇気が出ない。期待させるようなこと言ってごめん」
健は努めて明るく振る舞っていたけれど、また一人で抱え込まれるのは困ると賢太郎は思っていた。健はしたいと思ってくれていて、賢太郎も同じ気持ちなのだ。だったら、痛みにまつわることは二人の問題だし、健だけが謝るのはおかしい。痛みを健に強いることは、本当ならしたくないけれど、できることなら二人で乗り越えてみたいと思っているのも事実だ。痛みや辛さを回避するのは悪いことではないけれど、折角二人で居るのだから、支え合って立ち向かってみたかった。
ただ、賢太郎は入れるだけだからそういうことが言えるのであって、健は痛いだけかもしれないし、気持ち良くなれないかもしれない。それを健に求めるのは賢太郎のエゴで、甘えだ。賢太郎は、健と物理的な痛みを分かち合うことはできないのだから。それでも、自分の欲求と相手の気持ちを擦り合わせて、二人で先に進んでいきたい。恐怖なら、共有して軽減することができる。自分に出来る範囲のことは、なんでもしてやりたかった。
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