喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン1

第二十四話

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 凡子は、心臓が口から飛び出してしまいそうだと思った。
 手の甲に、蓮水の手の温もりが伝わってくる。
――蓮水さんの手、サラサラしてる。
 一方で、凡子は手のひらに汗をかきはじめていた。
 結婚を迫られながら手を握られているせいで余計に心拍数が上がるのだと考え、凡子は脳内で設定を変更してみることにした。
――そうだ、作者様のサイン&握手会だと思おう。
 今、触れているのは、紛れもなく水樹恋の手なのだ。
――五十嵐室長はテクニシャンを紡ぎ出す魔法の手。
 凡子は余計に緊張が増し、「うぐっ」と、首を締め上げられるような奇妙な音を発した。
「君、大丈夫か?」
 蓮水が、心配のためか、手を強く握ってきた。
 凡子は、呼吸もまともにできずにいた。鼓動も速くなりすぎて、そのうち止まってしまいそうな気がしている。
「苦しくて、死にそうです」
「なにか、持病があるのか? 薬は?」
「とにかく、手を離してください」
「わかった」
 蓮水は、すぐに手を引いてくれた。凡子は息を吸い込んだ。
「勝手に触れて悪かった。君は、もしかして男性恐怖症か何かなのか?」
「大丈夫です……そうではなくて、恋様のサイン&握手会を想像してしまって、あまりの緊張で心臓が止まりそうになっただけです」
 蓮水が「するよ。サインくらい」と、不敵な笑いを浮かべた。
「先に、君が婚姻届にサインをしてくれれば」
「結婚すれば、サインがいただける……」
 凡子の決意は、たかだかサインで揺らいでいた。
 水樹恋はオフ会に参加したことはなかったはずだ。
 と、いうことは……
「今までに、サインをされたことは?」
「当然、ないよ」
「初めてのサイン……」
 そして、唯一のサインになる可能性もある。
「貴重すぎる……」
 婚姻届に署名捺印すれば、サインがもらえる。凡子は正直、サインが欲しくてたまらなかった。ファンなら誰だって、心が揺らぐ。
ーー私が恋様に結婚を迫ったわけじゃないのだし……。
 凡子は受け入れてしまおうかと思い始めていた。
 契約書に視線を移した。
 蓮水が、契約書を手に取り、ページをめくった。凡子の前に置いて「まず、ここにサインをお願いする」と、署名欄を指さした。
――まずは、契約に同意して、それから、婚姻届に……。
 凡子は葛藤していた。サインが欲しい。しかし、やはり蓮水の結婚相手として自分はふさわしくない。それに……
 凡子は、顔を強く左右にふった。
――欲に負けて結婚するなんて、よくない。
「サインは、諦めます。蓮水さんの将来の方が大事です」
 蓮水が舌打ちした。
「その気になったんじゃないのか?」
「少し誘惑に負けそうになっただけです」
 蓮水が「仕方ないな……」と、言った。
「ようやく……」
 諦めてもらえたと思っていた凡子の言葉は遮られた。
「俺が抱えている事情を話す。なぜ、君との婚姻を望んでいるか理解してもらう方が早そうだ」
 凡子は、結婚を承諾するつもりがないのに、プライベートな事情を聞いて良いのかと、迷っていた。
「お話いただいても、結婚はできないことにかわりありません」
「聞いた後でも気持ちが変わらなかったなら、それは、仕方ない。とにかく、俺の方は、このまま諦めるわけにはいかない」
 凡子は、ひとまず話を聞いてみることにした。
「そこまでおっしゃるのなら、お話ください。先に、ここで聞いたことは、一切口外しないと誓います」
 蓮水が「ありがとう」と言って、微笑んだ。
「少々、重い話も含まれるが、心配してもらう必要はないと、最初に断っておく」
 凡子は頷いた。
 五十嵐室長の設定からも、作者本人が何かしらのトラウマを抱えていてもおかしくない。
「まず、俺が育った環境を話す。両親は俺が中学へ上がる前に事故でなくなったから、俺は、母親の弟である叔父に育てられた」
  いきなり、苦労人になりやすい家庭環境だったものだから、凡子はどう反応していいかもわからず「はい」と、相槌をうった。
「俺と同い年の従兄弟もいて……」
 これは、苛められるパターンではないかと思ったが、蓮水は「本当の兄弟のように育った」と、続けた。
「叔父は、祖父の会社を継いでいたから、家も広かった。俺は、何不自由ないのを通り越して、物にしても教育にしても愛情にしても、過剰に与えられて育った」
 凡子はてっきり、不幸な生い立ちを聞かされると思っていたので、蓮水が恵まれた環境で育ったことに安堵した。
 しかし、婚姻を急いでいる理由がまったく読めずにいた。
 蓮水の説明によると、叔母は、亡くなった蓮水の母親の親友だったらしい。
「叔父も叔母も、早くに両親を亡くした俺を不憫に思い、本当の息子のように愛情を注いでくれた」
「素晴らしい方達ですね」
「本当に、そう思うよ」
 蓮水の身近には、理想の夫婦がいる。蓮水も、偽装結婚などせずに本気で愛する相手と幸せな家庭を築いた方が良いと、凡子は思っていた。
「ここまでの話で、叔父と叔母には恩があるという前提は理解してもらえただろう」
「わたしも恩義を感じております。お二人が蓮水さんを立派に育てられたおかげで、わたしが五十嵐室長に出会えたも同然なのですから」
 蓮水が首を傾げながら「当たらずとも遠からずといったところかな」と言った。
「これから、従兄弟のことを話す。俺が今追い詰められているのは、ほぼ、そいつのせいだ」
 本当の兄弟のように育った同い年の従兄弟に、どんな問題があるのだろう。
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