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Episode8 閲覧注意! Gにまつわるオムニバス”女子”ホラー3品

Episode8-C 今わの際 ※2022年1月1日 改訂版アップロード

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 私に”あの力”を授けてくれたのは一匹のゴキブリだった。

 それは、私が結婚してまだ二カ月も経っていない時のことだ。
 新居のアパートのキッチンにゴキブリが出た。
 普段の私なら、買い置きしている殺虫剤をブシュ、ブシュ、ブシュ―ッとそいつに吹きつけていただろう。
 私と旦那の愛の巣に、世にも悍ましいゴキブリが出るなんて許せない、といった具合に。

 だが、その時の私はどういう気まぐれだったのか、そのゴキブリを百均で買ったミニ箒で追いやり、キッチンの窓から外に逃がしてやることにした。
 やっつけたらやっつけたらで、どのみち死骸の始末はしなければならない。
 生きているゴキブリも怖いが、死んでしまったゴキブリもそれとはまた違った怖さと気持ち悪さがある。

 今日は見逃してやるから、金輪際、私と旦那の愛の巣に足を踏み入れないで。
 あんた一匹の再侵入はもちろんのこと、子どもや孫を連れてきたりなんてしたら、二度目はないわよ。

 あと一息であいつを外へと追い出すことができるという時であった。
 なんと、ゴキブリが私に話しかけてきたのだ。

「ありがとう。あなたは私を害虫ではなく、一個の命として扱ってくれるのですね」

 いや、違うけど。
 そんな高尚な考えじゃなく、単にキモいあんたをこれ以上、私の視界に入れていたくないだけだっての。
 私の心の内も知らず、ゴキブリは喋り続けた。

「ゴキブリとして生まれて、これほどうれしいことはありません。慈悲深いあなたに、私は力をプレゼントしたく思います。あ、お気づきかもしれませんが、私はそこら辺をシャカシャカ這いまわっている、いわゆる一般ゴキブリとは一線を画した存在ですので」

 そうでしょうとも。
 一般ゴキブリ――普通のゴキブリ――は、人間の言葉を話したりしないから。
 それに力を授けるってどういうこと?
 まさか……あんたたちみたいに、どれほど不潔な環境下でも生き抜けるような生命力でも授けてくれるとでもいうのか?
 だが、ゴキブリが私に授けてくれた力は、そんな力でなかった。

「最初に言っておきますが、この力を使うのは一日三度までですよ。三度以上の力を使った場合は、あなたにも三つの報いを受けていただきます。例え、あなたが自分の身を守るために三度以上の力を使った場合であっても、『情状酌量の余地あり』とは判断いたしません。ご存知の通り、私たちゴキブリは前にしか進めません。三度以上の力の使用に至るまでの要因……すなわち過去は一切考慮いたしませんので」




 あいつに言われた一日三度までの力の使用を私はちゃんと守っていた。
 というか、一日に一度も力を使わない日の方が全体の割合として多かった。
 私が授けられた力とは、そんなに大したことのない力であった。
 大したこともないのにもったいぶると苛立たせるだけなので、簡潔にまとめると以下の三つの手順を踏んでの力となる。

一、 標的とする者を一人決める
二、 その”標的”の視界にある物に目配せする
三、 すると、その目配せされた物は大きさはそのままに一瞬だけゴキブリとして標的の目に映すことができる

 つまり”標的に一瞬だけゴキブリの幻影を見せることができる”ということなのだ。
 思い返せば、ストレスフルな通勤電車の中、スペースがあいているのに詰めようともせず、手元のスマホに夢中のマヌケ面の男子高校生を標的にし、彼のスマホに私が目配せしたこともあった。
 またある朝には、同じく通勤電車の中、手元のスマホに夢中で私のつま先を踏んでいることに気付かない厚化粧OLを標的にし、彼女のスマホに目配せしたこともあった。
 この二人は「のわあああっ!!」「ぎゃあああっ!!」とそれぞれ変な声をあげながら、スマホ大のゴキブリを放り投げていた。
 床へと放り投げられた”それ”は次の瞬間、彼らの大事なスマホに戻っているというのに。

 さらに実家に里帰りした際、母親とちょっとしたことで口論となった時にも私は力を使った。
 腹に据えかねていた私は、その日の夕飯時、母親の卵焼きに目配せした。
 ふっくらツヤツヤの三つの卵焼きならぬ、ギットギト黒光りの三匹のゴキブリ。
 母親は「ひいいいっ!! いいいいいっ!!」と二段階の悲鳴をあげてのけぞったばかりか、その夜は卵焼きだけでなく、他の食事にすらには一切箸をつけることはなかった。
 この時ばかりは、私も反省した。
 家族相手にこの力を使うのは、今後、絶対にやめようと心に誓った。

 標的とした者の命を奪ったり、体に障害を負わせたりまですれば、さすがにやり過ぎだと私も思う。
 でも、この力は最大限に使ったとしても、ささやかな嫌がらせレベルで済むことだ。

 ”仏の顔も三度まで”ならぬ”ゴキブリの腹も三度まで”という約束事さえ、守っていればいい。
 ちなみになぜ”ゴキブリの腹”なのかというと、私はゴキブリの表面よりも裏面の方が、目にした時のダメージが高いと思っているからだ。

 それに幸運なことというべきか、私は日常的な人間関係において、それほど重大なストレスを抱え込むことはなかった。
 今、働いている職場にしたって巡り合わせが良かったのか、主に女性社員の中での多少の気が合う合わないは別にしても、目立ったトラブルなどは皆無だ。
 そうだ。世の中の人々の大半は、基本、常識的で優しいのだ。

 だが、たまにとんでもない害虫はいる。
 私は、その害虫に出会ってしまった。
 さらに標的としてロックオンまでされてしまったのだ。




 その害虫は男だった。
 会社の業務縮小における配置転換で、そいつは支社から私の部署の、それも私の隣の席へとやって来たのだ。
 何を勘違いしたのか、私に付き纏ってくる。
 私のプライベートをいろいろと嗅ぎまわってくる。
 粘っこい目つきと肌質と髪質で年齢不詳のそいつは、同じく粘っこい声質で「五木さぁん」と、私の名前を呼び、隙あらば私に話しかけてこようとする。

「五木さぁん、確かもう結婚されて三年になるんですよね? 旦那さんとはどんな感じなんですか? そろそろママになりたいなあ、とかは思わないんですか?」

 うるさいな。
 人ン家の子作り計画に口を出さないで。
 うちはまだ、二人だけの生活を楽しもうって旦那と話し合って決めているだけよ。
 それに、あんたの口から”ママ”なんて言葉聞くとキモいんだけど。

「五木さぁん、旦那さんってどんな人なんですかぁ? ひょっとして、ボクに似ていたりして……」

 キモっ! キモキモっっ!
 うちの旦那は、あんたなんか足元にも及ばないほどのイケメンだっての。
 女の私とそう背が変わらないうえに小太りで手足の短いあんたとは違って、内面ばかりか外見だって男としての魅力に溢れている私の自慢の旦那なんだから。

 この会社内には、若くて未婚の女の子だってそこそこの数はいるのに、なぜ、こいつは既婚の私に絡んでくるのだろう。
 単に同じ会社で働いているだけであるのに、こっちは恋愛対象とかそういうことは全く考えてもいないのに――そもそも私はすでに人妻であるのに――なぜ、ネチャネチャと纏わりついてくるのか。
 自分が異性として見ている相手もまた自分のことを異性として見てくれているはずだ、というおめでたいにも程がある勘違いができるなんて、いったいどういった思考回路をしているのだろう。
 これがネットスラングでいう「勘助」ってやつなのかもしれない。
 さすがに、私も幾度かやんわりと釘を刺してはいた。

「このご時世ですし、女性社員相手にあまりそういうことは言わない方がいいですよ。そういうつもりはなくても、言葉や行動が周りからアウトだと判断されてしまう場合もあるんですから」と。

 だが、害虫男の返事はこうであった。

「ボクと五木さぁんのやり取りなんて、周りから見たら、微笑ましいものにしか見えませんよ。だから、そんなに心配することありませんって」

 いやいや、私が嫌だからやめろって言ってんの!
 いい大人がなんで言葉通りにしか受け取れないんだか?!
 勘違いしたままの害虫男はニタニタ笑いながら、こうも続けた。

「それにね、なんだか五木さぁんって、若くして亡くなったボクの母にそっくりなんですよ。ボクが母と過ごすことができなかった時間を取り戻すために、神様が遣わしてくれた存在なんかじゃないかってぐらい。五木さぁんのにおいだって、ボクが覚えている母のにおいにそっくりだし」

 私はあんたの母親じゃない!
 女として――それも未来の嫁として――ロックオンされているのも嫌だが、まさか母親としてロックオンされていたなんて、それ以上に厄介だ。
 それに「におい」って……匂いだか、臭いだかは分かりゃしないが、まるで私が不潔な女――つまりはゴキブリみたいな女――じゃないか!

 早くに母親を亡くしたことには同情しないでもないが、単なる同僚に付き纏って、これほどまでに嫌な思いというか、日常的にセクハラ寸前の言動を繰り返していいことにはならないだろう。
 キレて怒鳴りつけてもいいが、相手は男だ。
 生白い小太り男とはいえ、キレた奴に力で報復されたなら敵わない。

 害虫男は、今日も私に絡んできた。

「五木さぁん、今日の晩御飯は何にするんですか? 旦那さんが残業で帰るの遅いなら、冷めちゃう前にボクが代わりに五木さぁんの手料理を食べてあげてもいいかなあ、なぁんつって」

 キモい。ゴキブリよりキモい。
 こいつは、私の心をこれ以上ない不快感と嫌悪感で汚染した後、自身のデスクの上に置いてあるビタミンサプリをまるで飴でも噛み砕くようにボリボリと咀嚼し始めた。
 何もかもがキモすぎる。

 ビタミンサプリを食いつくした害虫男は、自身のデスクの引き出しをあけた。

「あーあ、ストックも無くなっちゃってる。帰りに薬局で買っておかなきゃ。頑張っているボクに差し入れしてくれる優しくて気の利くママがここにいたら、うれしいんだけどなあ。やっぱり、五木さぁんはボクのママになってくれないのかなぁ。母性本能にはまだ目覚めていないのかぁ。……あ! そうだ、五木さぁんが実際に妊娠して出産する時が来たら、ボクに必ず連絡してくださいね。出産に立ち会うなんて出過ぎたことはするつもりはないですけど、五木さぁんの赤ちゃんは、ボクにとっても大切な存在になるんですから」

 私を見て、ニタリと笑った害虫男。

 もう駄目だ。
 家族だけでなく会社内の人にも、私の力は使わないようにしようと思っていたけど、あんただけは例外だ。
 徹底的に叩き潰してやる。
 私のこの力で、あんたの人生最大の不快感と嫌悪感をプレゼントしてやる。
 口は禍の元、ううん、ゴキブリの元だってことを思い知らせてやる。
 あんたが今日の帰り、薬局で買うのはビタミンサプリじゃなくて超強力な殺虫剤だってこともね。




 私は、課内の全員が揃う時を待った。
 全員が揃ったタイミングを逃さず、私は力を使う計画を立てていた。

 全員の前で醜態をさらすがいい。
 願わくは、この忌々しい害虫男が皆の前でお漏らしや脱糞する事態にならんことを!

 しかし、私は少し気にかかることがあった。
 力そのものを使うのは初めてではないが、目配せする対象については初めての試みであったのだから。
 今まではスマホや卵焼きなどといった機械や食品を、ゴキブリとして見せていた。
 そう、私が”人間”をゴキブリとして対象者に見せるのは今回が初挑戦なのだから。

 でも、私の心配は杞憂だった。
 害虫男が絶叫がフロアに響き渡ったのだから。

 まずは一人目、いや一匹目。
 私は、一番奥のデスクに座る中肉中背の課長に目配せしていた。
 だが、害虫男の目には、超巨大ゴキブリが、ゆったりとコーヒーを飲んでいるように見えたのだろう。

「おい、どうしたんだよ! 落ち着けって!!」

 泡を吹かんばかりになっている害虫男に、一人の男性社員が慌てて駆けつけた。
 この長身の男性社員にも、私はすかさず目配せした。
 二匹目は、やや細長めなフォルムのゴキブリだ。モデルゴキブリか?

 頭一つ分以上、背の高いゴキブリに見下ろされる形になった害虫男は、さらなる絶叫をその口から迸らせ、逃げようとした。
 その逃走経路には、小柄な女性社員がいた。
 彼女は害虫男が自分に突進してくると思ったのか、悲鳴をあげて仰向けに転倒した。

 害虫男以外の者から見れば、二十三才の若くて可愛い女の子がピンクのパンツ丸出しの大開脚状態で、ズデンと転んだだけにしか見えなかっただろう。
 しかし奴の目には、天井に向かって腹を見せた超巨大ゴキブリが、喘ぐように足をジタバタさせているようにしか映っていない。
 これで三匹目のゴキブリ。ラストゴキブリ。

 ここで、私の”ささやかな嫌がらせ”は完了――というよりも一日三度までだから、これ以上の力は使ってはいけない――と思いきや、なんと奴は私に助けを求めて走ってきたのだ。
「ママぁぁ!!」とグチャグチャの顔で、泣き喚きながら。

 ええっ!?
 だから、私はあんたのママじゃないってば!!!

 すばやく機転を利かせた私は、近くの資料棚のガラス戸にサッと目をやり、ガラス戸に映った”自分自身に目配せ”した。

 最後の砦であった”ママ”までもが、巨大で悍ましいゴキブリに変わったことに奴は狂ったように泣き喚き、失禁までしていた。
 失禁後に、そのまま失神していたら良かった。
 奴はそうなるべきであった。
 けれども、あまりの悍ましさに気を失うことすらできなかった奴は、窓に向かって突進していった。
 四階の窓ガラスを突き破り、そのまま下へと落ちていった。
 ドォン! という鈍い音が下から響いてきた。




 その日の夜。
 私は旦那の胸の中で震え続けていた。
 旦那は、私が同僚の死を目の前で見てしまい、夕飯も碌に食べることも出来なくなってしまったと思っているのか、優しく抱きしめてくれていた。
 でも、本当は違う。
 あいつを殺したのは私だ。
 私があいつを追い詰め、間接的にとはいえ死へと追いやってしまったのだ。

 警察は薬物中毒の可能性も視野に入れているらしく、司法解剖だって行われるはずだ。
 あいつの死は突然の錯乱による自殺という結論へと達し、あいつに指一本たりとも触れていない私が殺人犯として逮捕ならび起訴されることはないだろう。
 
 まさか、命まで奪ってしまう結末になるとは思わなかった。
 だが、そもそもの根本的な原因は、あいつにある。
 あいつが私に気持ち悪いことを言い続けてこなければ、私だってあんな報復はしなかった。
 それに四度目の”ゴキブリ幻覚”は私自身の身を守るためだった。

 だが、何はともあれ、私は一日三度までというゴキブリとの約束を破ってしまった。
 前にしか進めないゴキブリが、私側の過去の事情など考慮してくれるわけがない。情状酌量の余地は最初から残されていない。

 三度以上の力を使った私は、三つの報いを受けることとなる。
 その三つの報いとはいったい……!!

 旦那の胸の中で震え続けているうちに、私は眠ってしまっていたらしい。
 いつの間にかパジャマに着替えさせられ、ベッドに横になっていた私の隣では、旦那がスースーと静かに寝息を立てていた。 
 枕元の目覚まし時計の時刻は、午前二時前を指している。

 お風呂にも入らず寝てしまったためか、全身がべたついていた。
 シャワーを浴びるのは朝まで我慢するも、今はとりあえず涙で汚れている顔だけでも洗おうと私は洗面所へと向かった。

 洗面所の明かりをつけた私は、白い洗面台に触角をクイクイと動かしながら待ち構えていた黒くて小さい生き物にビクッと飛びあがった。
 午後二時という草木も眠る丑三つ時であっても、ゴキブリたちは眠らない。
 お察しの通り、ゴキブリだ。
 ただのゴキブリじゃなくて、私の力を授けてくれたあのゴキブリであることもすぐに分かった。

「私との約束を破ってしまわれたとは非常に残念です。まずは一つ目の報いとして、あなたに与えた力を剥奪させていただきます」

 首を縦に振るしかない。
 当然のことだ。
 大嫌いなセクハラ野郎が被害者になったとはいえ、人を殺めてしまったこの力をこれ以上使うことは許されないし、私自身ももう使い続ける気はさらさらなかった。
 だが、残る二つの報いとは?

「私はこれから、どんな目に遭わされるの? まさか……ポイントカードのポイントを貯めるようにゴキブリに遭遇しまくる人生を送ることになったり……それとも、私のスマホや食事がゴキブリに見えてしまうの? ううん、今日、私があいつにしてしまったように、私の大好きな旦那含め、私の目に映る全ての人間がゴキブリにしか見えないことになってしまうの?」

 そうだ、きっとそうに違いない。
 目には目を歯には歯を。ゴキブリにはゴキブリを。
 同じことが私の身に報いとして返ってくるのだ。
 そうなると私は、超巨大ゴキブリたちとともに満員電車に揺られ、超巨大ゴキブリたちに囲まれて仕事をし、家に帰ると超巨大ゴキブリと一緒に晩御飯を食べ、ソファーでキスをしていちゃついて、そしてベッドの中で……

 地獄。まさに地獄以上の地獄だ。
 泣き続け過呼吸を起こさんばかりの私に、落ち着き払った声のままのゴキブリは答えた。

「そういった報いも面白そうといえば面白そうなんですけどね。残念ながら、それらのどれでもないんです。そして……報いはすぐには来ない。ただ、きっちりと精算はさせていただきますから」




 報いはすぐには来ない。
 あのゴキブリが言った通りだった。
 そして、あの夜以来、あのゴキブリは私の前に姿を現すことはなかった。
 しかし、一般ピープルならぬ一般ゴキブリ力を持たぬゴキブリに遭遇しても、私はもう殺虫剤にも箒にも手を伸ばせなくなった。
 ただただ、一刻も早く、カサカサとどこかに去ってくれることを祈るばかりであった。
 
 時間は前にしか進まない。
 私が死へと追いやってしまった同僚――さすがにもう害虫男とは呼べない――に心の中で懺悔し続け、命日には必ず手を合わせつつ、私の人生という時間は、時には慌ただしくも静かに過ぎていった。

 あの夜から五十年と四か月と四日ほど経過した日。
 住み慣れた家――結婚十二年目に購入した一軒家――で最期の時を迎えたかったのだが、それは叶わず、私は病院のベッドの上で最期の時を迎えることになった。

 傍らには五十年以上、連れ添った旦那がいた。
 あの後、私は旦那との間に三人の子どもに恵まれていた。
 特に大きな災難などに巻き込まれることもなかった私たち家族。
 
 真っすぐに育った三人の子どもたちは皆、独立し、すでにそれぞれの家庭を持っているため、私たち夫婦には新たに三人の義理の息子と娘、さらには八人もの可愛い孫までいた。
 さすがに病室に全員が入ってくることができないので、私のベッドの傍らにいるのは旦那と三人の子どもたちだけだ。

 大切で愛しい家族とも、もうすぐお別れだ。
 家で最期を迎えることはできなかったとはいえ、私はこれ以上ないほど幸せな人生を送ることができたと言えよう。

 だが、一つ気がかりなのは、まだ精算していない報いだ。
 あの夜は”力の剥奪だけ”という極めて軽いペナルティだけで済んだも、例のゴキブリはこう言っていた。
「きっちりと精算はさせていただきますから」と。

 私が犯した罪の報い。
 まさか五十年以上も成仏することができなかった同僚の幽霊がこの病室に現れて、私を黄泉の国へと連れて行くとでもいうのか?
 それとも、次の人生で私は同僚の母親として生きる運命を背負わされるのであろうか?

 しかし、その方がはるかにマシであったことを、私は罪の精算時に思い知らされることとなった。
 カサカサという聞き覚えのある音が、私の耳に響いてきた。
 そして、水気と体温を失いゆく私の手足どころか、全身を”あいつら”が這いまわる感触までもが……

 私の目はもう見えなくなっている。
 視覚を失ってしまっているからこそ、ベッドに横たわった自分の体が無数のゴキブリに埋め尽くされていっているという、”幻の聴覚と触覚”を私はこれ以上ないほど味わわされている!

 他人の視覚に対して力を使っていた私は、私自身の聴覚と触覚という二つの五感においての報いを受けさせられているのだ。
 だが、味覚と嗅覚でなかっただけ、まだマシと思うべきなのであろうか?

 家族が私を呼ぶ声も、私の手を握る家族の手の温かさも、全てゴキブリどもによって埋め尽くされていく……
 安らかなようには見えるも、ちっとも安らかでない私の最期。
 嗚呼、なんて、気持ちの悪くて悍ましい今わの際。


(了)
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