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螺旋階段は同じ所を通らない
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蒸気が肌の温度を奪って、涼しい空気の中へ消えていった。洗濯機の上にある薄紫のタオルと灰色の寝間着は、「遠慮しないで使ってくださいね」という念押しと共に宮下から渡されたものだ。真壁が元々着ていた服は、あれよあれよという間に、洗濯機の中に突っ込まれていた。
気を遣うなと言われると、余計に腰が引ける。びしょ濡れのまま服を着るわけにもいかないのに、マットを踏みしめるのにも無駄に時間がかかってしまった。ぽたぽたと垂れ落ちる水滴が、立ち止まる真壁をせっつくように繊維の色を変えていく。
このままでいるわけにもいかない。おずおずと、乾いたタオルを手に取った。
事が終わった後については、はっきり覚えていない。目が覚めた時には、ベッドで寝転んでいた。重りを外した後のような解放感が、全身に広がっていたことを覚えている。ここ最近、精神的にも身体的にもゆっくり休めていなかった。宮下との関係に纏わる心労から解放された結果、緊張の糸が切れたのだろうと、他人事のように推量した。
寝起きの思考は薄ぼやけていたが、ぬるま湯の中にいるような、和やかで良い気分だった。唯一つ不足があるとするなら、目覚めたとき、横に宮下がいなかったことだ。それでも、不自然によれた掛け布団の隙間に手を差し込むと、まだ温もりが残っていた。隣に宮下が居たこと、彼が離れてから時間が経っていないことを強く実感して、自然と顔が綻ぶ。
一人でいるのが寂しいなんて、とうの昔に知っている。自分と共にいてくれる人など現れないと、ずっと思っていた。けれど、心に空いた穴を埋められるなら誰でも良いわけではない。孤独をただ嘆くことと、横にいてほしい人をはっきり思い浮かべることは全く違うのだから。
宮下が寄越した夜着は、身に纏うと袖が少し余る。裾を引きずりながら、暗い寝室に入り込んだ。部屋の照明のスイッチに手が触れたが、押すことが憚られて、そのままベッドへ腰かける。
風呂に入るまでは、宮下が寝室に戻ってくるのを待ってから自宅に帰ろうと思っていた。昼からだが、翌日も仕事だと断って、立ち去るつもりだった。しかし、部屋に戻った宮下が真壁の申し出に頷くわけもなく、まず風呂に入らないかと引っ張られ、浴室に押し込まれたのだ。
身に余る幸福を享受することに身が竦む。気持ちを受け止めてもらえるだけで十分だったのだ。幸せに慣れて、自分の心が弱くなってしまうことが恐ろしい。逃れだしたい気持ちが心の片隅に巣食っているが、退路は早々に宮下に塞がれてしまった。寝間着では外にも出られない。
辺りが一気に明るくなる。目の表面に刺すような痛みが走って、顔を覆った。
「真壁さん、もう出たの? 早いね」
欲していた男の声が、杭のように真壁を打ち止める。目を開ける間もなく、輪郭を持った温もりに包まれた。
「体、強ばってる。緊張しすぎじゃないですか?」
「なんか落ち着かなくてさ。人の家に泊まるの、久し振りだから」
臆病な内心を悟られたくなくて、咄嗟にそれらしい嘘を吐く。来てほしくない未来への不安と、彼に抱かれたことによる安堵が、頭の中で渦を巻いている。
胸の奥底を晒し合って得た、上り詰めるような快さも、事が終わればあっという間に鎮まってしまう。まるで、やっと踏みしめた階梯の最上段から突き落とされるように、急降下していく。宮下への想いが褪せたのではない。ただ、体を重ねる前より、憂いが増してしまっているだけだ。
本当は、ずっと傍にいると言ってほしいし、傍にいたい。けれど、そんな自分勝手な願いを図々しく申し出られるような自信など、真壁の中には存在しなかった。
「やっと泊まる気になってくれた?」
「誰かさんに服を無理矢理洗濯されたせいでね。俺はすぐ帰るつもりだったのに」
「……ふーん、それは難儀でしたね」
気のない相槌を打った宮下は、背を向けて掛け布団の中に体を潜り込ませた真壁の方を向く気配もない。
「あのさ、拗ねないで」
「俺ばっかり一緒にいたいって思ってるみたいで、気に入らない」
叱られた後の子供のような、不機嫌な口ぶりがいじらしくて、自然と口元が緩んだ。棘のある言葉の中に隠れた思慕を感じて、陰気臭い思案が霧となって晴れていく。結局のところ、一人で考え込んでいるよりも宮下と言葉を交わしたほうが建設的なのだと、ようやく思い知った。
宮下には宮下の考えがある。告白の時も行為の時も、彼は真壁の予想したようには動いてくれなかった。断るどころか抱きしめてくれて、浅いところで焦らしたくせに深くまで潜り込んで。けれど、彼が思い通りになってくれなくても構わない。そんな彼が好きなのだから。
――俺も、隣にいたいって言えば良い。彼に求められなくても。我が儘だったとしても。
「ごめん、言い方が悪かったな。でも、君ばっかりじゃないよ。俺だって宮下くんのこと好きだし、できるだけ同じ時間を過ごしていたい」
「……真壁さん、大人だよね。割り切れてるっていうか、切り替えが早いっていうか」
「全然割り切れてない。俺、君といつか離れるのが嫌だから、一緒にいるのが怖いだけなの。本末転倒だよな」
「離れるのが嫌なら、今のうちに、思い残すことなんてないくらいに愛情を注いでおけばいいと思いますけど」
ぐいぐいと手を引かれて、同じ布団に入った。「もっと構ってくれ」という宮下の意思表示なのだろう。離れる前に、後悔しないように。
真壁がしばしば見失ってしまう問いの答えを、宮下は何度も示してくれる。何もできないまま人間関係が壊れてしまったことも、壊れた後に逃げ出してしまったことも、真壁の中で大きな枷になっていた。同じ轍を踏みたくないと恐れるあまりに幸福の予兆まで叩き潰して、自分のことを守ってきた。また、繰り返すところだった。
「そう、だな。宮下くんの方が、よっぽど大人だよ」
「大人じゃないです。真壁さんの都合、全然考えられなかった。……今更だけど、明日の仕事の前、何か用事があったりしました?」
「予定なんてないよ。仕事と、……君といる以外は」
隙間を埋めるように、宮下の背に腕を回す。体温が馴染んで、彼との境がなくなっていく。
行為のときに味わった追い立てられるような高揚感は、嘘のように落ち着いていた。やることが終わった途端、虚しさに襲われてしまうのは男の性だけれど、二人の間に漂う静けさは、それとは別種のものだった。穏やかで、安らかで、凪いでいた。
気を遣うなと言われると、余計に腰が引ける。びしょ濡れのまま服を着るわけにもいかないのに、マットを踏みしめるのにも無駄に時間がかかってしまった。ぽたぽたと垂れ落ちる水滴が、立ち止まる真壁をせっつくように繊維の色を変えていく。
このままでいるわけにもいかない。おずおずと、乾いたタオルを手に取った。
事が終わった後については、はっきり覚えていない。目が覚めた時には、ベッドで寝転んでいた。重りを外した後のような解放感が、全身に広がっていたことを覚えている。ここ最近、精神的にも身体的にもゆっくり休めていなかった。宮下との関係に纏わる心労から解放された結果、緊張の糸が切れたのだろうと、他人事のように推量した。
寝起きの思考は薄ぼやけていたが、ぬるま湯の中にいるような、和やかで良い気分だった。唯一つ不足があるとするなら、目覚めたとき、横に宮下がいなかったことだ。それでも、不自然によれた掛け布団の隙間に手を差し込むと、まだ温もりが残っていた。隣に宮下が居たこと、彼が離れてから時間が経っていないことを強く実感して、自然と顔が綻ぶ。
一人でいるのが寂しいなんて、とうの昔に知っている。自分と共にいてくれる人など現れないと、ずっと思っていた。けれど、心に空いた穴を埋められるなら誰でも良いわけではない。孤独をただ嘆くことと、横にいてほしい人をはっきり思い浮かべることは全く違うのだから。
宮下が寄越した夜着は、身に纏うと袖が少し余る。裾を引きずりながら、暗い寝室に入り込んだ。部屋の照明のスイッチに手が触れたが、押すことが憚られて、そのままベッドへ腰かける。
風呂に入るまでは、宮下が寝室に戻ってくるのを待ってから自宅に帰ろうと思っていた。昼からだが、翌日も仕事だと断って、立ち去るつもりだった。しかし、部屋に戻った宮下が真壁の申し出に頷くわけもなく、まず風呂に入らないかと引っ張られ、浴室に押し込まれたのだ。
身に余る幸福を享受することに身が竦む。気持ちを受け止めてもらえるだけで十分だったのだ。幸せに慣れて、自分の心が弱くなってしまうことが恐ろしい。逃れだしたい気持ちが心の片隅に巣食っているが、退路は早々に宮下に塞がれてしまった。寝間着では外にも出られない。
辺りが一気に明るくなる。目の表面に刺すような痛みが走って、顔を覆った。
「真壁さん、もう出たの? 早いね」
欲していた男の声が、杭のように真壁を打ち止める。目を開ける間もなく、輪郭を持った温もりに包まれた。
「体、強ばってる。緊張しすぎじゃないですか?」
「なんか落ち着かなくてさ。人の家に泊まるの、久し振りだから」
臆病な内心を悟られたくなくて、咄嗟にそれらしい嘘を吐く。来てほしくない未来への不安と、彼に抱かれたことによる安堵が、頭の中で渦を巻いている。
胸の奥底を晒し合って得た、上り詰めるような快さも、事が終わればあっという間に鎮まってしまう。まるで、やっと踏みしめた階梯の最上段から突き落とされるように、急降下していく。宮下への想いが褪せたのではない。ただ、体を重ねる前より、憂いが増してしまっているだけだ。
本当は、ずっと傍にいると言ってほしいし、傍にいたい。けれど、そんな自分勝手な願いを図々しく申し出られるような自信など、真壁の中には存在しなかった。
「やっと泊まる気になってくれた?」
「誰かさんに服を無理矢理洗濯されたせいでね。俺はすぐ帰るつもりだったのに」
「……ふーん、それは難儀でしたね」
気のない相槌を打った宮下は、背を向けて掛け布団の中に体を潜り込ませた真壁の方を向く気配もない。
「あのさ、拗ねないで」
「俺ばっかり一緒にいたいって思ってるみたいで、気に入らない」
叱られた後の子供のような、不機嫌な口ぶりがいじらしくて、自然と口元が緩んだ。棘のある言葉の中に隠れた思慕を感じて、陰気臭い思案が霧となって晴れていく。結局のところ、一人で考え込んでいるよりも宮下と言葉を交わしたほうが建設的なのだと、ようやく思い知った。
宮下には宮下の考えがある。告白の時も行為の時も、彼は真壁の予想したようには動いてくれなかった。断るどころか抱きしめてくれて、浅いところで焦らしたくせに深くまで潜り込んで。けれど、彼が思い通りになってくれなくても構わない。そんな彼が好きなのだから。
――俺も、隣にいたいって言えば良い。彼に求められなくても。我が儘だったとしても。
「ごめん、言い方が悪かったな。でも、君ばっかりじゃないよ。俺だって宮下くんのこと好きだし、できるだけ同じ時間を過ごしていたい」
「……真壁さん、大人だよね。割り切れてるっていうか、切り替えが早いっていうか」
「全然割り切れてない。俺、君といつか離れるのが嫌だから、一緒にいるのが怖いだけなの。本末転倒だよな」
「離れるのが嫌なら、今のうちに、思い残すことなんてないくらいに愛情を注いでおけばいいと思いますけど」
ぐいぐいと手を引かれて、同じ布団に入った。「もっと構ってくれ」という宮下の意思表示なのだろう。離れる前に、後悔しないように。
真壁がしばしば見失ってしまう問いの答えを、宮下は何度も示してくれる。何もできないまま人間関係が壊れてしまったことも、壊れた後に逃げ出してしまったことも、真壁の中で大きな枷になっていた。同じ轍を踏みたくないと恐れるあまりに幸福の予兆まで叩き潰して、自分のことを守ってきた。また、繰り返すところだった。
「そう、だな。宮下くんの方が、よっぽど大人だよ」
「大人じゃないです。真壁さんの都合、全然考えられなかった。……今更だけど、明日の仕事の前、何か用事があったりしました?」
「予定なんてないよ。仕事と、……君といる以外は」
隙間を埋めるように、宮下の背に腕を回す。体温が馴染んで、彼との境がなくなっていく。
行為のときに味わった追い立てられるような高揚感は、嘘のように落ち着いていた。やることが終わった途端、虚しさに襲われてしまうのは男の性だけれど、二人の間に漂う静けさは、それとは別種のものだった。穏やかで、安らかで、凪いでいた。
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