喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン1

第三十話

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 凡子の家には、タクシーで向かうことになった。凡子一人なら公共交通機関を使っていた。蓮水が迷わずタクシーを呼ぶあたりに、経済格差を感じていた。思い返せば凡子の母親もよくタクシーを使う。凡子は、稼ぎの違いがそのまま経済観念の違いになるだけだと気づいた。
 エレベーターで下りて、マンションの外へ出ると、すでにタクシーが前で待っていた。
 凡子は乗り込んですぐに、息を止めた。芳香剤がきつすぎる。
 ただでさえ、蓮水と自分の家に入ると考えるだけで、憂鬱なのに、さらに気分が沈んだ。
 蓮水も同じように感じたのか、行き先を告げるより先に「少し窓を開けておいてほしい」と依頼した。
 蓮水は、運転手に行き先を告げると、すぐに持っていた鞄からタブレットPCを取り出した。途端に、凡子の気分が一気に晴れた。
――移動中に、執筆されるんだわ。
 凡子は邪魔をしないよう押し黙っていたが、隣が気になって仕方なかった。
 我慢できずに、横目で画面を覗こうとした。なかなか見えず、気づかれない程度に、蓮水の方へ体を傾けた。もう少しで画面が見えそうだが、シートベルトが邪魔でこれ以上は体が傾けられそうにない。それでも、あと少しと思い、体を斜めに伸ばそうとした。
「うっ、痛い」
 凡子は無理な姿勢をとったせいで、脇腹がつってしまった。
「どうした?」
「なんでもありません。邪魔をしてしまい申し訳ございません。私のことは気になさらず、どうか、続きをお書きください」
 まだつったままなので、痛みで顔が引きつってしまう。
「叔父達に訊かれそうなことをピックアップしていただけだから、構わない」
「小説の執筆ではなかったのですか……」
 凡子は無理して覗こうとしなければ良かったと後悔した。
 
「小説は、さすがにもう少し落ち着いた状態じゃないと書けないな」
 凡子は、執筆を甘く見ていたと反省した。たしかに何事にも環境は大切だ。移動中に書いていたといっても、新幹線の指定席くらい落ち着けなければ無理なのだろう。
 道路が結構混んでいる。タクシーの運転手は話し好きではないらしく、何も話題を振ってこない。蓮水と凡子の関係を、掴みきれないのかもしれない。運転手も、まさか二人が書類上の夫婦だとは思っていないだろう。だからといって、不倫関係にも見えそうにない。同僚になら、見えなくはない気がした。
 凡子は、沈黙に耐えられなくなってきた。
 何か、話題をと考えて、早めに把握しておきたい事柄を思いついた。
「はす……樹さん、好きな食べ物はなんですか?」
 蓮水が顔を凡子の方へ向け、「え?」と、首を傾げた。凡子は変なことを訊いたつもりはなかったが、焦った。
「では、嫌いな食べ物でも、かまいません」
「聞き間違いじゃなかったんだ。好きな食べ物か……特にない。嫌いな食べ物も、思いつかないな」
 一番困る答えだ。
「アレルギーはありませんか?」
「今のところはない」
 蓮水が「それにしても、唐突だな」と、笑った。
「これから、樹さんの健康管理を任されますので、食事の好みは把握しておかなければと考えました」
「あー、そうか。なみこは料理ができるのか。そこまでは考えていなかった。うちは調理器具が無いから、早いうちに揃えよう」
 凡子は、家に食材が残っていることを思い出した。蓮水の家に今日から住み込むのであれば、使い切らなければならない。
「もし、お嫌でなかったらですが、夕食は、うちで何か作りましょうか? 残っている食材を使い切るためなので、あり合わせにはなってしまいますが」
 蓮水が「せっかくだから、いただこうか」と言った。

 とくに会話も弾まないまま、凡子の家に着いた。
「良いマンションだな。さすが、外資系大手コンサル会社の本社勤務」
 蓮水がマンションを見上げている。
「樹さんの部屋と違って、間取りは、いかにもファミリー用です。とにかく、中に入りましょうか」
 蓮水の部屋は、リビングもキッチンも物があまりなくただ広い空間だった。
 エレベーターに乗り込んだ。
 蓮水から「お義母さんは、秀子って名前だったよな」と、話しかけられた。婚姻届けを見て覚えていたのだろう。
「『凡子』って名前は、誰がつけたんだ?」
「母です」
 蓮水が「なぜそう名付けたのか、なんとなくわかるな。周囲の期待通り、優秀であろうとするのってきついからな」と、言った。
「自分らしく自由に育って欲しかったのかもな」
 凡子は、母の言っていた「平凡に育ってほしい」も、言葉の選択でここまで良い意味に聞こえるのだから、不思議だ。
「さすが、恋様……言葉の魔術師でいらっしゃいますね……」
「言葉の魔術師か」
 蓮水は笑いながら「なみこ様からお褒め頂き、光栄でございます」と、言った。
「なるほど、私の言葉使いはたしかに仰々しいですね。以後、気をつけます」
 そうしているうちに、凡子の家にたどり着いた。
 いざ、鍵を開けようとして、凡子は手を止めた。
 凡子はこれまでの人生で、男性を家に呼んだことがなかった。実家とはいえ、今は、完全に一人で暮らしているのだ。
 凡子はとにかく蓮水を変に意識しないように、頭の中で自分に言い聞かせ始めた。
――一緒にいるのは男性ではなく、作者様で……作者様を家に呼ぶなんてもっとおかしい……そうだ、結婚したんだから、夫だ! お、夫って……蓮水さんで恋様なのに、夫だなんて、ヤバすぎる……。
 凡子は自分を落ち着かせるのに完全に失敗し、さらに混乱していた。
「どうした?」
 凡子は変に誤魔化すより、ありのままを伝えることにした。
「緊張がマックスになっただけです」
 蓮水が「なんか、悪いな」と言った。
 玄関の前でいつまでも突っ立っておくわけにはいかない。凡子は意を決して玄関の鍵を開け、中に入った。
「どうぞ、お入りください」と、蓮水を招き入れる。
「お邪魔します」
――五十嵐室長のCVのようなお声で『お邪魔します』が聞けるとは。
 どうしても緊張してしまうが、貴重な体験ができているとも、考えられる。
 蓮水が靴を脱ぎながら、「うちより随分シューズボックスが大きい。なるほど、こういうところが、ファミリータイプなんだ」と、楽しそうに言った。
「父が、家族三人で暮らす仕様にオーダーしたので、収納は多めです」
「間取りや内装は、お義父さんが選んだんだな」
「母は忙しいので、なんでも父に任せるんです」
「お義父さんが家庭内のサポートに専念していたと言っていたね」
「父は料理も上手で、アイロンがけはプロ級ですし、その上、温和で気配りもできて、とにかくすごい人なんです」
 蓮水が「へえ、会ってみたいな」と、微笑んだ。
 凡子は父親のことを話しているうちに、落ち着いた。
「とにかく、奥へどうぞ」と、蓮水をリビングへ案内した。手の平でソファを指し示して「かけて、お待ちください」と、声をかけた。
 蓮水はソファに腰掛けると部屋を見回して「落ち着く色合いの良いインテリアだな」と、呟いた。
 凡子はお茶を入れるためにキッチンに向かった。
 煎茶を用意して戻ると、蓮水はタブレットPCを出してなにやら入力している。凡子に気づいて顔をあげ「小説じゃないよ」と、微笑んだ。
「執筆できそうなほど、落ち着ける部屋ではあるが……」
「それならば、どうぞお書きください。私は夕食の準備などで席を外しますので」
 凡子は蓮水の邪魔をしないように、早々にリビングを出た。
 まずは、米をといで水にひたしておく。その間に、当面の着替えなどを用意する。自室へはリビングを通り抜ける必要があり、なるべく音を立てないよう気をつけながら歩いた。
「忍び足で、どこへ行くんだ」
 上手く通り過ぎたと思ったのに、蓮水から話しかけられた。
「荷物を準備するために自分の部屋に行きます」
「なみこの部屋か……見てみたいな」
 凡子は「な、なにもありませんよ」と、暗に断ったが、「それなら、問題ないな」と、蓮水がついてきた。
 実際、おかしな物は何もないので、凡子は仕方なく自分の部屋のドアをあけた。
 途端に蓮水が凡子の名前を呼んだ。いつもより、声が低い。
 それから、「昨日、泉堂がここに来たのか?」と、言った。




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