喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

文字の大きさ
上 下
14 / 36
シーズン1

第十四話

しおりを挟む
 凡子は目覚めてしばらく、夢の余韻に浸っていた。五十嵐室長と、バーでお酒を飲む夢を見たからだ。当然、夢の中の五十嵐室長は、蓮水監査部長と同じ顔をしている。

 凡子はバーに行ったことがない。そのため、脳内映像は、ネット上で見た色々なお店の切り貼りだ。
 バーのカウンターに五十嵐室長と並んで、ひたすらお酒を飲む夢だった。
「五十嵐室長、カッコよかった」
 凡子はため息をついた。
ーー綺麗な女性が来て、五十嵐室長がその人を口説くのを見学できれば、完璧だったのに。
 五十嵐室長の夢を見ること自体がほとんどないので、贅沢を言ってはいけない。夢に出てきてくれただけで感謝すべきだと、反省した。

 昨夜、泉堂にもらった写真を見るために、凡子はベッドで寝転がったまま、スマートフォンに手を伸ばした。
 結構、通知がたまっている。メッセージアプリを立ち上げて、凡子は絶句した。

 泉堂とのチャットルームに、覚えのないやりとりがある。アカウントを乗っ取られた可能性がある。内容を確認していく。

『明日、予定あるの?』
『買い物へ行きます』
『誰と?』
『一人です』
『何を買うの?』
『泉堂さんのつけてる香水を探しにいくんです』
『どうして、僕の使っている香水を探すの?』
『とても良い香りなので』
 どうやら、アカウントの乗っ取りではなく、自分で返信したようだ。全く記憶にない。二十三時を回ってからのやりとりなので、ベッドに入った後だ。寝ぼけていたのだろう。

 よりによって、なんと恥ずかしい返信をしてしまったのだ。これでは凡子がいつも、泉堂の匂いを嗅いでいたみたいだ。

『とても良い香りなので』の文字の下の段に、『この先は未読のメッセージです。』と表示されている。その後は、泉堂から一方的に送られていた。

『なんだか嬉しいな。でも、どこに売ってるか知ってるの?』
『今つけてるのは、僕がよく利用するフレグランスショップの店舗限定品なんだよ』
『誰かにプレゼントするつもり?』
『もしかして寝ちゃった?』
『おーい』
『本気で欲しいのなら、お店を教えてあげる。起きたら、言って』

 凡子はスマートフォンの画面を呆然と眺めていた。

 香水はプレゼントするためでなく、五十嵐室長のイメージに合う香りを嗅いで、妄想に浸るために買うのだ。
 しかし、泉堂に真実を言う必要はない。嘘をつくにしても、恋人に渡すと言うと、いろいろ訊かれて墓穴を掘りかねない。父親にあげると言うのが無難だ。
 今最大の問題は、なんと返信するかだ。

 本気で香水を買う気がないなら、起きたことを言わなくて良いのだろうか。
 しかし、困ったことに、凡子は本気で香水が欲しいのだ。

 凡子は、メッセージアプリに『起きました』と、入力したあと、送信できずにいた。
 そうしているうちに、泉堂から『起きたんだ』と、送られてきた。
 メッセージに『既読』がついたことに、気づいたのだろう。
 凡子は、入力していた文字をそのまま送信した。

『昨夜はごめんね。なんか、酔っ払って絡んじゃってたね』

 変に『かまってちゃん』だったのは、やはり、酔っていたせいだったらしい。面倒には感じたが、別に気にしていなかった。それよりは、自分の返信のほうが問題だ。

 ここは、変に躊躇うと、誤解されかねない。なんでもないことのように振る舞うのが得策だ。
『ところで、香水の売っているお店を教えてください。父親に、ああいう、良い匂いになって欲しいんです』

 泉堂の返信は『ふーん』だった。

 どう感じて『ふーん』と返してきたのか、凡子にはわからなかった。何も返せずにいると、泉堂から次のメッセージが来た。

『彼氏へのプレゼントではないと思っていたけどね』

 泉堂の言い方だと、父親でもないと思っていたらしい。他に、香水をプレゼントする相手はいるだろうか。兄弟がいると思われていたんだろうか。

『私、一人っ子なんです』
 凡子の返しは的外れだったらしく『いや、違うよ』と返ってきた。

 他に思いつくのは祖父くらいだった。凡子には男友達はいないが、いたら、あげる物なのだろうか。

『自分用かと思ってた』
――どうして、ばれてるの!!
 凡子は、直接会ってのやりとりでなくて、本当に良かったと思った。絶対顔に出てしまった。

『私には、似合わないと思います』
『お父さんには、似合うと思ってるんだ』

 凡子は、泉堂のメッセージを読んで「たしかに、似合わないかも」と、呟いた。
 泉堂がつけている香水は、どこか色気を感じさせる。普通は、そんな香水を父親にプレゼントしない。嘘だと教えているようなものだ。

 凡子が返事に困っていると、泉堂が『意地悪しないで、香水が売ってる店の場所を教えるよ』と、言ってくれた。
『ありがとうございます!』
 凡子は、書き込んだだけでなく、声にも出した。

 泉堂は本当にあっさり店の場所を教えてくれた。おまけに、美味しいモーニングを食べられるカフェまで教えてくれたのだ。フレグランスショップのすぐ近くにあるらしい。

 凡子は自宅から店までの経路を調べた。電車で三十分ほどかかるが、グズグズしなければ、モーニングの時間に間に合う。
 凡子は『ギリギリ間に合いそうです』と、泉堂にメッセージを送り『それじゃ』と、やり取りを終わらせた。
 凡子は急いで身支度を整えた。
 
 凡子の住んでいるマンションは商業エリアにあるが、フレグランスショップのあたりは、住宅街のイメージが強い。駅の周りには高層ビルが立ち並んでいたが、少し離れると、緑豊かだった。

 泉堂が紹介してくれた店は、カントリー調の可愛い建物だった。
 ベーグル専門店にカフェが併設されている。少し並んだあと、店内に入れた。

 モーニングは、サラダとベーグルサンド、コーヒーのセットだった。三種類から選べる。
 凡子が選んだCセットは、もちもちのベーグルに、クリームチーズとトマトとハムがはさんであった。
 コーヒーもコクがあってとても美味しかった。

 ベーグルが本当に美味しかったので、凡子はいくつか買って帰ることにした。
 モーニングには、プレーンタイプが使われていたが、店頭には、いろいろな種類のベーグルが並んでいた。ごまを練り込んだ物の他に、ブルーベリーや、カボチャなど色があざやかな物もある。
 店員に「冷凍しておけば、結構もちますよ」と声をかけられ、つい、何種類も買い込んでしまった。
 休日は、モーニングのお店を開拓しようかと、凡子は思った。

 SNSの発信も、ランチだとどうしても会社の近隣になる。休日モーニングなら、いろいろな場所を紹介できる。
 泉堂のおかげで、新しい楽しみを見つけられた。

 凡子は本来の目的である、フレグランスショップへ向かった。ベーグル専門店から、歩いて数分の場所にある。
 街路樹に、新しい葉が芽吹いていた。春の風が心地よい。凡子は、久しぶりに、アクティブな休日を過ごす自分に満足していた。
 フレグランスショップは、小さな建物だったが、外壁が真っ黒なので、遠くからすぐに見つけられた。
「かっこいい」
 看板も、店舗の扉も、シックなデザインだ。凡子は、まさしく『大人の男』といった雰囲気で、五十嵐室長が入るのにふさわしい店だと、気に入った。

 泉堂の話だと、都内に三店舗あり、それぞれの店に、店舗限定の香水があるらしい。
 中に入ると、奥に男性が一人いたけれど、声もかけられなかった。

 ほのかに不思議な香りが漂っていた。そして、聞こえるか聞こえないかくらいの音量で音楽が流れている。
 狭い店内の至る所に、小瓶が飾られている。色も形も様々だ。凡子は、異世界漫画に出てくる魔法の薬のようだと思った。
 結構、種類がある。すべて違う香りなのだろう。

 中央に『限定品』と書かれた商品があった。
 凡子は、深い青の瓶の前に立ち、テイスターを手に取った。鼻の近くで瓶の蓋を開けた。間違いなく、泉堂がつけている香りだ。
 もしかしたら、この香りより、五十嵐室長に似合いそうな香りがあるかもしれない。凡子は他の瓶も気になった。しかし、すべてを嗅ぐには種類が多い。瓶のデザインが好みの物を、試してみることにした。

 黒い瓶もなかなか良い。オリエンタル系の香りだった。良い香りだが、五十嵐室長のイメージとは違う。

 凡子はいくつか匂いを嗅いで、そのうち、よくわからなくなってきた。
 結局、泉堂が使っている香水を買って、店を出た。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

秘事

詩織
恋愛
妻が何か隠し事をしている感じがし、調べるようになった。 そしてその結果は...

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

4人の王子に囲まれて

*YUA*
恋愛
シングルマザーで育った貧乏で平凡な女子高生の結衣は、母の再婚がきっかけとなり4人の義兄ができる。 4人の兄たちは結衣が気に食わず意地悪ばかりし、追い出そうとするが、段々と結衣の魅力に惹かれていって…… 4人のイケメン義兄と1人の妹の共同生活を描いたストーリー! 鈴木結衣(Yui Suzuki) 高1 156cm 39kg シングルマザーで育った貧乏で平凡な女子高生。 母の再婚によって4人の義兄ができる。 矢神 琉生(Ryusei yagami) 26歳 178cm 結衣の義兄の長男。 面倒見がよく優しい。 近くのクリニックの先生をしている。 矢神 秀(Shu yagami) 24歳 172cm 結衣の義兄の次男。 優しくて結衣の1番の頼れるお義兄さん。 結衣と大雅が通うS高の数学教師。 矢神 瑛斗(Eito yagami) 22歳 177cm 結衣の義兄の三男。 優しいけどちょっぴりSな一面も!? 今大人気若手俳優のエイトの顔を持つ。 矢神 大雅(Taiga yagami) 高3 182cm 結衣の義兄の四男。 学校からも目をつけられているヤンキー。 結衣と同じ高校に通うモテモテの先輩でもある。 *注 医療の知識等はございません。    ご了承くださいませ。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

処理中です...