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シーズン1
第二十九話
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「やめたいと言うわけではなく、やはり、私では力不足に感じただけです」
蓮水が「そんなことはないよ」と言った。
「君は不思議なほど自己評価が低い。だけど、俺はそう思っていない。サイトに残してくれるコメントはいつも語彙が豊富で表現力も豊かだった。それに、実際こうして話していても、姿勢や所作が美しい。一緒に食事をした時も、そう感じた。まあ、今日は落ち着きがないが、だまし討ちして動揺させたのは俺だしな。会社で見かけたときには全く感じていなかった」
勤務中にはさすがに態度に出さなかったが、蓮水が前を通るとき、頭の中では今とそう変わらないテンションだった。
「なみこの言うような、俺の結婚相手として相応しいかどうか……俺が自分でこの言葉を使うのは傲慢な気がして躊躇われるけれど、いくら契約婚だとしても、叔父達に紹介できないと思っていたら、最初からこんな提案はしていない。つまり、俺は、なみこのことを自分に相応しいと思っている」
「もったいないお言葉、痛み入ります」
蓮水は「叔父と会うまでに、そういうところは、直してもらう。これじゃ、妻と言うより、秘書か何かに見えてしまう」と、目を細めた。
凡子は、自分の両親のやりとりを思い浮かべてみた。母は父によく肩をもんでもらっていた。ただ、父は母が仕事に専念できるようにと家庭に入っていたので、一般的とはいえない。
「どうすれば夫婦らしくみえるのか、私にはわかりません」
「そのあたりは、今日から練習していけばいい」
凡子は、精神的に疲れ切っていたので、そろそろ帰りたいと思い始めていた。
「本日の練習は、何時頃までの予定で考えてらっしゃいますか?」
「そうだな……、なみこは普段、何時頃に寝ているんだ?」
就寝時間から逆算して、ギリギリまで練習させるつもりなのだろうかと、凡子は驚いた。
「よく、十一時頃まで起きていますが、本日は疲れているので、もう少し早めにおいとましたいのですが……」
「おいとま?」
「遅くとも八時に帰りたいです」
蓮水が顔を左右に動かしながら「だめだ」と、言った。
夫婦らしい振る舞いを会得するのには、それだけ練習が必要なのだろうと、凡子は思った。凡子にしても、疲労を理由に修練をおろそかにして、本番で失敗するのは避けたい。
「わかりました。時間いっぱいまで勤しみます」
蓮水から「そこがまず間違っている」と、指摘された。
「肩の力を抜いて、自然な言葉遣いをしてもらわないと」
「不自然でしょうか?」
「とにかく硬すぎる」
蓮水相手に気安く話せるはずがない。
「努力します」
蓮水から「そこは、『頑張るわ』くらいだろう、普通」と、訂正された。
「なるほど」と、凡子は頷いた。
「できるだけ長い時間一緒に過ごせば、そのうち、慣れてくるはずだ」
凡子は内心、一緒に過ごしても、慣れるはずがないと思った。それよりは、自然な振る舞いをするのが役割だと、自分に言い聞かせる方が効果的な気がした。凡子は思ったことを蓮水に伝えた。
「それでも構わないよ」
「今日帰りましたら、夫婦ものの小説をいくつか熟読して、情報を収集しておきます」
蓮水はまた、顔を左右に動かしながら「だめだ」と、言った。
「恋様ほどではなくても、結構、リアリティのある小説を書く作者さんはいます」
「そっちじゃない」
凡子は首を傾げた。
「なみこには、今日からここで暮らしてもらう」
「今日からは、急すぎます」
サポートを引き受けると決めた時点で、同居する覚悟はできていた。それでも、今日の今日では、精神的にも物理的にも準備ができていない。
「急なのはわかっている」
凡子は、ひとまず先延ばしにできそうだとホッとした。
「明日なら可能か? 俺が深夜近くに仕事を終えて、そこから、迎えに行くことにはなるが」
「お疲れのところ迎えに来ていただくのは悪いです」
さらに先延ばしにできそうだと、内心喜んだ。
「そうなると、また次の週末になる。前日だけを準備にあて、叔父達に会うことになっても問題ないのか?」
「それは、無理かもしれません。ご挨拶を、その翌週にしていただくのは難しいですか?」
蓮水から、「なみこは本当にそれで良いのか?」と、問いかけられた。
「私は、構いませんが……」
蓮水は少し不機嫌な表情になった。
「俺との同居に抵抗感があるのは理解できる。だが、なみこがそうやって先送りにすればするほど、次の更新がお預けになる」
「は!」
凡子は、目を見開いて両手で口を押さえた。
「私が、間違っておりました。今すぐ、こちらへ泊まり込むための準備をいたします。いったん、帰宅してもよろしいでしょうか?」
「ひとまずは、一週間分ほどの着替えと、化粧品など身の回りの物があれば良いだろう。運ぶのを手伝うよ」
「家は会社に結構近いので、最低限の荷物だけ運べば、明日にでも、追加で取りにいけます」
凡子の暮らす家は、母の稼ぎで買った結構良いマンションなので、蓮水の暮らす部屋と遜色ない立地と広さだ。きちんと整理整頓もしているから、蓮水に家を見られても問題はない状態ではある。それでも、自分のテリトリーに、蓮水を入れるのは、どうしても避けたかった。
「婚姻届けに書き込んであった住所をみて本社ビルに近そうだとは思っていた。どんなところで暮らしているのか見ておきたかったからちょうど良い」
「いえ、一人で持ち運び可能です」
「それでも行くよ。妻の実家がどんなところか、まったく知らないわけにはいかない」
凡子は自分が口頭で説明すると言った。
しかし蓮水は、「こういうところからほころびが生じて嘘がばれるんだ。実際足を運んでおかないと」と、受け入れてくれなかった。
「荷物を取りにいくついでに、早めの夕食をとって、帰ってきたら今後のことをさらに話し合おう」
気がつけば、すでに十七時を回っていた。昼食時に待ち合わせて会席料理を食べた後で蓮水の家まで来た。それからも、結婚について押し問答を繰り返したのだから、時間が経つのは当然だった。
凡子はすでに疲れ切っていて、これ以上抵抗する気力も残っていなかった。
「わかりました。とにかく私の家に向かいましょう」
蓮水は「そうだな」と言って、立ち上がった。
凡子も、仕方なく立ち上がる。
――五十嵐室長グッズがこの世に存在しなくて助かった。
もし、そんな素晴らしい物が流通していれば、凡子は部屋に飾っていたはずだ。さすがに、作者本人に見られるのは恥ずかしい。
蓮水が「そんなことはないよ」と言った。
「君は不思議なほど自己評価が低い。だけど、俺はそう思っていない。サイトに残してくれるコメントはいつも語彙が豊富で表現力も豊かだった。それに、実際こうして話していても、姿勢や所作が美しい。一緒に食事をした時も、そう感じた。まあ、今日は落ち着きがないが、だまし討ちして動揺させたのは俺だしな。会社で見かけたときには全く感じていなかった」
勤務中にはさすがに態度に出さなかったが、蓮水が前を通るとき、頭の中では今とそう変わらないテンションだった。
「なみこの言うような、俺の結婚相手として相応しいかどうか……俺が自分でこの言葉を使うのは傲慢な気がして躊躇われるけれど、いくら契約婚だとしても、叔父達に紹介できないと思っていたら、最初からこんな提案はしていない。つまり、俺は、なみこのことを自分に相応しいと思っている」
「もったいないお言葉、痛み入ります」
蓮水は「叔父と会うまでに、そういうところは、直してもらう。これじゃ、妻と言うより、秘書か何かに見えてしまう」と、目を細めた。
凡子は、自分の両親のやりとりを思い浮かべてみた。母は父によく肩をもんでもらっていた。ただ、父は母が仕事に専念できるようにと家庭に入っていたので、一般的とはいえない。
「どうすれば夫婦らしくみえるのか、私にはわかりません」
「そのあたりは、今日から練習していけばいい」
凡子は、精神的に疲れ切っていたので、そろそろ帰りたいと思い始めていた。
「本日の練習は、何時頃までの予定で考えてらっしゃいますか?」
「そうだな……、なみこは普段、何時頃に寝ているんだ?」
就寝時間から逆算して、ギリギリまで練習させるつもりなのだろうかと、凡子は驚いた。
「よく、十一時頃まで起きていますが、本日は疲れているので、もう少し早めにおいとましたいのですが……」
「おいとま?」
「遅くとも八時に帰りたいです」
蓮水が顔を左右に動かしながら「だめだ」と、言った。
夫婦らしい振る舞いを会得するのには、それだけ練習が必要なのだろうと、凡子は思った。凡子にしても、疲労を理由に修練をおろそかにして、本番で失敗するのは避けたい。
「わかりました。時間いっぱいまで勤しみます」
蓮水から「そこがまず間違っている」と、指摘された。
「肩の力を抜いて、自然な言葉遣いをしてもらわないと」
「不自然でしょうか?」
「とにかく硬すぎる」
蓮水相手に気安く話せるはずがない。
「努力します」
蓮水から「そこは、『頑張るわ』くらいだろう、普通」と、訂正された。
「なるほど」と、凡子は頷いた。
「できるだけ長い時間一緒に過ごせば、そのうち、慣れてくるはずだ」
凡子は内心、一緒に過ごしても、慣れるはずがないと思った。それよりは、自然な振る舞いをするのが役割だと、自分に言い聞かせる方が効果的な気がした。凡子は思ったことを蓮水に伝えた。
「それでも構わないよ」
「今日帰りましたら、夫婦ものの小説をいくつか熟読して、情報を収集しておきます」
蓮水はまた、顔を左右に動かしながら「だめだ」と、言った。
「恋様ほどではなくても、結構、リアリティのある小説を書く作者さんはいます」
「そっちじゃない」
凡子は首を傾げた。
「なみこには、今日からここで暮らしてもらう」
「今日からは、急すぎます」
サポートを引き受けると決めた時点で、同居する覚悟はできていた。それでも、今日の今日では、精神的にも物理的にも準備ができていない。
「急なのはわかっている」
凡子は、ひとまず先延ばしにできそうだとホッとした。
「明日なら可能か? 俺が深夜近くに仕事を終えて、そこから、迎えに行くことにはなるが」
「お疲れのところ迎えに来ていただくのは悪いです」
さらに先延ばしにできそうだと、内心喜んだ。
「そうなると、また次の週末になる。前日だけを準備にあて、叔父達に会うことになっても問題ないのか?」
「それは、無理かもしれません。ご挨拶を、その翌週にしていただくのは難しいですか?」
蓮水から、「なみこは本当にそれで良いのか?」と、問いかけられた。
「私は、構いませんが……」
蓮水は少し不機嫌な表情になった。
「俺との同居に抵抗感があるのは理解できる。だが、なみこがそうやって先送りにすればするほど、次の更新がお預けになる」
「は!」
凡子は、目を見開いて両手で口を押さえた。
「私が、間違っておりました。今すぐ、こちらへ泊まり込むための準備をいたします。いったん、帰宅してもよろしいでしょうか?」
「ひとまずは、一週間分ほどの着替えと、化粧品など身の回りの物があれば良いだろう。運ぶのを手伝うよ」
「家は会社に結構近いので、最低限の荷物だけ運べば、明日にでも、追加で取りにいけます」
凡子の暮らす家は、母の稼ぎで買った結構良いマンションなので、蓮水の暮らす部屋と遜色ない立地と広さだ。きちんと整理整頓もしているから、蓮水に家を見られても問題はない状態ではある。それでも、自分のテリトリーに、蓮水を入れるのは、どうしても避けたかった。
「婚姻届けに書き込んであった住所をみて本社ビルに近そうだとは思っていた。どんなところで暮らしているのか見ておきたかったからちょうど良い」
「いえ、一人で持ち運び可能です」
「それでも行くよ。妻の実家がどんなところか、まったく知らないわけにはいかない」
凡子は自分が口頭で説明すると言った。
しかし蓮水は、「こういうところからほころびが生じて嘘がばれるんだ。実際足を運んでおかないと」と、受け入れてくれなかった。
「荷物を取りにいくついでに、早めの夕食をとって、帰ってきたら今後のことをさらに話し合おう」
気がつけば、すでに十七時を回っていた。昼食時に待ち合わせて会席料理を食べた後で蓮水の家まで来た。それからも、結婚について押し問答を繰り返したのだから、時間が経つのは当然だった。
凡子はすでに疲れ切っていて、これ以上抵抗する気力も残っていなかった。
「わかりました。とにかく私の家に向かいましょう」
蓮水は「そうだな」と言って、立ち上がった。
凡子も、仕方なく立ち上がる。
――五十嵐室長グッズがこの世に存在しなくて助かった。
もし、そんな素晴らしい物が流通していれば、凡子は部屋に飾っていたはずだ。さすがに、作者本人に見られるのは恥ずかしい。
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