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シーズン1

第十五話

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 凡子は、せっかくなので、辺りを散策することにした。三月末なので、桜も咲いているはずだ。
 スマートフォンで検索をかける。
 川沿いで、桜まつりが開かれているらしい。会場は駅の近くだ。
 凡子は駅に向かって歩きはじめた。

『五十嵐室長はテクニシャン』の大きな魅力の一つに、出張先の情景描写の美しさがある。凡子は小説を読むことで、自分まで旅を楽しんだ気になっていた。

 普段、家と会社、習い事の教室と最寄りのスーパー以外に、あまり出かけない。すべてがビル群の中にあった。都内でも、こうやって少し足をのばせば、自然に触れられるのだ。

 まだ少し冷たい春の風が、すがすがしい。思い切り空気を吸い込んだ。鼻がむずむずして、そのあとに、三回続けてくしゃみが出た。凡子は、とうとう花粉症にかかったかと心配になった。しかし、それきり、くしゃみも鼻水も出ないので「きっと、誰かに噂されたのね」と、安堵した。

 桜まつりの会場についた。入り口の表示は『満開』だった。ここ数年、わざわざ桜見物をしなかった。こうやって、何百本もの桜が一カ所で咲き競っていると、やはり圧巻だ。

 細い川の両岸に、数キロにわたって桜が植えられている。
 桜の名所らしく、結構な人が来ていて、屋台も並んでいる。
 凡子は川にかけられた小橋の真ん中に立ち止まって、川の方に目を向けた。
 桜の枝が長くのび、川にせり出している。川幅が狭いので、中央で左右の桜の枝が重なって、トンネルのようになっていた。あまりに美しかったので、たくさん写真を撮った。

 凡子は、歩きたい気分になり、桜並木が終わった後も、川に沿って歩き続けた。天気もよく暖かなので、散歩を楽しんでいる人が結構いる。
 一時間近く歩き、さすがに疲れてきたので、位置情報で最寄り駅を探した。
 ちょうど、乗り換えなしで帰れる路線の駅があったので、そこで電車に乗った。
  
 家に帰り着いた時には、十三時近かった。

 買ってきたベーグルを一つ食べて、小腹を満たし、残りを冷凍した。それから、香水の瓶を、箱から取り出した。瓶は、深海を思わせる美しい色をしている。

「匂いを嗅ぎながら、読み返しをしよう」

 凡子は部屋着に着替えて、ベッドに寝転がった。ティッシュに軽く香水を吹きかける。辺りに良い香りが広がった。

 五十嵐室長が、同僚と花見に行く回があったはずだ。凡子は、探し出して読み始めた。
 少し読んで、凡子は「もしや、これは!」と、声をあげた。

 地名は明記されていないが、駅の近くにあるオブジェの描写が、今日見た物を思わせる。凡子は、確信を持つために読み進めた。高架下にあるショップも、結構かぶっている。

「私、聖地巡礼しちゃってた……知っていれば、もっと、しっかり見て歩いたのに」

 五十嵐室長は、都内在住の設定だ。舞台の多くが出張先なので、なかなか足を運べないが、都内なら、可能だ。

 凡子は、他にも『聖地巡礼』できる場所がないかを探し始めた。そのうちに、歩き疲れていたせいで、いつの間にか眠っていた。

 凡子は五十嵐室長が異動して、五十嵐室長ではなくなる夢を見た。
 ハッと目覚めて、スマートフォンを手に取った。蓮水監査部長の異動先をまだ訊けていない。泉堂に話題をそらされてそのままになっている。週明けには、蓮水監査部長は、監査部所属ではなくなっているはずだ。早く、新しい呼び方に慣れなくてはと思った。

 凡子は、泉堂とのチャットルームを開いた。

 まずは、お礼を打ち込んで、無事、香水が買えたことを報告した。それから、『ところで、蓮水監査部長は、どこの部署に異動なんですか? 泉堂さんも一緒に移るんですよね?』と、書き込んでおいた。

 そのうち、返信してくれるだろう。

『五十嵐室長はテクニシャン』の聖地をいくつか特定できたので、休日のモーニング開拓と併せて計画を立てる。
 毎週だと、すぐに尽きてしまう。月一ペースで楽しむ計画にした。
 まだかろうじて三月だ。四月にも行ける。都内の聖地には、作者も足を運んだことがあるはずだと気づき、余計、楽しみになった。

 そろそろ、夕食の用意に取りかかろうと思ったところで、泉堂からメッセージが届いた。
『そんなに気になるんだ。蓮水の異動先』
 なかなか、返しにくい内容だ。凡子は泉堂から聞き出すのを諦めた。

『昨日、聞けずじまいだったことを思い出しただけです。どうせ、そのうちわかるので、もういいです』

 画面を閉じ、キッチンへ向かうために立ち上がった。手の中で、スマートフォンが震え始めた。メッセージアプリの、通話機能を使って、泉堂がかけてきたのだ。
 今、返信をしたところなので、気づかないふりも難しい。凡子は、ため息をついたあとで、電話に出た。

〈ねえ、怒ったの?〉
 いきなり、訊ねられた。
「私がですか?」
〈うん〉
 面倒に感じただけで、怒ってなどいない。
「ただ、疲れているだけです」

〈あー〉と、泉堂が言った。耳元で聞こえるから、変な感じがする。凡子は、スピーカーフォンに切り替えて、耳元から離した。
「怒ってませんから、ご安心ください。私は、夕食の用意があるので」
〈今日は、当番なの?〉
 凡子は意味がわからず、首を傾げた。
「休日はできるだけ自炊してるんです」
〈もしかして、一人暮らしなの?〉
 隠しても仕方がないので「そうですよ」と、返した。

〈浅香さんって、意外に謎が深いね。この間は武道を嗜んでるの知って驚かされたし〉
 泉堂の顎に、突きを入れそうになった時のことだろう。
「警備員をしてるんで、そのくらいは」
〈浅香さんは受付嬢でしょう?〉
「いえ、そう見せかけて、警備員です」
 電話の向こうで泉堂が笑っている。

〈ほんと、面白い。お腹が痛くなるほど笑うの、数年ぶりだよ〉

 凡子は冗談を言ったつもりはなかったが、泉堂が喜んでいる様子なので、良しとした。
〈楽しませてくれたお礼に、蓮水と僕の異動先を教えてあげるね〉
「良いんですか!」
 凡子のテンションは一気に上がった。

〈移動先は人事部で、蓮水の役職は副部長、僕は、副部長補佐〉

「え? 人事部副部長ですか?」

 凡子は頭の中で『蓮水人事部副部長』と、唱えてみた。かなり言いにくい。

〈心配しなくても降格じゃないよ。このまま昇格していくコースに乗ってる感じ。蓮水が副部長なのも一時的だと思う〉

 よく考えれば、『五十嵐室長』には、所属している部署はついていない。『蓮水副部長』なら、まだ、言いやすい。部長になったら、『蓮水人事部長』と、呼べば良いのだ。
 凡子は満足した。

「泉堂さん、いろいろありがとうございます。それじゃ」

 凡子は通話を終わらす気でいたが、〈待って〉と、呼び止められた。

〈これからは出張が少なくなって、ほとんど本社に出社だからさ〉
 凡子は目を見開いた。

ーー蓮水監査……もとい、蓮水副部長のお姿を、毎日拝める!

 電話の向こうの泉堂には見えないので、ガッツポーズを決めた。
〈だからさ〉と、泉堂が言い直した。

 凡子は続きがあるのかと、思った。なかなか言わないのは、凡子が聞いているのかが、わからないからかもしれない。「なんですか?」と、続きを促した。

〈近いうちに、一緒に、食事しない? 仕事の後にでも〉
 予想していない言葉だったので、凡子は、スマートフォンを落としそうになった。
 
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