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シーズン1

第八話

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 凡子は早めに戻ったので、休憩時間が終わるまで更衣室で過ごす。凡子は、泉堂に失礼な態度をとったことを反省していた。いくら、凡子から近づいたわけではないとはいえ、二度もランチを奢ってくれた相手に対して、ひどい突き放し方をしてしまった。
 事情をゆっくり説明できたなら、状況も変わったのだろう。しかし、本社ビルの近くで泉堂と一緒にいるのは、目撃してくださいと言わんばかりだった。

 泉堂の行動に、他意がないことはわかっている。それでも、誤解されてしまうと、攻撃を受けるのは、明らかに凡子の方なのだ。
 あの場からとにかく離れたくて、つい、駆けだした。

 休憩時間が終わり、凡子は受付に戻った。優香が交代で休憩に入る。泉堂はあのあと戻って来たのかわからない。ただ、泉堂には伝えてあるので、前を通ったとしても、手を振られることはないはずだ。

 優香が、受付から離れた途端、瑠璃から小声で話しかけられた。
「浅香さんが休憩中に、泉堂さんがどこかへ出ていって、また帰ってきたんだけどね」
 どうやら、泉堂はビル内にいるらしい。
「また、手を振ってた?」
 凡子は、ないとわかっていながら、わざわざ訊いた。
「そうじゃなくて、珍しく、ものすごく不機嫌な感じだった」
「怒ってたの?」
 どう考えても、凡子が原因だろう。

 泉堂からすれば、親切にしてやった相手から牙をむかれたに近い。蓮水監査部長と仲の良い泉堂に嫌われるのは痛いが、たとえ、悪口を吹き込まれても、別に問題はなかった。もとより、蓮水監査部長は雲の上の存在で、通り過ぎる姿をこっそり見ているだけなのだ。
 凡子は急に気が軽くなった。
 泉堂にちょっかいをかけられて同僚と気まずくなるよりは、無視される方がずっと良い。

 三月も終わりに近づくと、日中は結構気温も上がる。上着を腕にかけて帰ってくる男性もいる。
 受付三人、全員の休憩が終わってしばらく経った頃、蓮水監査部長と泉堂が二人でゲートの外に出て来た。凡子はさすがに気まずくて、泉堂に視線を向けられなかった。
 蓮水監査部長をさりげなく目で追っていると、泉堂が、蓮水監査部長の肩に手をかけ耳打ちした。
 瑠璃が隣で「うひょ」と、変な声を出した。

 突然、蓮水監査部長が受付に顔を向けた。凡子は、目が合った気がして、ついドキッとしてしまう。無表情だったので、泉堂が何を言ったのか予想もつかない。たとえ、冷ややかな目を向けられても、蓮水監査部長には似合うので問題はなかった。

 ライブで、ステージ上で歌う推しと目が合ったと思い込む人の気持ちを凡子は少し理解した。
 推しとは、目が合ったかもしれないとドキドキするくらいが限度だ。それ以上は、きっと心臓に悪い。下手をすると気を失いかねない。


 本社ビルでは、かなりの人数が勤務しているので、常に、それなりの出入りがある。訪問者は、受付に来て凡子達に取り次ぎを頼み、呼び出した相手と一緒に中に入っていくか、フロアの簡易応接で話をする。訪問者の対応をする時以外は、周りに目を配りながら、小声でおしゃべりもできる。

 瑠璃は、泉堂が蓮水監査部長に耳打ちしたのがよほど嬉しかったらしく、「さっきの良かったね」と言った。凡子は、瑠璃が独り言をしているのか、自分に話しかけているのかがわからず、正面を向いたまま頷いた。

 一時間ほどで二人は戻ってきた。受付の方には視線も向けずに通り過ぎてくれた。凡子は、これから先、ずっとそうであってほしいと願った。壁のような扱いで気に留めずにいてくれれば、前を通り過ぎる間だけでも、思う存分、蓮水監査部長を眺められる。
 
 特に問題も起こらずに、定時退社の時間になった。
 今日も瑠璃から誘われるのではないかと心配していたけれど、声をかけられなかった。
 習い事のない日は、基本、自炊をする。日曜日にある程度メニューを決めて材料も買ってあった。
 昼によく洋食を食べるので、夜は和食にすることが多かった。

 凡子は、帰宅して手洗いうがいを済ませると、早速、割烹着をつけて、夕食の準備に取りかかる。
 料理をするときは、いつも、五十嵐室長に食べてもらうつもりで作っている。
 妄想の中で凡子は、五十嵐家の家政婦だった。
 料理上手な父親に、幼い頃から手ほどきをうけた上に、五十嵐室長への愛をしっかり注ぐため、いつでもかなり美味しくできあがる。

 今夜のメニューは、鯖の味噌煮、なすの煮浸し、ほうれん草の白和えと、えのきとわかめの味噌汁だ。
 夕食後は、一時間ほどゆったりと過ごす。その後、入浴をすませ、『五十嵐室長はテクニシャン』の最新話を再読する。

 やはり、今回の話は、面白かった。凡子は、どうしても、フレンチレストランのディナーが食べたくなった。
 誘う相手がいないから、一人で行くしかない。
「ぼっちかあ」
 ディナーとなると、最低でも一万円は超える。ある程度親しくしていても、「奢るからついてきて」とも言いづらい値段だ。

 凡子は実家暮らしなだけでなく、海外赴任中の母親が、日本に一人でいる凡子を心配して、結構な金額を家計費として渡してくれている。自分の給料は全部小遣いにできる環境なので、金銭的にはかなり余裕があった。しかし、習い事を二つしている以外に、これと言ってお金を使う趣味がない。服も流行を追いかけないし、化粧品は、『プチプラ』で揃えている。贅沢と言えば、せいぜい、ランチに美味しいものを食べるくらいだ。

 瑠璃を、誘ってみようかと迷う。さすがに同性の同僚から奢ると言われたら、戸惑うだろう。

「こんな時に、彼氏がいたら……」

 凡子は『レンタル彼氏』という言葉を思い出し、スマートフォンで検索をかけた。漫画の中の存在かと思っていたが、実際にサービスが存在している。検索結果の一番上の店をクリックした。

 凡子はサイトメニューにある『在籍彼氏一覧』の文字をクリックした。
 この店は、彼氏利用料が、一時間四千円らしい。
 ランキング一位の彼氏をクリックしてみた。

「たしかにイケメンなんだけど……」

 蓮水監査部長や泉堂に比べると、見劣りする。

 東京駅までの出張費が四千円、食事の前後も合わせると最低二時間のレンタルで八千円、それプラス食事代となると、結構な出費だ。多少変に思われても、瑠璃を誘って奢ってあげる方が良い。
 凡子は、レンタル彼氏のページを閉じた。


 気分を変えるために、凡子は昼間の写真をチェックすることにした。
 泉堂に撮らせてもらった『匂わせ』用の写真だ。今日も泉堂の手は綺麗だった。もしも、泉堂の手のフィギュアがあったら、凡子は絶対に買ってしまう。

「泉堂さんが会社関係ではなく、オタク友達なら良かったのに」

 凡子はため息をついた。
 そうなれば、泉堂を誘っていろいろなところへ行って、妄想用の資料写真が撮影できる。
 フレンチレストランのディナーにも行ける。

 凡子は、はたと気づいた。どうせあり得ないことを想像するなら、泉堂でなく蓮水監査部長で良いのだ。蓮水監査部長なら、顔だって、五十嵐室長のイメージにピッタリだ。

 蓮水監査部長はいつも、ネクタイの色が抑えめなので、たまには、攻めたデザインもつけてほしい。

「ランチを奢ってもらった相手が蓮水監査部長だったら、お礼にネクタイを……」

 そこまで考えて「泉堂さんにお礼をすればいいのか」と、気づいた。

 ネクタイは二回分のランチ代より高いし、余計な誤解を招きかねないプレゼントの最たる物だ。ハンカチくらいが無難だろう。
 凡子は、通販サイトなどで男性用ハンカチを検索した。結構真剣に見たが、そのうちに、買ったとしても渡せない気がしてきて、探すのをやめた。
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