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第7章 ~エマヌエーレ国編~

―37― ランディー(6)『口回りの血をぬぐったランディーは、櫂を掴んだ。』

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 今宵、投げられたランディー・デレク・モットの運命のコインは、「死」を示していた。
 そして、その「死」こそが今宵の彼が行き着く唯一の救いの”地”であったはずであった。
 だが、運命のコインは裏返った。
 あの時、あの場にいたがために逃げることを許されず、私刑の巻き添えを食らうかたちで惨殺されたオスカル・マウリリオ・トゥーリオの犠牲によって。
 ジムとルイージがトゥーリオを見逃す選択をしていたなら、ランディーはもう生きてはいなかったはずだ。
 何の力も持たぬ彼の叫びなど、あの娼館内でかき消されていたであろう。
 自分たちのメンツに固執していた奴らは、あろうことか、一番思い知らせてやりたかった野郎を、野次馬根性で駆け付けてきた魔導士に掻っ攫われてしまったというわけだ。


 気を失ったままのランディー・デレク・モットは、小舟に横たえられたまま、青き月の光がきらめく穏やかな波間を静かに進んでいた。
 横向きに寝かされていた彼の喉の奥より、締め上げられたかのごとき呻きが漏れ、その呻きとともに血と欠けた歯が吐き出された。
 ランディーの片方の瞼がゆっくりと開く。
 かろうじて失明はしていないようであったが、もう片方の瞼は腫れあがり、ふさがっていた。

 そうか……俺は死んだのか…………。

 今はもうジムやルイージたちの怒声も聞こえなければ、拳や蹴りも飛んではこない。
 聞こえるのは、静かな波の音ばかり。
 ”終わった”のだ。
 しかし、”終わった”はずなのに、この肉体は生きていた頃と同じように苦痛の呻きをいまだに絶え間なくあげ続けている。

 だが、これこそが自分に科せられた罰なのかもしれない。
 お前は死んでも苦しめ、苦しみ続けるんだ、と。
 臆病者で卑怯者のお前は……その身で贖いきれぬ罪を犯してきたお前は、苦痛から解放されることなく、孤独のまま永遠に海を彷徨い続けろ、と。

 死ぬ覚悟はあった。
 俺も”あいつらと同じ”だから、近いうちにこの身は”刑場の露と消える”という最期は受け入れていたはずであった。
 だが、そうはいかなかった。
 ピートが忠告してくれていたというのに、ジムやルイージの元へと連れ戻されるという一番残酷な運命のルートに入り込んでしまったばかりか、最悪なことに無関係の人を幾人も巻き込んでしまった。

 生きたまま焼き殺されたオスカル・マウリリオ・トゥーリオの断末魔が、肉が焼け焦げる匂いが……地獄よりも恐ろしいあの光景がランディーの中で蘇ってくる。

 あいつらは”あの人”に、直接的な恨みがあったわけじゃないだろう。
 俺に対する見せしめのために、”あの人”はあれほどに惨たらしい殺され方をしたんだ。
 俺は名前も知らない”あの人”が焼き殺されている時、我が身可愛さに”あの人”のことなんて少しも考えられなかった。
 ”嫌だ死にたくない次は俺だ次は俺だ頼むから殺さないでくれ頼むから俺を許してくれ嫌だ死ぬのは嫌だ死にたくない謝るからちゃんと謝るから死にたくない殺さないでくれ”と、ただただ、それだけだった…………。

 トゥーリオの無念の叫びが、なおもランディーの中で響き渡る。

 命で償う気があったなら、なぜ俺は牢獄にいた時に舌を噛み切ってしまわなかったんだろう?
 いや、船内でディランとあの長髪で体格の良い隊長さん(パトリック・イアン・ヒンドリーのこと)に発見される前にだって、幾らでもチャンスはあったはずなのに。
 結局、俺は口ばかりだった。
 やっぱり、生きていたかったんだ。
 でも、こんな俺がズルズルと生き続けていたことで、今夜はいったいどれだけの人が巻き込まれてしまったんだ?
 ”あの人”だけじゃない。
 牢獄にいた看守たちだって、きっと何人も……。

 ランディーの目の前で、看守の一人はジムに喉を切り裂かれて絶命していた。
 
 ランディーの目から涙が溢れた。
 肌を流れゆく、その涙は熱かった。



「……おや、気が付きましたか?」

 男の声だ。
 自分一人だけではなかったのか?

「そのままの体勢で差し支えありませんよ。相当な重傷を負っているのはあなた自身が一番良く分かっているでしょうし、私はあなたが喉に血を詰まらせて窒息してしまわないよう、あえて横向きに寝かせていたんですから」

 体をよじらせようとしたランディーに声の主が言った。

 なんと、声の主は海面に浮いていた。
 ランディーが驚いたのはそれだけじゃない。
 
 男は美しかった。
 これほど美しい男を見たのは初めてだ。
 
 長い髪をサラリとなびかせた男は、白衣に身を包んでいた。
 その白衣の前面と袖口付近は”血で汚れている”も、夜空に輝く青い月を背景とした神々しいまでの男の美貌とその佇まいは、まるで一枚の絵画を目にしているかのようだ。

「……か、神?」

 神が俺を迎えにきたのか?
 しかし、神はランディーの言葉に、フフッと笑った。

「あなたが私の浮世離れした美しさを神と見紛うのは致し方無いことでしょう。ですが、あなたが神の元へと向かうのはもっと先のこと……少なくとも今宵ではないようですね」

 自らの美貌を、当然のごとく認めた男は続ける。

「あなたの名前は?」

「ラ、ランディー……」

 デレク・モットと続けたかったが、口内の傷が疼いた。

「ランディー、私はあなたが、海賊たちからにそれほどの仕打ちを受けるに至った背景は知りませんし、あなたを助け出す義理もありませんでした。ですが、まあ、”乗りかかった船”と言いますか……あまり無駄な労力は使わないようにしている私ですが、さすがにあの状況をスルーすることは、自分の魂のためにもできなかったというわけなのです」

 何かを思い出したかのように、男は深い息を吐いた。
 もしかして、この男はクリスティーナの同業者、つまりは魔導士であるのか?
 ただ一つ、ランディーにとって確かなのは、この世にも美しい男は、自分を救ってくれた神には違いないということだ。
 まさか、この神こそが、ルークやディランたちと敵対している者たちのうちの一人、しかもそのボスであることなどランディーは知るわけなどなかった。

「今は潮の流れも味方のようですし、”私がかけた術に加えて”、あと数分もすれば、この小舟は”アドリアナ王国”の海岸へと辿り着くでしょう。私はあなたにこの白衣のクリーニング代を請求する気もないですし、陸地にいるお医者様の所まで手厚く送ってあげても良かったんですがね。私の気配を、首都にいるニコイチコンビ(カールとダリオのこと)やその他の面々に気取られては、いろいろ面倒くさいことになりそうですから。…………陸地に上がった後のあなたの人生という物語の”続き”に私は一切関与しませんし、その”続き”を知る機会だっておそらくないでしょう。ですが、私がせっかく柄にもなく助けた命でありますから、その命の使い道はよくよく考えて欲しいと思いますがね」

 ランディーを見下ろしたまま、神は続けた。

「さてと、ランディー、私はこれにて失礼いたします。急いで戻らなければ……まだ十五歳の少年を一人で異国の地に残してきたのは、やはり心配ではありまして……いくら無鉄砲で怖いもの知らずの彼とはいえ、今宵ばかりは柄にもなく怯えていましたし、一応の保護者として、しばらくは側にいてあげた方がいいかと……」

 良く喋る神だ。
 しかも、何を言っているのか全く分からない。

 ふわり、とさらに浮き上がった神は、「それでは」とランディーに軽く頭を下げ、夜空へと飛び去っていった。
 そして、やがて、その姿は青い月へと溶け込みゆき、見えなくなった。

 しばしの静寂ののち、ランディーは体をゆっくりと体を起こした。
 いや、呻きとともにゆっくりと起こすしかないほど、完膚なきまでに体中を痛めつけられていた。
 咳き込んだランディーの口から血が滴り落ちる。
 顔が血だらけで腫れあがっていることは、鏡代わりに海面を覗かなくとも分かったし、肋骨だって折れているようだ。
 不自由な左足だって、ルイージに捩じるように踏みつけられたことから始まり、容赦ないリンチの標的になっていないはずがなかった。
 
 だが、この体はまだ動く。
 動かすことができる。
 俺は生きている。
 そして、助けられたこの命をどう使うかも…………!

 口回りの血をぬぐったランディーは、櫂を掴んだ。
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