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シーズン1
第三十二話
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「ん? ただのサラリーマンをしている俺の、どこが推せるポイントなんだ?」
さすがに、『五十嵐室長のイメージにピッタリなところ』とは言えない。
「前にも言いましたが、眉目秀麗なところです」
「ああ、なるほど」
蓮水はあっさりと済ませた。本当に幼い頃から容姿を褒められ慣れているのだろう。
「そこまで、蓮水樹としても気に入ってくれていたなら、婚姻に抵抗しなくてよかったんじゃないか?」
凡子はゆっくりと、顔を左右に動かした。
「だからこそです。私にとって、どれだけ尊い存在か……」
蓮水が「人の気持ちとは、計り知れないものだな」と、呟いた。
「で、物書きとしては、文章が気に入っているという感じか?」
凡子は、首をかしげた。
「恋様への思いは言葉で表せるものではありませんが、強いて言うなら、文章力と表現力、そして作品からにじみ出る人間性……キャラクター造形も素晴らしいですし、あと、会話のテンポ」
「ありがとう」と、蓮水から遮られた。
「これ以上は、恥ずかしいからもう良い」
少し頬が赤くなっている。容姿を褒めても受け流されるが、小説を褒めると照れるようだ。
――蓮水さんの照れた顔を見たければ、小説を褒めればいいんだ! いくらでも褒められる!
凡子は俄然やる気が出て来た。
「ところで、俺のことを『恋様』『作者様』と呼ぶのはやめて欲しい。それに、呼び方が蓮水に戻っている。樹と呼ぶのに慣れてもらわないと困る」
「樹さんでしたね。すっかり忘れていました……でもどうして、『恋様』『作者様』とお呼びしてはいけないのですか? 樹さんは、間違いなく『恋様』で『作者様』なのに……」
凡子にとって蓮水は、『樹』であるより水樹恋であることのほうがやはり重要だった。
「俺が小説を書いていることは、極秘だからな。人前でついうっかり呼ばれると困るんだ」
蓮水の言いたいことはよく理解できる。しかし……
「『作者様』はわかりやすいですが、『恋様』もダメですか?」
「『恋様』と呼んでいる理由が、説明できないだろう」
「愛称的な……」
蓮水は「うーん」と唸った後で、「わかった。人前では控えるという条件付きで、『恋様』は使ってもいいことにしよう」と、言った。
凡子は「恋様、ありがとうございます」と、飛び跳ねそうな勢いで喜んだ。
「できるだけ、本名の方で呼んでくれ」
「承知しました!」
凡子は頭の中で「樹さん、樹さん」と、練習をした。
蓮水が体の向きを変え、本棚からベッドの方へ視線を移した。それから、ベッドの方へ歩きはじめた。凡子は、問題はないはずだと思いながら、少し緊張した。
蓮水が、ベッドサイドのチェストに手を伸ばした。
「瓶を見たことはなかったが、綺麗だな」
泉堂の使っている香水を手に取った。瓶の蓋をあけ、袖口にシュッとかけた。
――樹さんが、五十嵐室長の匂いに……。
凡子はおかしな声が漏れないように、両手で口を塞いだ。
蓮水は袖口を顔の前に近づけ「たしかに良い香りだな」と言った。
「お使いになるなら、差し上げます」
凡子は、蓮水がますます五十嵐室長に近くなると思い、高揚した。
「いや、泉堂と同じ香りはさすがに。スーツをクリーニングに出すから試しにつけてみただけだ」
よくよく考えれば、凡子が泉堂に香水の売っている場所を訊いたのだから、香水を渡したのが誰なのかすぐに突き止められてしまう。
「五十嵐室長の使っているのはこの香水という設定にしても良さそうだ。キャラのイメージに似合いそうだからな」
――作者様のお墨付きをいただけた!
「イメージが湧いたから、リビングに戻って少し書いてもいいか?」
凡子は満面の笑みで「どうぞ、お戻りください。準備は一人でできますので」と、返した。
クローゼットからボストンバッグを取り出して、数日分の着替えを詰めた。足りない物があれば、会社の帰りに取りにくればいい。
そろそろ夕食の調理を始めようと、凡子は部屋から出た。
蓮水はリビングのソファに座って、タブレットPCの画面を真剣な顔で見つめている。
凡子はスキップしたい気持ちをぐっと堪えて、極力蓮水の邪魔にならないよう、部屋の端の方を通る。
蓮水が一瞬顔をあげ、凡子を見た。凡子は無言で会釈した。蓮水が目を細めて、微笑みかけてきた。その顔が、なんとも言えず良かったものだから、胸が締め付けられた。
凡子は息をとめ、足早にリビングを出た。
キッチンに入ってすぐに、大きく息を吸いこむ。
「いちいち、苦しすぎる……」
蓮水と過ごせば過ごすほど、寿命が縮まっていく気がしていた。それでも、自分の寿命と引き換えに、蓮水が小説を書けるのであれば、本望だとも感じる。
凡子は、まず、念入りに手を洗い、割烹着を身につけた。それから、冷蔵庫をあける。
今夜は一人で、水樹恋と会えたお祝いをするつもりでいたため、いつもより少しだけ贅沢な食材を用意してあった。しかし、一人分しかない。
契約婚で夫婦になったとはいえ、凡子の役割は実質、蓮水の生活面をサポートする家政婦だ。
「ドラマでも家政婦は、雇い主の家族と一緒に食卓を囲んでいないはず、ラムチョップは、樹さんにだけお出しすれば良いよね」
凡子は『五十嵐室長の家政婦になったつもり』ではなく、蓮水の本当の家政婦として腕によりをかけようと、俄然やる気になった。
さすがに、『五十嵐室長のイメージにピッタリなところ』とは言えない。
「前にも言いましたが、眉目秀麗なところです」
「ああ、なるほど」
蓮水はあっさりと済ませた。本当に幼い頃から容姿を褒められ慣れているのだろう。
「そこまで、蓮水樹としても気に入ってくれていたなら、婚姻に抵抗しなくてよかったんじゃないか?」
凡子はゆっくりと、顔を左右に動かした。
「だからこそです。私にとって、どれだけ尊い存在か……」
蓮水が「人の気持ちとは、計り知れないものだな」と、呟いた。
「で、物書きとしては、文章が気に入っているという感じか?」
凡子は、首をかしげた。
「恋様への思いは言葉で表せるものではありませんが、強いて言うなら、文章力と表現力、そして作品からにじみ出る人間性……キャラクター造形も素晴らしいですし、あと、会話のテンポ」
「ありがとう」と、蓮水から遮られた。
「これ以上は、恥ずかしいからもう良い」
少し頬が赤くなっている。容姿を褒めても受け流されるが、小説を褒めると照れるようだ。
――蓮水さんの照れた顔を見たければ、小説を褒めればいいんだ! いくらでも褒められる!
凡子は俄然やる気が出て来た。
「ところで、俺のことを『恋様』『作者様』と呼ぶのはやめて欲しい。それに、呼び方が蓮水に戻っている。樹と呼ぶのに慣れてもらわないと困る」
「樹さんでしたね。すっかり忘れていました……でもどうして、『恋様』『作者様』とお呼びしてはいけないのですか? 樹さんは、間違いなく『恋様』で『作者様』なのに……」
凡子にとって蓮水は、『樹』であるより水樹恋であることのほうがやはり重要だった。
「俺が小説を書いていることは、極秘だからな。人前でついうっかり呼ばれると困るんだ」
蓮水の言いたいことはよく理解できる。しかし……
「『作者様』はわかりやすいですが、『恋様』もダメですか?」
「『恋様』と呼んでいる理由が、説明できないだろう」
「愛称的な……」
蓮水は「うーん」と唸った後で、「わかった。人前では控えるという条件付きで、『恋様』は使ってもいいことにしよう」と、言った。
凡子は「恋様、ありがとうございます」と、飛び跳ねそうな勢いで喜んだ。
「できるだけ、本名の方で呼んでくれ」
「承知しました!」
凡子は頭の中で「樹さん、樹さん」と、練習をした。
蓮水が体の向きを変え、本棚からベッドの方へ視線を移した。それから、ベッドの方へ歩きはじめた。凡子は、問題はないはずだと思いながら、少し緊張した。
蓮水が、ベッドサイドのチェストに手を伸ばした。
「瓶を見たことはなかったが、綺麗だな」
泉堂の使っている香水を手に取った。瓶の蓋をあけ、袖口にシュッとかけた。
――樹さんが、五十嵐室長の匂いに……。
凡子はおかしな声が漏れないように、両手で口を塞いだ。
蓮水は袖口を顔の前に近づけ「たしかに良い香りだな」と言った。
「お使いになるなら、差し上げます」
凡子は、蓮水がますます五十嵐室長に近くなると思い、高揚した。
「いや、泉堂と同じ香りはさすがに。スーツをクリーニングに出すから試しにつけてみただけだ」
よくよく考えれば、凡子が泉堂に香水の売っている場所を訊いたのだから、香水を渡したのが誰なのかすぐに突き止められてしまう。
「五十嵐室長の使っているのはこの香水という設定にしても良さそうだ。キャラのイメージに似合いそうだからな」
――作者様のお墨付きをいただけた!
「イメージが湧いたから、リビングに戻って少し書いてもいいか?」
凡子は満面の笑みで「どうぞ、お戻りください。準備は一人でできますので」と、返した。
クローゼットからボストンバッグを取り出して、数日分の着替えを詰めた。足りない物があれば、会社の帰りに取りにくればいい。
そろそろ夕食の調理を始めようと、凡子は部屋から出た。
蓮水はリビングのソファに座って、タブレットPCの画面を真剣な顔で見つめている。
凡子はスキップしたい気持ちをぐっと堪えて、極力蓮水の邪魔にならないよう、部屋の端の方を通る。
蓮水が一瞬顔をあげ、凡子を見た。凡子は無言で会釈した。蓮水が目を細めて、微笑みかけてきた。その顔が、なんとも言えず良かったものだから、胸が締め付けられた。
凡子は息をとめ、足早にリビングを出た。
キッチンに入ってすぐに、大きく息を吸いこむ。
「いちいち、苦しすぎる……」
蓮水と過ごせば過ごすほど、寿命が縮まっていく気がしていた。それでも、自分の寿命と引き換えに、蓮水が小説を書けるのであれば、本望だとも感じる。
凡子は、まず、念入りに手を洗い、割烹着を身につけた。それから、冷蔵庫をあける。
今夜は一人で、水樹恋と会えたお祝いをするつもりでいたため、いつもより少しだけ贅沢な食材を用意してあった。しかし、一人分しかない。
契約婚で夫婦になったとはいえ、凡子の役割は実質、蓮水の生活面をサポートする家政婦だ。
「ドラマでも家政婦は、雇い主の家族と一緒に食卓を囲んでいないはず、ラムチョップは、樹さんにだけお出しすれば良いよね」
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