22 / 30
最終章 ~ここは安全地帯~
―5―
しおりを挟む
宵川斗紀夫と待ち合わせ場所として選んだのは、明るいカフェであった。
昼の3時という時間帯であったためか、座席は埋め尽くされていた。だが、大勢の客の中にいても、彼のその風貌は目立っていた。
すらりとして上背があり、身のこなしも洗練されている。TVや雑誌で見る以上に魅力的であった。大抵の人間は彼を見て好感を抱くに違いなかった。メディアに顔を出していたためかもしれないが、近くの女性客たちもチラチラと彼を見ているのも分かった。
互いに挨拶を交わし、席に着き、2人ともアイスコーヒーを頼んだ。
自分はもともと彼のファンであるということもあったが、間近で見る宵川斗紀夫は高校時代に自分が恋心を抱いていたSなど足元にも及びもしないと思わせるほどであった。
互いに口を開き始めた途端、斗紀夫の鞄の中より携帯の着信を告げる音が鳴った。溜息をついた斗紀夫は、携帯を取り出し、その着信音を指でピッと中断した。
「あの、宵川先生。今のお電話だったんじゃ……私のことなどお気になさらず……」
斗紀夫はフルフルと首を横に振った。
「いいえ、あなたが気にすることありませんよ。単なる元彼女からの電話です。もう、別れたっていうのに」
別れた(と彼が思っているだけかもしれないが)彼女からの連絡。その元彼女がどんな女かは知らないが、長期間にしろ短期間にしろ、この魅力的な宵川斗紀夫に愛されていたその女が猛烈に羨ましくなった。
携帯を鞄にしまい直した斗紀夫は自分に向き直り、そろそろ本題をと言った調子で切り出しはじめた。
「あなたが見たっていう、夢のことについて詳しく知りたいんですが……」
全てを正直に話した。当初は小説のネタにするつもりなのかと思ったため、ファンとして協力するつもりで細部まで詳しく話した。話していくうちに宵川斗紀夫の瞳は、輝きをますます増していった。
「で、あなたは今日、夢の中で、”それ”を受け取ったんですね?」
「ええ……まだ、手に感触が残っているようで……」
思わずテーブルの上に、自分の右手を持ってきて、その手の平をじっと見つめてしまった。
「あなたがそれを受け取るに至った心の経緯について知りたいんですが……」
自分をじっと見つめる斗紀夫の目に、胸がうずくような妙な感覚だった。この宵川斗紀夫が中年の脂ぎった男もしくはしょぼくれた男なら、きっとこうはならなかっただろう。
宵川斗紀夫に話した。初対面の相手であり、ずっと憧れていたこの作家に。家庭で虐げられて育ったこと、高校時代の苦い恋の思い出、経済的な理由で進学できず初めて就職した会社での不当な扱い、そして今日偶然に再会した元同級生との会話、そして同じく元同級生であった八窪真理恵。
”神に愛されて生まれた者は、ますます愛されていく。同じ人間、それも同じ女であるという性に生まれたのに”
他人の人生が羨ましく思えてたまらなかった。だが、私が彼女になりかわることなど出来っこない。愛されずに生まれた者は、このまま愛されない人生を送るしかない。
話続けるうちに、瞳から涙が溢れてきた。その自分の姿に、カフェのウェイターや、近くの客がギョッとしているのも分かった。
ボロボロと泣き続ける自分を見て、宵川斗紀夫も困ったように頭をかくような仕草をしていた。そして、涙が止まった後、宵川斗紀夫は静かに言った。
「外の空気を吸いながら、続きを聞きましょうか?」
人気が少なく、心なしか気温までも周りと比べて下がっているような、さびれた小さな公園のベンチに宵川斗紀夫とともに座り、話を続けた。先ほど話したことのほぼ繰り返しであったが。
宵川斗紀夫は言った。
「そうですね、確かにあなたの言う通り、生まれた時に天から二物も三物も与えられた人もいるし、一見何もかも恵まれた人生を送っている人もいるでしょう。でも、この世は不公平なものなんですよ。それに、あなたはあなただ。他人と比べて、手に入らないものを嘆いて悩むよりも、悩むならもっと人生を有意義なものにすることに頭を悩ませましょうよ」
頭を金づちで殴られた気がした。この宵川斗紀夫の言葉は自分でも存分に理解していることであった。頭では理解しているが、悩んでしまう、考えてしまうのだ。それに、この宵川斗紀夫もいわば天から二物も三物も与えられた人間である。容姿は見てのとおりだし、作家としての才能による成功も手に入れている。彼は明らかに八窪真理恵側の人間である。
自分の心の内が宵川斗紀夫にも分かったのか、重い沈黙が続いた。だが、それを破ったのは、宵川斗紀夫であった。
「あなたの夢には何か意味があるんじゃありませんか? あなたが本当に望んでいることがその夢には隠されているはずです。自分が”何をしたいか”を考えてみたらいかがでしょうか?」
ずっと見続けているあの不気味な夢を思い出そうとした。そして、自分が今日ついに受け取ってしまった”あれ”のことも。
――私は何を望んでいるんだろう? 一体、何を……!?
頭が強烈に脈打つかのごとく、割れるように痛み始めた。グワングワンと頭の中心より外へと向かって、頭蓋骨を内側から割るほどの痛み。それと同時に真夏だというのに、自分の体は氷水につけられたように冷たくなっていく――
――ウラヤマシイ、ネタマシイ、ナンデナンデ、イツモワタシダケ、シネバイインダ、ズットイイオモイヲシテイキテイタブンダケ、クルシンデシネバイインダ
それは、湧き上がってきた「殺意」であった。自分の中で、数人の顔がルーレットのように頭を回り始めた。
父、母、高校時代のS、前の会社の同僚、上司たち、今日会ったあの化粧の濃かった同級生、そして八窪真理恵……
だが、頭の中で回り続けていたその「殺意」のルーレットはついに止まった。
八窪真理恵のところで。
――コロシテヤル……
自分の腹部より何かがメキメキと顔を出し、一張羅の服を破り弾け飛ばした。自分が人ならざるものに変化していくのを、薄れゆく意識の中で感じた。
それから少しの時間がたったのだろう。
自分の隣にいたはずのあの宵川斗紀夫はいなくなっていた。見知らぬ山道に自分は佇んでいた。夏の陽を吸い込んでいたアスファルトの熱が、足裏にジワリと染み込んでくる。これは夢を見ているわけではない。
定まらない視界に映るのは、沈みゆく赤い夕陽に染まった夏の空であった。自分の目線はいつもより遥かに高く、この体は妙に軽かった。
自分がこれからどこに向かうのかは分からなかった。ただ1つだけ言えるのは、そこに八窪真理恵がいるということだ。彼女がいるところに行けと、何かが体の奥から自分に告げていた。これから、起こすことを楽しんでいる存在が。
――コロシテヤル……
まずは、手始めにペンションへの道路を走る車のタイヤを尖った石でパンクさせた。車から出てきたのは男であった。小麦色の肌をし、引き締まった筋肉に包まれた肉体の男が苛立たし気に出てきた。
その車のルーフへと飛び乗った。男は自分を見て驚愕し「化け物」といった言葉を発し、逃げようとした。男の前に回り、手をシュッと上へと上げた。ちょっとかすったつもりだったのに、男は苦痛の叫び声をあげ、男の左腕だけがまだ熱いアスファルトにボトリと落ちた。拾い上げたが、男自身の体温がまだ存分に残っているその腕が、作り物のように見えたため手でブラブラとさせてしまった。うるさく喚く男に視界から消えてほしかったので蹴飛ばした。よく確認はしなかったが、男は崖下に転げ落ちっていったようであった。
たった今、1人殺したのになかなか実感が湧かなかった。
そして、実行するのは日が完全に沈むまで待とうと思った。その間、手にはあの男の左腕をずっと持っていた。切断口からボタボタと滴り落ちていた血は止まり、既に固く死者のものになりつつある男の左腕を。
――コロシテヤル……
日は完全に落ちた。ペンションが放つ明かりの方へとそろそろと近づいていった。虫の音はうるさいぐらいに響いていた。
ペンションを覗き、すぐに姿を暗闇に紛らせたつもりだったのだが、1人の男に気づかれていたらしい。小柄な中年男が懐中電灯をグルグルと回しながら、自分のいるところに向かってきた。その中年男は懐中電灯に照らされた自分の顔を見るなり、訳の分からない悲鳴を発し、懐中電灯を草の上に落とした。そして、すぐさま逃げようとした。今、騒がれては困ると男の両膝の裏をひっかいた。必死で逃げようとしている男の口からは、最大級の悲鳴が発せられそうになっていたため、口を閉じさせようとしたつもりが、男の舌に自分の長く鋭い爪が触れ、千切れた舌が青い草の上に飛んでいった。
しばらく、男が苦痛で呻きながら、這っていくのを見物するかのごとく見ていた。すぐに殺すのと苦痛を長引かせるの、どちらがいいだろうとぼんやりと思っていた。だが、この男を捜しにきたのか、また1人、ややがっしりとした体格でシェフの白い制服を着た中年男がやって来た。その男は「救急車」という言葉を発した。まだ八窪真理恵を殺していないのに、外部の者は呼ばれたくなかった。ダッと駆け寄り、背を向けたその中年男の首を掴んだ。自分が思っていたより、男の体はずっと軽く、その首もずっと細く感じられた。自分の手の内でメキメキ、いやボキボキというような何とも形容しがたい音が鳴った。そして、手を離した時、男の首と胴体は別々に地面へと落下した。
2人の人間がペンションに戻らなかったら、誰かが異変に気づくだろう。
ついに、八窪真理恵の前に姿を現すことを決意した。
ペンションの明るい食堂へと近づていくと、やや面長な1人の若い女が自分に気づいたらしく絶叫した。それにつられるように、食堂にいた全員の目が自分へと集まった。その中には、あの八窪真理恵もいた。
脅しのつもりで、一番最初に襲った男の腕を投げた。それはガラスを割り、うまいぐあいに八窪真理恵の近くのテーブルへと着地した。食堂内は騒然となった。悲鳴は自分のいるところまで聞こえた。八窪真理恵は自分の隣にいるショートカットの小柄な女と抱き合って震えていた。
また闇の中へと溶け込むために、踵を返し駆けた。
外におびき寄せるか、それともペンションに押し入るか、そうこう考えているうちにペンションの入り口が開いた。
Tシャツを着た肩幅の広い男が消火器を振り回した。その男に手を引かれ、風に揺れるようなスカートをはいた八窪真理恵”らしき”女が出てきた。
――ソウダ、アンタハ、オトコニマモラレテ……
その姿に頬がカアッと熱くなった。そして、一番目に逃げたその車を追いかけた。
道路を走るその車に追いつくのはたやすかった。並走するような形で中を確認すると。その車の中には4人の人間がいた。
車に飛び乗り、まずは後部座席のフロントガラスを右手で叩き割った。後部座席にいたのは、自分より少しだけまだ学生のような若い男女であった。2人は抱き合って震えていた。その声の煩さにイラついた。まず女の方の首筋に手を触れた。そして男に目をやった。男が自分を振ったあのSに似ている気がした。叫び声を上げ続けるその男を黙らせようと、手を伸ばしたら、男の頬を貫通させてしまった。つい自分が殺してしまったその男の死に、女は絶叫し、走る車のドアを開け、逃げようとした。運転席の男がそれを制止しようと喚いた。だが、女はドアを開けてしまった。女のミニスカートから伸びていた折れそうなほど細い脚も車外の闇へと吸い込まれ、聞こえてきたのは、鈍い衝突音であった。
ついに助手席にいる”八窪真理恵”を殺そうと、車のルーフに足を進めた。そして、前の席を覗き込んだ。顔を引きつらせ絶叫している男と、顔を覆ったままの”八窪真理恵”がいた。その左手の薬指には指輪が光っていた。窓ガラスに左の拳を叩きつけた。1回、2回、3回、4回……。ガラスは男と”八窪真理恵”に降り注いだ。だが、なぜか男は「ユイ!」と叫んだ。
”八窪真理恵”は手の甲にガラスが刺さったためか、恐怖に満ちた顔をあげるしかなかった。が、女は八窪真理恵ではなかった。髪型と服装は八窪真理恵を思わせていたが、彼女とは全くは違う系統で目鼻立ちがわりとはっきりとしている女であった。そのうえ、女はおそらく自分より、10才くらい年上ぐらいにも見えた。
人違い。即座に身を翻して、道路に着地した。だが、その背後で先ほどまで自分が襲い視界を塞いでいたあの車は崖から転落し、鼓膜が破れるかのような爆発音が聞こえてきた。
顔を上げた自分の視線の先には、ペンションからの2台目の車が向かってきていた。助手席には人は乗っておらず、運転席のハンドルを握っているのは1人の男であった。自分の姿を見て、絶叫せんばかりに口を開けているその男が、即座にブレーキをかけるものだと思っていたが、車はまっすぐに向かってきていた。
身構え、アスファルトを蹴った。右にカーブを描き、あの車の中に八窪真理恵の姿をあるかを確認するために覗き込んだ。だが、後部座席にいたのは、涙で顔をぐちゃぐちゃにした八窪真理恵ではない若い女と、口周りを血まみれにしている、自分が2番目に襲ったあの小柄な中年男であった。
――アイツラヲコロシテシマッテイルウチニ、ヤクボマリエヲコロスコトガデキナイカモシレナイ……
見逃したのではなく、見なかったふりをした。自分にそう言い聞かせ、ペンションへの道を駆け上がった。
外に首のない男の死体が転がっているペンションは静まり返っていた。でも、中に人がいるのは分かっていた。
玄関の小さな屋根に飛び乗り、外に八窪真理恵が出てくるのを待った。だが、反対に自分が今いる玄関へと向かってくる女がいた。自分の母親と同じくらいか少し年上か、ややふくよかな体型になりかけているその女はフラフラとした歩き、その手には先ほど自分が切断した男の生首を大切そうに抱えていた。
その女が扉を開けると、中から女と男の2種類の悲鳴が聞こえた。
――ヤクボマリエガイル……
焦りにとらわれた。思わず自分がいる場所の下で生首を大切に抱え、なぜか笑顔を見せている女の首を掴んだ。女の首を締め上げ始めたその手に何か硬い置物が投げつけられ、痛みは感じたが手を緩めなかった。
女の首は柔らかく、女が手に持っている男を殺した時のように力を込める必要はなかった。女は何かを呟き、やがてその体の動きは制止した。手を離すと女の体は重い音を立てて落ちた。
玄関へと着地すると、やわらかな髪を泳がせ逃げる今度こそ”本当の”八窪真理恵とショートカットの腰の引き締まった女、やけに長い脚が印象的な1人の男、そしてパジャマ姿の女の後ろ姿を見た。
――ジンセイノチョウジリハココデキチントアワセナキャ、アンタナンカ……
彼女たちを追った。彼女たちは逃げた。追う。逃げる。そしてついに獲物たちは行き止まりへと。
獲物の中の唯一の男が喚き声をあげ、窓の下にあったテーブルを小さな窓へとぶつけた。ガラスが飛び散った。そして、ショートカットの女が消火器の水を自分へと直撃させた。
自分の口から奇声が発せられた。真冬に母からホースで水をかけられた記憶。愛の薄い家で育つしかなかった、自分のこの人生への恨み。
身を翻して逃げる時、消火器を持っているのはあの女ではなく、男に変わっていた。その後ろには、今にも倒れてしまいそうなほどの青白い顔が月明かりに照らされていた八窪真理恵がいた。
つい、逃げてしまった。けれでも、外から回り込んで、客室の窓ガラスを割って、再びペンション内へと侵入した。
自分が姿を見せたことで、再び獲物たちからは悲鳴が上がった。
ちょうど自分の一番近くにいた女の腕を掴んだ。悲鳴をあげるその女の顔を見た。後ろ姿では、若くは見えていたが、近くで見るともう50は過ぎているような女であった。だが、その女の目鼻立ちは、恐怖で歪んでいても美しいものであった。
――キレイナオンナ、コノオンナモ、ズットオトコニマモラレテイキテキタンダワ
苦い嫉妬が湧き上がった。背中に背後の獲物たちから、固い物が2つも投げつけられた。女を掴んでいた手をパッと離した。だが、即座に女の首根っこを掴み直し、ちょうどうまい具合に割れていたガラスの上にその女の胸を叩きつけた。
女は少しだけ、苦し気に息をもらした。
目から涙が溢れていた。それは何のために溢れた涙か、わからなかった。
――アンタヲサイゴノヒトリ二シテヤル……ソノフタリヲサキニコロシ、ゼツボウノナカデシナセテヤル……
自分を奮い立たせるような声を発して、再び闇の中へと戻った。
八窪真理恵たちを道路の木の上に乗って、待ち伏せていた。
ジワジワと殺すために。一度、助かったと見せかけて、再び地獄の深淵の中に落とすために。だが、どこかでサイレンの音も聞こえてきた。急がなければならならなかった。
八窪真理恵たちが乗っている車は、自分が置いていた尖った石を踏みつけ、パンクした。その車のドアは、開きかけたように見えたが途中で止まった。
気づかれた? という焦りにより、地面へと着地した。
自分の重みでたわんでいた、幾本もの木の枝も一緒にバラバラと落下した。
運転席でハンドルを握るTVでよく見る俳優に少しだけ似ている男も、後部座席の2人の女も抱き合って震えていた。そのうちの1人は間違いなく、八窪真理恵であった。
自分のこの存在が絶望を与えている。
きっと自分のことなど覚えてもいやしない八窪真理恵の命を今、自分が握っているのだ。その嬉しさに笑みを浮かべていた。
――アンタミタイナニンゲンハ、バツヲウケルベキナンダヨ、ソウジャナキャ、フコウヘイダ、イイトコドリバッカリシヤガッテ――
だが、予期せぬことが起こった。運転席の男がアクセルを踏み込んだのだ。
「!!!」
激痛と衝撃が走り、体が宙に浮いたかと思うと、次の瞬間地面に落下していた。獲物からの反撃。
車は走りだしていた。血だらけの体を起こしながら、神はどちらの味方をするのだろうか、と考えていた。獲物と「殺戮者」である自分のどちらの……
だが、神はどうやら自分の味方をしてくれたらしい。
止まった車から逃げる3人の影が暗闇の中でもはっきりと見えた。拾い上げた木の枝を手の内で鳴らした。
3人の中でひときわ大きく硬い輪郭を見せている影は、さっき自分の引いた男の影であった。
木の枝を男の足に向かって投げた。うまく命中したらしく男は倒れ込んだ。その男の影に駆け寄る2人の女の影。おそらく2つのうちの背の高い方の影が八窪真理恵だ。
――オトコニスリヨッテ……
苛立ち、つい八窪真理恵を狙って2本目の木の枝を投げてしまった。2本目もうまく命中したようであった。3人の影は重なりあうように倒れた。
3本目の枝は、男を狙って投げた。八窪真理恵を騎士のように守ろうとし、自分を車で轢いた腹のたつ男に。もっと苦しめたかったが、時間がなかった。早く男の息の音をとめなければ。狙いを定め投げた木の枝は、3本目も見事に命中したようであった。
八窪真理恵ともう1人の女はまた手を取って駆けだした。倒ている男に近づくと、木の枝はその男の首を横へと一直線に貫通し死に至らしめていた。
――アトフタリ……
サイレンの音は止まっていた。だが、八窪真理恵を早く殺さなければ、全く無関係の人間だけを殺してしまったことになるのだ。
1番最初に襲った、腕を切断してしまったあの男の車に2人が乗り込むのが見えた。後部座席の八窪真理恵の柔らかそうな髪も。
思わず石を投げていた。そして、八窪真理恵を車から引きずりだした。
運転席にいたあのショートカットの小柄な女は、自分が襲われているわけでもないのに絶叫した。
自分の目の前にいる八窪真理恵は、尻餅をつき、ただガクガクと震えて自分を見上げていた。獲物の命を握っているという快感。まるで神になったかのような。だが、車から飛び出てきた女が自分の背中に飛びかかってきて、八窪真理恵を襲わせまいとした。女を振り落した。腹がたったため、女の腹を思いっきり踏みつけた。
アンタノシキュウヲツブシテヤロウカ? と。
小動物をいたぶっているようであった。だが、八窪真理恵が女の名を呼びながら、女を助けようと体当たりをしてきた。
苛立ち、八窪真理恵の髪をガッと掴んだ。そして彼女の体に刺さったままの木の枝を強引に、そしてわざとゆっくりと引き抜いた。八窪真理恵は苦痛の叫び声をあげた。
――ソウ、ソレデイインダ、クルシメ、クルシムンダ、ワタシハモット……
嬉しさに奥歯がカチカチと鳴った。
上半身を血に染めながらも、必死で立っている八窪真理恵の足元で、携帯が鳴った。八窪真理恵はふらつきながらも、それを拾い上げ、「……お父さん……」という言葉をその唇から発した。
八窪真理恵の頬に涙が一筋、二筋と流れていった。そして、この夜に起こった殺戮を彼女は電話口の父親へと伝えた。そして、「……お父さん……大好きよ……」という言葉。子供を愛せる親の元に産まれてきたということ。親を愛せる子供として育ったということ。
思わず、八窪真理恵の手の内の携帯を叩き落とし、踏みつぶしていた。砕け散った携帯の液晶が、裸足の足の裏でざらついた。八窪真理恵は、自分に殺されることを覚悟したのか、自分に背を向けたのだ。視線の先は、先ほど自分が腹部を踏みつけた、あのショートカットの小柄な女であった。
「……由真……生きて……」
――ヤットアンタヲコロセル……
身構えた時、八窪真理恵が唇を動かした。八窪真理恵の口から発せられた言葉。それは――
「……さん」という自分の名字であるかのように聞こえた。本当に小さな声だったから、聞き間違いだったのかもしれない。それに今の自分の容貌は人間の女の姿とは、似ても似つかないはずであった。
なのに、八窪真理恵には自分が誰だか分かっている。自分がこの殺戮を起こした理由については心当たりがないに違いないが。思わず目を見開いていた。全身からは冷たい汗が噴き出した。
倒れていた女が「姉さんんん!」と絶叫した。そして――
自分の手は、八窪真理恵の下腹部を後ろから貫いていた。彼女の白い肌を破り、彼女の生温かい血と内臓の感触が伝わってきた。ゆっくりと手を引き抜いた。八窪真理恵は倒れ伏した。ついに八窪真理恵を殺せたのだ。
女が地面に這いつくばったまま「姉さん! 姉さん!」と喚き続けていた。この時、八窪真理恵には妹がいたんだと知った。泣き喚き続ける女はうるさかった。早くこの女の息の根も止めなければいけなかった。
女の首を掴んた。小さな女の体は軽かった。このまま、先に殺した中年男や中年女のような殺し方をしようかとも思った。眼前にある女の顔をじっくり見た。妹なのに八窪真理恵には全く似ていなかった。だが、この女も容貌に恵まれていた。切れ長の大きな瞳に、形のいい鼻、小さく引き締まった唇……
女を掴んだまま、崖へと足を進ませた。女を崖下へと落とすために。
パッと手を離した。女は落ちていった。
背後からの自分を呼ぶ声に我に返った。
パッと振り向くと、宵川斗紀夫が立っていた。近くに彼のものらしき車も停められていた。
「いきなり変身して、山の方へと駆けて行ったんだから……探しましたよ」
満月と、フロントガラスが破壊された車のライトが、宵川斗紀夫の落ち着き払ったその様子を照らし出していた。
「随分と派手にやってしまいましたね……あなたは大事件を起こしましたよ。明日には日本列島が激震するほどのね」
宵川斗紀夫は、自分をたしなめているようであるが、今の状況に喜びも感じているらしかった。背筋がゾクリとし、後ずさった。
彼は茶色い地面に横たわっている八窪真理恵に目をやった。
「もしかして、この人が話に出てきた八窪真理恵さんですか? 結構綺麗な人ですね」
そして、彼はズボンのポケットから携帯を取り出し、八窪真理恵の死体へと向けた。二度、三度と携帯カメラのフラッシュが光った。
「死ぬ前に一度、会ってみたかったんだけど……もう、死んじゃってるね……残念」
宵川斗紀夫の口からは『殺戮者』となった自分をも震わせる言葉が発られたのだ。
昼の3時という時間帯であったためか、座席は埋め尽くされていた。だが、大勢の客の中にいても、彼のその風貌は目立っていた。
すらりとして上背があり、身のこなしも洗練されている。TVや雑誌で見る以上に魅力的であった。大抵の人間は彼を見て好感を抱くに違いなかった。メディアに顔を出していたためかもしれないが、近くの女性客たちもチラチラと彼を見ているのも分かった。
互いに挨拶を交わし、席に着き、2人ともアイスコーヒーを頼んだ。
自分はもともと彼のファンであるということもあったが、間近で見る宵川斗紀夫は高校時代に自分が恋心を抱いていたSなど足元にも及びもしないと思わせるほどであった。
互いに口を開き始めた途端、斗紀夫の鞄の中より携帯の着信を告げる音が鳴った。溜息をついた斗紀夫は、携帯を取り出し、その着信音を指でピッと中断した。
「あの、宵川先生。今のお電話だったんじゃ……私のことなどお気になさらず……」
斗紀夫はフルフルと首を横に振った。
「いいえ、あなたが気にすることありませんよ。単なる元彼女からの電話です。もう、別れたっていうのに」
別れた(と彼が思っているだけかもしれないが)彼女からの連絡。その元彼女がどんな女かは知らないが、長期間にしろ短期間にしろ、この魅力的な宵川斗紀夫に愛されていたその女が猛烈に羨ましくなった。
携帯を鞄にしまい直した斗紀夫は自分に向き直り、そろそろ本題をと言った調子で切り出しはじめた。
「あなたが見たっていう、夢のことについて詳しく知りたいんですが……」
全てを正直に話した。当初は小説のネタにするつもりなのかと思ったため、ファンとして協力するつもりで細部まで詳しく話した。話していくうちに宵川斗紀夫の瞳は、輝きをますます増していった。
「で、あなたは今日、夢の中で、”それ”を受け取ったんですね?」
「ええ……まだ、手に感触が残っているようで……」
思わずテーブルの上に、自分の右手を持ってきて、その手の平をじっと見つめてしまった。
「あなたがそれを受け取るに至った心の経緯について知りたいんですが……」
自分をじっと見つめる斗紀夫の目に、胸がうずくような妙な感覚だった。この宵川斗紀夫が中年の脂ぎった男もしくはしょぼくれた男なら、きっとこうはならなかっただろう。
宵川斗紀夫に話した。初対面の相手であり、ずっと憧れていたこの作家に。家庭で虐げられて育ったこと、高校時代の苦い恋の思い出、経済的な理由で進学できず初めて就職した会社での不当な扱い、そして今日偶然に再会した元同級生との会話、そして同じく元同級生であった八窪真理恵。
”神に愛されて生まれた者は、ますます愛されていく。同じ人間、それも同じ女であるという性に生まれたのに”
他人の人生が羨ましく思えてたまらなかった。だが、私が彼女になりかわることなど出来っこない。愛されずに生まれた者は、このまま愛されない人生を送るしかない。
話続けるうちに、瞳から涙が溢れてきた。その自分の姿に、カフェのウェイターや、近くの客がギョッとしているのも分かった。
ボロボロと泣き続ける自分を見て、宵川斗紀夫も困ったように頭をかくような仕草をしていた。そして、涙が止まった後、宵川斗紀夫は静かに言った。
「外の空気を吸いながら、続きを聞きましょうか?」
人気が少なく、心なしか気温までも周りと比べて下がっているような、さびれた小さな公園のベンチに宵川斗紀夫とともに座り、話を続けた。先ほど話したことのほぼ繰り返しであったが。
宵川斗紀夫は言った。
「そうですね、確かにあなたの言う通り、生まれた時に天から二物も三物も与えられた人もいるし、一見何もかも恵まれた人生を送っている人もいるでしょう。でも、この世は不公平なものなんですよ。それに、あなたはあなただ。他人と比べて、手に入らないものを嘆いて悩むよりも、悩むならもっと人生を有意義なものにすることに頭を悩ませましょうよ」
頭を金づちで殴られた気がした。この宵川斗紀夫の言葉は自分でも存分に理解していることであった。頭では理解しているが、悩んでしまう、考えてしまうのだ。それに、この宵川斗紀夫もいわば天から二物も三物も与えられた人間である。容姿は見てのとおりだし、作家としての才能による成功も手に入れている。彼は明らかに八窪真理恵側の人間である。
自分の心の内が宵川斗紀夫にも分かったのか、重い沈黙が続いた。だが、それを破ったのは、宵川斗紀夫であった。
「あなたの夢には何か意味があるんじゃありませんか? あなたが本当に望んでいることがその夢には隠されているはずです。自分が”何をしたいか”を考えてみたらいかがでしょうか?」
ずっと見続けているあの不気味な夢を思い出そうとした。そして、自分が今日ついに受け取ってしまった”あれ”のことも。
――私は何を望んでいるんだろう? 一体、何を……!?
頭が強烈に脈打つかのごとく、割れるように痛み始めた。グワングワンと頭の中心より外へと向かって、頭蓋骨を内側から割るほどの痛み。それと同時に真夏だというのに、自分の体は氷水につけられたように冷たくなっていく――
――ウラヤマシイ、ネタマシイ、ナンデナンデ、イツモワタシダケ、シネバイインダ、ズットイイオモイヲシテイキテイタブンダケ、クルシンデシネバイインダ
それは、湧き上がってきた「殺意」であった。自分の中で、数人の顔がルーレットのように頭を回り始めた。
父、母、高校時代のS、前の会社の同僚、上司たち、今日会ったあの化粧の濃かった同級生、そして八窪真理恵……
だが、頭の中で回り続けていたその「殺意」のルーレットはついに止まった。
八窪真理恵のところで。
――コロシテヤル……
自分の腹部より何かがメキメキと顔を出し、一張羅の服を破り弾け飛ばした。自分が人ならざるものに変化していくのを、薄れゆく意識の中で感じた。
それから少しの時間がたったのだろう。
自分の隣にいたはずのあの宵川斗紀夫はいなくなっていた。見知らぬ山道に自分は佇んでいた。夏の陽を吸い込んでいたアスファルトの熱が、足裏にジワリと染み込んでくる。これは夢を見ているわけではない。
定まらない視界に映るのは、沈みゆく赤い夕陽に染まった夏の空であった。自分の目線はいつもより遥かに高く、この体は妙に軽かった。
自分がこれからどこに向かうのかは分からなかった。ただ1つだけ言えるのは、そこに八窪真理恵がいるということだ。彼女がいるところに行けと、何かが体の奥から自分に告げていた。これから、起こすことを楽しんでいる存在が。
――コロシテヤル……
まずは、手始めにペンションへの道路を走る車のタイヤを尖った石でパンクさせた。車から出てきたのは男であった。小麦色の肌をし、引き締まった筋肉に包まれた肉体の男が苛立たし気に出てきた。
その車のルーフへと飛び乗った。男は自分を見て驚愕し「化け物」といった言葉を発し、逃げようとした。男の前に回り、手をシュッと上へと上げた。ちょっとかすったつもりだったのに、男は苦痛の叫び声をあげ、男の左腕だけがまだ熱いアスファルトにボトリと落ちた。拾い上げたが、男自身の体温がまだ存分に残っているその腕が、作り物のように見えたため手でブラブラとさせてしまった。うるさく喚く男に視界から消えてほしかったので蹴飛ばした。よく確認はしなかったが、男は崖下に転げ落ちっていったようであった。
たった今、1人殺したのになかなか実感が湧かなかった。
そして、実行するのは日が完全に沈むまで待とうと思った。その間、手にはあの男の左腕をずっと持っていた。切断口からボタボタと滴り落ちていた血は止まり、既に固く死者のものになりつつある男の左腕を。
――コロシテヤル……
日は完全に落ちた。ペンションが放つ明かりの方へとそろそろと近づいていった。虫の音はうるさいぐらいに響いていた。
ペンションを覗き、すぐに姿を暗闇に紛らせたつもりだったのだが、1人の男に気づかれていたらしい。小柄な中年男が懐中電灯をグルグルと回しながら、自分のいるところに向かってきた。その中年男は懐中電灯に照らされた自分の顔を見るなり、訳の分からない悲鳴を発し、懐中電灯を草の上に落とした。そして、すぐさま逃げようとした。今、騒がれては困ると男の両膝の裏をひっかいた。必死で逃げようとしている男の口からは、最大級の悲鳴が発せられそうになっていたため、口を閉じさせようとしたつもりが、男の舌に自分の長く鋭い爪が触れ、千切れた舌が青い草の上に飛んでいった。
しばらく、男が苦痛で呻きながら、這っていくのを見物するかのごとく見ていた。すぐに殺すのと苦痛を長引かせるの、どちらがいいだろうとぼんやりと思っていた。だが、この男を捜しにきたのか、また1人、ややがっしりとした体格でシェフの白い制服を着た中年男がやって来た。その男は「救急車」という言葉を発した。まだ八窪真理恵を殺していないのに、外部の者は呼ばれたくなかった。ダッと駆け寄り、背を向けたその中年男の首を掴んだ。自分が思っていたより、男の体はずっと軽く、その首もずっと細く感じられた。自分の手の内でメキメキ、いやボキボキというような何とも形容しがたい音が鳴った。そして、手を離した時、男の首と胴体は別々に地面へと落下した。
2人の人間がペンションに戻らなかったら、誰かが異変に気づくだろう。
ついに、八窪真理恵の前に姿を現すことを決意した。
ペンションの明るい食堂へと近づていくと、やや面長な1人の若い女が自分に気づいたらしく絶叫した。それにつられるように、食堂にいた全員の目が自分へと集まった。その中には、あの八窪真理恵もいた。
脅しのつもりで、一番最初に襲った男の腕を投げた。それはガラスを割り、うまいぐあいに八窪真理恵の近くのテーブルへと着地した。食堂内は騒然となった。悲鳴は自分のいるところまで聞こえた。八窪真理恵は自分の隣にいるショートカットの小柄な女と抱き合って震えていた。
また闇の中へと溶け込むために、踵を返し駆けた。
外におびき寄せるか、それともペンションに押し入るか、そうこう考えているうちにペンションの入り口が開いた。
Tシャツを着た肩幅の広い男が消火器を振り回した。その男に手を引かれ、風に揺れるようなスカートをはいた八窪真理恵”らしき”女が出てきた。
――ソウダ、アンタハ、オトコニマモラレテ……
その姿に頬がカアッと熱くなった。そして、一番目に逃げたその車を追いかけた。
道路を走るその車に追いつくのはたやすかった。並走するような形で中を確認すると。その車の中には4人の人間がいた。
車に飛び乗り、まずは後部座席のフロントガラスを右手で叩き割った。後部座席にいたのは、自分より少しだけまだ学生のような若い男女であった。2人は抱き合って震えていた。その声の煩さにイラついた。まず女の方の首筋に手を触れた。そして男に目をやった。男が自分を振ったあのSに似ている気がした。叫び声を上げ続けるその男を黙らせようと、手を伸ばしたら、男の頬を貫通させてしまった。つい自分が殺してしまったその男の死に、女は絶叫し、走る車のドアを開け、逃げようとした。運転席の男がそれを制止しようと喚いた。だが、女はドアを開けてしまった。女のミニスカートから伸びていた折れそうなほど細い脚も車外の闇へと吸い込まれ、聞こえてきたのは、鈍い衝突音であった。
ついに助手席にいる”八窪真理恵”を殺そうと、車のルーフに足を進めた。そして、前の席を覗き込んだ。顔を引きつらせ絶叫している男と、顔を覆ったままの”八窪真理恵”がいた。その左手の薬指には指輪が光っていた。窓ガラスに左の拳を叩きつけた。1回、2回、3回、4回……。ガラスは男と”八窪真理恵”に降り注いだ。だが、なぜか男は「ユイ!」と叫んだ。
”八窪真理恵”は手の甲にガラスが刺さったためか、恐怖に満ちた顔をあげるしかなかった。が、女は八窪真理恵ではなかった。髪型と服装は八窪真理恵を思わせていたが、彼女とは全くは違う系統で目鼻立ちがわりとはっきりとしている女であった。そのうえ、女はおそらく自分より、10才くらい年上ぐらいにも見えた。
人違い。即座に身を翻して、道路に着地した。だが、その背後で先ほどまで自分が襲い視界を塞いでいたあの車は崖から転落し、鼓膜が破れるかのような爆発音が聞こえてきた。
顔を上げた自分の視線の先には、ペンションからの2台目の車が向かってきていた。助手席には人は乗っておらず、運転席のハンドルを握っているのは1人の男であった。自分の姿を見て、絶叫せんばかりに口を開けているその男が、即座にブレーキをかけるものだと思っていたが、車はまっすぐに向かってきていた。
身構え、アスファルトを蹴った。右にカーブを描き、あの車の中に八窪真理恵の姿をあるかを確認するために覗き込んだ。だが、後部座席にいたのは、涙で顔をぐちゃぐちゃにした八窪真理恵ではない若い女と、口周りを血まみれにしている、自分が2番目に襲ったあの小柄な中年男であった。
――アイツラヲコロシテシマッテイルウチニ、ヤクボマリエヲコロスコトガデキナイカモシレナイ……
見逃したのではなく、見なかったふりをした。自分にそう言い聞かせ、ペンションへの道を駆け上がった。
外に首のない男の死体が転がっているペンションは静まり返っていた。でも、中に人がいるのは分かっていた。
玄関の小さな屋根に飛び乗り、外に八窪真理恵が出てくるのを待った。だが、反対に自分が今いる玄関へと向かってくる女がいた。自分の母親と同じくらいか少し年上か、ややふくよかな体型になりかけているその女はフラフラとした歩き、その手には先ほど自分が切断した男の生首を大切そうに抱えていた。
その女が扉を開けると、中から女と男の2種類の悲鳴が聞こえた。
――ヤクボマリエガイル……
焦りにとらわれた。思わず自分がいる場所の下で生首を大切に抱え、なぜか笑顔を見せている女の首を掴んだ。女の首を締め上げ始めたその手に何か硬い置物が投げつけられ、痛みは感じたが手を緩めなかった。
女の首は柔らかく、女が手に持っている男を殺した時のように力を込める必要はなかった。女は何かを呟き、やがてその体の動きは制止した。手を離すと女の体は重い音を立てて落ちた。
玄関へと着地すると、やわらかな髪を泳がせ逃げる今度こそ”本当の”八窪真理恵とショートカットの腰の引き締まった女、やけに長い脚が印象的な1人の男、そしてパジャマ姿の女の後ろ姿を見た。
――ジンセイノチョウジリハココデキチントアワセナキャ、アンタナンカ……
彼女たちを追った。彼女たちは逃げた。追う。逃げる。そしてついに獲物たちは行き止まりへと。
獲物の中の唯一の男が喚き声をあげ、窓の下にあったテーブルを小さな窓へとぶつけた。ガラスが飛び散った。そして、ショートカットの女が消火器の水を自分へと直撃させた。
自分の口から奇声が発せられた。真冬に母からホースで水をかけられた記憶。愛の薄い家で育つしかなかった、自分のこの人生への恨み。
身を翻して逃げる時、消火器を持っているのはあの女ではなく、男に変わっていた。その後ろには、今にも倒れてしまいそうなほどの青白い顔が月明かりに照らされていた八窪真理恵がいた。
つい、逃げてしまった。けれでも、外から回り込んで、客室の窓ガラスを割って、再びペンション内へと侵入した。
自分が姿を見せたことで、再び獲物たちからは悲鳴が上がった。
ちょうど自分の一番近くにいた女の腕を掴んだ。悲鳴をあげるその女の顔を見た。後ろ姿では、若くは見えていたが、近くで見るともう50は過ぎているような女であった。だが、その女の目鼻立ちは、恐怖で歪んでいても美しいものであった。
――キレイナオンナ、コノオンナモ、ズットオトコニマモラレテイキテキタンダワ
苦い嫉妬が湧き上がった。背中に背後の獲物たちから、固い物が2つも投げつけられた。女を掴んでいた手をパッと離した。だが、即座に女の首根っこを掴み直し、ちょうどうまい具合に割れていたガラスの上にその女の胸を叩きつけた。
女は少しだけ、苦し気に息をもらした。
目から涙が溢れていた。それは何のために溢れた涙か、わからなかった。
――アンタヲサイゴノヒトリ二シテヤル……ソノフタリヲサキニコロシ、ゼツボウノナカデシナセテヤル……
自分を奮い立たせるような声を発して、再び闇の中へと戻った。
八窪真理恵たちを道路の木の上に乗って、待ち伏せていた。
ジワジワと殺すために。一度、助かったと見せかけて、再び地獄の深淵の中に落とすために。だが、どこかでサイレンの音も聞こえてきた。急がなければならならなかった。
八窪真理恵たちが乗っている車は、自分が置いていた尖った石を踏みつけ、パンクした。その車のドアは、開きかけたように見えたが途中で止まった。
気づかれた? という焦りにより、地面へと着地した。
自分の重みでたわんでいた、幾本もの木の枝も一緒にバラバラと落下した。
運転席でハンドルを握るTVでよく見る俳優に少しだけ似ている男も、後部座席の2人の女も抱き合って震えていた。そのうちの1人は間違いなく、八窪真理恵であった。
自分のこの存在が絶望を与えている。
きっと自分のことなど覚えてもいやしない八窪真理恵の命を今、自分が握っているのだ。その嬉しさに笑みを浮かべていた。
――アンタミタイナニンゲンハ、バツヲウケルベキナンダヨ、ソウジャナキャ、フコウヘイダ、イイトコドリバッカリシヤガッテ――
だが、予期せぬことが起こった。運転席の男がアクセルを踏み込んだのだ。
「!!!」
激痛と衝撃が走り、体が宙に浮いたかと思うと、次の瞬間地面に落下していた。獲物からの反撃。
車は走りだしていた。血だらけの体を起こしながら、神はどちらの味方をするのだろうか、と考えていた。獲物と「殺戮者」である自分のどちらの……
だが、神はどうやら自分の味方をしてくれたらしい。
止まった車から逃げる3人の影が暗闇の中でもはっきりと見えた。拾い上げた木の枝を手の内で鳴らした。
3人の中でひときわ大きく硬い輪郭を見せている影は、さっき自分の引いた男の影であった。
木の枝を男の足に向かって投げた。うまく命中したらしく男は倒れ込んだ。その男の影に駆け寄る2人の女の影。おそらく2つのうちの背の高い方の影が八窪真理恵だ。
――オトコニスリヨッテ……
苛立ち、つい八窪真理恵を狙って2本目の木の枝を投げてしまった。2本目もうまく命中したようであった。3人の影は重なりあうように倒れた。
3本目の枝は、男を狙って投げた。八窪真理恵を騎士のように守ろうとし、自分を車で轢いた腹のたつ男に。もっと苦しめたかったが、時間がなかった。早く男の息の音をとめなければ。狙いを定め投げた木の枝は、3本目も見事に命中したようであった。
八窪真理恵ともう1人の女はまた手を取って駆けだした。倒ている男に近づくと、木の枝はその男の首を横へと一直線に貫通し死に至らしめていた。
――アトフタリ……
サイレンの音は止まっていた。だが、八窪真理恵を早く殺さなければ、全く無関係の人間だけを殺してしまったことになるのだ。
1番最初に襲った、腕を切断してしまったあの男の車に2人が乗り込むのが見えた。後部座席の八窪真理恵の柔らかそうな髪も。
思わず石を投げていた。そして、八窪真理恵を車から引きずりだした。
運転席にいたあのショートカットの小柄な女は、自分が襲われているわけでもないのに絶叫した。
自分の目の前にいる八窪真理恵は、尻餅をつき、ただガクガクと震えて自分を見上げていた。獲物の命を握っているという快感。まるで神になったかのような。だが、車から飛び出てきた女が自分の背中に飛びかかってきて、八窪真理恵を襲わせまいとした。女を振り落した。腹がたったため、女の腹を思いっきり踏みつけた。
アンタノシキュウヲツブシテヤロウカ? と。
小動物をいたぶっているようであった。だが、八窪真理恵が女の名を呼びながら、女を助けようと体当たりをしてきた。
苛立ち、八窪真理恵の髪をガッと掴んだ。そして彼女の体に刺さったままの木の枝を強引に、そしてわざとゆっくりと引き抜いた。八窪真理恵は苦痛の叫び声をあげた。
――ソウ、ソレデイインダ、クルシメ、クルシムンダ、ワタシハモット……
嬉しさに奥歯がカチカチと鳴った。
上半身を血に染めながらも、必死で立っている八窪真理恵の足元で、携帯が鳴った。八窪真理恵はふらつきながらも、それを拾い上げ、「……お父さん……」という言葉をその唇から発した。
八窪真理恵の頬に涙が一筋、二筋と流れていった。そして、この夜に起こった殺戮を彼女は電話口の父親へと伝えた。そして、「……お父さん……大好きよ……」という言葉。子供を愛せる親の元に産まれてきたということ。親を愛せる子供として育ったということ。
思わず、八窪真理恵の手の内の携帯を叩き落とし、踏みつぶしていた。砕け散った携帯の液晶が、裸足の足の裏でざらついた。八窪真理恵は、自分に殺されることを覚悟したのか、自分に背を向けたのだ。視線の先は、先ほど自分が腹部を踏みつけた、あのショートカットの小柄な女であった。
「……由真……生きて……」
――ヤットアンタヲコロセル……
身構えた時、八窪真理恵が唇を動かした。八窪真理恵の口から発せられた言葉。それは――
「……さん」という自分の名字であるかのように聞こえた。本当に小さな声だったから、聞き間違いだったのかもしれない。それに今の自分の容貌は人間の女の姿とは、似ても似つかないはずであった。
なのに、八窪真理恵には自分が誰だか分かっている。自分がこの殺戮を起こした理由については心当たりがないに違いないが。思わず目を見開いていた。全身からは冷たい汗が噴き出した。
倒れていた女が「姉さんんん!」と絶叫した。そして――
自分の手は、八窪真理恵の下腹部を後ろから貫いていた。彼女の白い肌を破り、彼女の生温かい血と内臓の感触が伝わってきた。ゆっくりと手を引き抜いた。八窪真理恵は倒れ伏した。ついに八窪真理恵を殺せたのだ。
女が地面に這いつくばったまま「姉さん! 姉さん!」と喚き続けていた。この時、八窪真理恵には妹がいたんだと知った。泣き喚き続ける女はうるさかった。早くこの女の息の根も止めなければいけなかった。
女の首を掴んた。小さな女の体は軽かった。このまま、先に殺した中年男や中年女のような殺し方をしようかとも思った。眼前にある女の顔をじっくり見た。妹なのに八窪真理恵には全く似ていなかった。だが、この女も容貌に恵まれていた。切れ長の大きな瞳に、形のいい鼻、小さく引き締まった唇……
女を掴んだまま、崖へと足を進ませた。女を崖下へと落とすために。
パッと手を離した。女は落ちていった。
背後からの自分を呼ぶ声に我に返った。
パッと振り向くと、宵川斗紀夫が立っていた。近くに彼のものらしき車も停められていた。
「いきなり変身して、山の方へと駆けて行ったんだから……探しましたよ」
満月と、フロントガラスが破壊された車のライトが、宵川斗紀夫の落ち着き払ったその様子を照らし出していた。
「随分と派手にやってしまいましたね……あなたは大事件を起こしましたよ。明日には日本列島が激震するほどのね」
宵川斗紀夫は、自分をたしなめているようであるが、今の状況に喜びも感じているらしかった。背筋がゾクリとし、後ずさった。
彼は茶色い地面に横たわっている八窪真理恵に目をやった。
「もしかして、この人が話に出てきた八窪真理恵さんですか? 結構綺麗な人ですね」
そして、彼はズボンのポケットから携帯を取り出し、八窪真理恵の死体へと向けた。二度、三度と携帯カメラのフラッシュが光った。
「死ぬ前に一度、会ってみたかったんだけど……もう、死んじゃってるね……残念」
宵川斗紀夫の口からは『殺戮者』となった自分をも震わせる言葉が発られたのだ。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
真夜中血界
未羊
ホラー
襟峰(えりみね)市には奇妙な噂があった。
日の暮れた夜9時から朝4時の間に外に出ていると、血に飢えた魔物に食い殺されるというものだ。
この不思議な現象に、襟峰市の夜から光が消え失せた。
ある夏の日、この怪現象に向かうために、地元襟峰中学校のオカルト研究会の学生たちが立ち上がったのだった。
※更新は不定期ですが、時間は21:50固定とします
夜霧の怪談短編集
夜霧の筆跡
ホラー
体験談形式の一話完結の怪談短編集です。
一話一話は独立した話なので基本的にはどこからどこを読んでも大丈夫です。
気になったサブタイトルのやつだけご自由につまみ食いしてください。
朗読はご自由にどうぞ。
動画やアーカイブが残る場合には、私へのリンクを添えてくれると嬉しいです。
!注意!
エッチな話はありませんが、残酷な描写が含まれているため、R-15指定となっています。
表紙や挿絵はAIに描いてもらいました。
AI絵が苦手な方は、目をそらしたまま見えなくなるまでスクロールしてください。
挿絵は冒頭の1枚しか差し込んでいませんので、それだけ避ければ大丈夫です。
君との空へ【BL要素あり・短編おまけ完結】
Motoki
ホラー
一年前に親友を亡くした高橋彬は、体育の授業中、その親友と同じ癖をもつ相沢隆哉という生徒の存在を知る。その日から隆哉に付きまとわれるようになった彬は、「親友が待っている」という言葉と共に、親友の命を奪った事故現場へと連れて行かれる。そこで彬が見たものは、あの事故の時と同じ、血に塗れた親友・時任俊介の姿だった――。
※ホラー要素は少し薄めかも。BL要素ありです。人が死ぬ場面が出てきますので、苦手な方はご注意下さい。
悪夢で視る人――それは俺だけが視ることのできる、酷く残酷で凄惨な個人的ホラー映画。
されど電波おやぢは妄想を騙る
ホラー
彼女居ない歴イコール、生きた歳の俺は二十歳。
仕事が休みになると、当然、することもないので、決まって部屋に引き篭もる悪い癖を持っている。
何をしているかって言うとナニではなく、ひたすらに大好物なホラー映画を鑑賞しているってわけ。
怪奇物にスプラッター、パンデミックに猟奇物まで、ホラーと名のつく物ならなんでもバッチ来いの大概な雑食である。
めっさリアルに臓物が飛び出す映画でも、観ながら平気で食事が喉を通るって言うんだから大概だろ?
変なヤツだと後ろ指を刺されるわ、あの人とはお話ししてはダメよと付き添いの親に陰口を叩かれるくらいのな?
そんな俺が例の如くホラー映画を鑑賞中、有り得ないことが俺の身に起きた。
そこを境に聴くも悍しい体験をしていくこととなる――。
Cウイルス・クロニクル
ムービーマスター
ホラー
202X年、東京駅の超高層タワービルの最上階オフィスで、男がアイソレーション・タンク(感覚遮断タンク)の中で目覚め、無感覚でパニック状態ながら脱出した外界は?Cウイルス(カニバリズム幻覚症候群ウイルス)によって東京首都から日本全国に、そして世界までも爆発的なパンデミックが覆い始め21世紀の現代文明が崩壊し始めるようとしていた・・・。
目覚めた男は一体誰なのか?Cウイルスとは何なのか?東京発?で発生したパンデミックは世界に感染を広げ、どうなるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる