喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

文字の大きさ
上 下
32 / 36
シーズン1

第三十二話

しおりを挟む
「ん? ただのサラリーマンをしている俺の、どこが推せるポイントなんだ?」
 さすがに、『五十嵐室長のイメージにピッタリなところ』とは言えない。
「前にも言いましたが、眉目秀麗なところです」
「ああ、なるほど」
 蓮水はあっさりと済ませた。本当に幼い頃から容姿を褒められ慣れているのだろう。
「そこまで、蓮水樹としても気に入ってくれていたなら、婚姻に抵抗しなくてよかったんじゃないか?」
 凡子はゆっくりと、顔を左右に動かした。
「だからこそです。私にとって、どれだけ尊い存在か……」
 蓮水が「人の気持ちとは、計り知れないものだな」と、呟いた。
「で、物書きとしては、文章が気に入っているという感じか?」
 凡子は、首をかしげた。
「恋様への思いは言葉で表せるものではありませんが、強いて言うなら、文章力と表現力、そして作品からにじみ出る人間性……キャラクター造形も素晴らしいですし、あと、会話のテンポ」
「ありがとう」と、蓮水から遮られた。
「これ以上は、恥ずかしいからもう良い」
 少し頬が赤くなっている。容姿を褒めても受け流されるが、小説を褒めると照れるようだ。
――蓮水さんの照れた顔を見たければ、小説を褒めればいいんだ! いくらでも褒められる!
 凡子は俄然やる気が出て来た。
「ところで、俺のことを『恋様』『作者様』と呼ぶのはやめて欲しい。それに、呼び方が蓮水に戻っている。樹と呼ぶのに慣れてもらわないと困る」
「樹さんでしたね。すっかり忘れていました……でもどうして、『恋様』『作者様』とお呼びしてはいけないのですか? 樹さんは、間違いなく『恋様』で『作者様』なのに……」
 凡子にとって蓮水は、『樹』であるより水樹恋であることのほうがやはり重要だった。
「俺が小説を書いていることは、極秘だからな。人前でついうっかり呼ばれると困るんだ」
 蓮水の言いたいことはよく理解できる。しかし……
「『作者様』はわかりやすいですが、『恋様』もダメですか?」
「『恋様』と呼んでいる理由が、説明できないだろう」
「愛称的な……」
 蓮水は「うーん」と唸った後で、「わかった。人前では控えるという条件付きで、『恋様』は使ってもいいことにしよう」と、言った。
 凡子は「恋様、ありがとうございます」と、飛び跳ねそうな勢いで喜んだ。
「できるだけ、本名の方で呼んでくれ」
「承知しました!」
 凡子は頭の中で「樹さん、樹さん」と、練習をした。
 蓮水が体の向きを変え、本棚からベッドの方へ視線を移した。それから、ベッドの方へ歩きはじめた。凡子は、問題はないはずだと思いながら、少し緊張した。
 蓮水が、ベッドサイドのチェストに手を伸ばした。
「瓶を見たことはなかったが、綺麗だな」
 泉堂の使っている香水を手に取った。瓶の蓋をあけ、袖口にシュッとかけた。
――樹さんが、五十嵐室長の匂いに……。
 凡子はおかしな声が漏れないように、両手で口を塞いだ。
 蓮水は袖口を顔の前に近づけ「たしかに良い香りだな」と言った。
「お使いになるなら、差し上げます」
 凡子は、蓮水がますます五十嵐室長に近くなると思い、高揚した。
「いや、泉堂と同じ香りはさすがに。スーツをクリーニングに出すから試しにつけてみただけだ」
 よくよく考えれば、凡子が泉堂に香水の売っている場所を訊いたのだから、香水を渡したのが誰なのかすぐに突き止められてしまう。 
「五十嵐室長の使っているのはこの香水という設定にしても良さそうだ。キャラのイメージに似合いそうだからな」
――作者様のお墨付きをいただけた!
「イメージが湧いたから、リビングに戻って少し書いてもいいか?」
 凡子は満面の笑みで「どうぞ、お戻りください。準備は一人でできますので」と、返した。
 クローゼットからボストンバッグを取り出して、数日分の着替えを詰めた。足りない物があれば、会社の帰りに取りにくればいい。
 そろそろ夕食の調理を始めようと、凡子は部屋から出た。
 蓮水はリビングのソファに座って、タブレットPCの画面を真剣な顔で見つめている。
 凡子はスキップしたい気持ちをぐっと堪えて、極力蓮水の邪魔にならないよう、部屋の端の方を通る。
 蓮水が一瞬顔をあげ、凡子を見た。凡子は無言で会釈した。蓮水が目を細めて、微笑みかけてきた。その顔が、なんとも言えず良かったものだから、胸が締め付けられた。
 凡子は息をとめ、足早にリビングを出た。
 キッチンに入ってすぐに、大きく息を吸いこむ。
「いちいち、苦しすぎる……」
 蓮水と過ごせば過ごすほど、寿命が縮まっていく気がしていた。それでも、自分の寿命と引き換えに、蓮水が小説を書けるのであれば、本望だとも感じる。
 凡子は、まず、念入りに手を洗い、割烹着を身につけた。それから、冷蔵庫をあける。
 今夜は一人で、水樹恋と会えたお祝いをするつもりでいたため、いつもより少しだけ贅沢な食材を用意してあった。しかし、一人分しかない。
 契約婚で夫婦になったとはいえ、凡子の役割は実質、蓮水の生活面をサポートする家政婦だ。
「ドラマでも家政婦は、雇い主の家族と一緒に食卓を囲んでいないはず、ラムチョップは、樹さんにだけお出しすれば良いよね」
 凡子は『五十嵐室長の家政婦になったつもり』ではなく、蓮水の本当の家政婦として腕によりをかけようと、俄然やる気になった。
 
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

秘事

詩織
恋愛
妻が何か隠し事をしている感じがし、調べるようになった。 そしてその結果は...

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

4人の王子に囲まれて

*YUA*
恋愛
シングルマザーで育った貧乏で平凡な女子高生の結衣は、母の再婚がきっかけとなり4人の義兄ができる。 4人の兄たちは結衣が気に食わず意地悪ばかりし、追い出そうとするが、段々と結衣の魅力に惹かれていって…… 4人のイケメン義兄と1人の妹の共同生活を描いたストーリー! 鈴木結衣(Yui Suzuki) 高1 156cm 39kg シングルマザーで育った貧乏で平凡な女子高生。 母の再婚によって4人の義兄ができる。 矢神 琉生(Ryusei yagami) 26歳 178cm 結衣の義兄の長男。 面倒見がよく優しい。 近くのクリニックの先生をしている。 矢神 秀(Shu yagami) 24歳 172cm 結衣の義兄の次男。 優しくて結衣の1番の頼れるお義兄さん。 結衣と大雅が通うS高の数学教師。 矢神 瑛斗(Eito yagami) 22歳 177cm 結衣の義兄の三男。 優しいけどちょっぴりSな一面も!? 今大人気若手俳優のエイトの顔を持つ。 矢神 大雅(Taiga yagami) 高3 182cm 結衣の義兄の四男。 学校からも目をつけられているヤンキー。 結衣と同じ高校に通うモテモテの先輩でもある。 *注 医療の知識等はございません。    ご了承くださいませ。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

処理中です...