さよなら神様、また会おう

佐伯逢涼

文字の大きさ
上 下
4 / 4

人間は交差する

しおりを挟む
【今井 達樹side】
 声優として生計が立てられる人間は、ほんのわずかだ。
 演技力は勿論、トーク力、歌唱力、容姿と、求められる能力のなんと多いことか。そんなスーパーマンがいたら世界で大活躍してるわと吐き捨てたくなるけれど、声優界にはそんなスーパーマンがうじゃうじゃいる。
「今井君、今日の夜ご飯は何を食べる予定?」
「お金もないですし、素うどんで良いかな、と思っています」
 アニメやゲームに声を宛てるだけではなく、今はライブまで声優がやってのける時代だ。
 ちょっと歌えて容姿が良いからという理由で、奇跡的に、僕も役を貰えた。しかも、人気コンテンツというのだから、人生、何があるかわかったものではない。
 ただ、新しいコンテンツは瞬きをしている間に、増えていく。いっぽうで、昨日まで人気があったコンテンツがすぐに消え失せる。
 人気コンテンツに登場し、一度でも認知をされた。この機会に名前を売り込む必要があるわけだが、僕は見事に失敗している。
 次のライブに向けた練習で、一人で胡坐を掻いて欠伸をしていたところ、近藤さんが声を掛けてくれた。
 近藤さんは、若手の中でも超人気の声優だ。練習が終わったらさっさとオフになる僕に対して、ラジオやらゲームキャラの声を宛てる仕事やらイベントの打ち合わせが控えているらしい。
 この人も、スーパーマンだなぁ、なんて考えているうちに、近藤さんが顔を覗き込んできた。
「可哀想だから、奢る。年頃なんだし、食べなきゃ成長しないぞ。ファミレスとかで、いい?」
 カラカラと気さくに笑う近藤さんに、口端だけを吊り上げて曖昧に笑う。
 中学生で身体の成長が止まっているのだから、食べたところで身長も体重も増えるはずもない。近藤さんも知っているはずなのに、周りに他の声優がいるから、良い人ぶりたいのだろう。
「ああ、はい、ありがとうございます」
 近藤さんの申し出にも、素っ気なく答える。不器用な笑顔を浮かべ、すぐに、ひっこめた。下手くそな笑顔を浮かべるぐらいなら、しないほうがいい。
 ネットでも、笑顔の下手さについては叩かれていたな、なんて他人事のように感じる。
 他の声優たちが、遠巻きに視線を注いでいる。敵にはならないから安心だが、いつまでこいつは声優を続けるのか、と探るような目つきだ。
 洋画のコメディ映画みたいに、肩を竦めたかった。
 僕だって、自分がいつまで声優をしていくのか、知りたい。
「親の店が近くにあるので、やっぱり、良いです。親のところで、食べます。ありがとうございます」
「じゃあ、俺も一緒に行こうかな。仕事もあるから、長居しない。良い?」
 楽しそうな笑顔を崩さない近藤さんに、片眉を上げて苦笑を送る。苦笑のほうが、笑顔よりは上手くできる。
「まあ、別に、良いですよ。親が、良いと言えばですけれど」
 世話になっているし、母さんも『近藤さん』に会いたいはずだから、やむなしだ。
 それに、と柱に掛かっている時計を上目遣いで眺めた。
 そろそろ、紫藤先生の名人戦が終局を迎える頃だろう。相手の笹塚先生の気合と気迫は凄まじかったから、さすがの紫藤先生も作戦では押されているかもしれない。それでも負けているとは思えないのだから、紫藤先生の存在の大きさには眩暈を覚えそうだ。
 近藤さんと夜ご飯の約束を取り付けてから、柱に頭を預けて瞼を閉じる。
―――解説で、天多君がいたなぁ。棋士に、なれていたのか。
 かつて、自殺未遂までやってのけたイケメンは、高価なスーツに負けない威厳を纏い、解説として立っていた。
 かつては勝てないことで嘆いていたくせに、七段にまで昇段している。何十年も掛けて七段に到達する棋士もいる中で、大した成績だ。
 瞼を閉じて、胡坐を掻く。
 身体を左右にぐらんぐらんと揺らし、海の光景を脳裏に浮かべた。
 じりじりと押し寄せる波と、潮の臭さと、静かに響く駒音と、真剣なまなざしの天多君の表情が次々に再生される。
―――あの対局は、楽しかったなぁ。あの時よりも、強くなっているんだよね。次に会える日が、楽しみだけど。次なんて、いつになるか、わからないなぁ。
「―――い、く、ん! まいくん! 今井君!!」
 近藤さんが、いつになく焦った声で僕の身体を揺さぶった。
 思考が将棋に傾く前に、瞼を開く。寝ていましたよ風を装い、疑似欠伸を展開しながら「どうしましたか」なんて、問いかける。
 将棋について考えると身体に異変が出てしまうから、起こしてもらって、ちょうど良かった。
「君、ニュース速報に、なってるよ」
「罪を犯したつもりはないんですけど」
 渾身の冗談だったのに、華麗にスルーをされた。
 不完全燃焼にモヤモヤしながらも近藤さんが差し出したスマフォ画面を、上から覗き込む。
 終局後と思わしき紫藤先生の和服姿の写真と、タイトル防衛の文字が躍る。記事は淡々と紫藤先生の防衛についての表記が並んでいた。もはや、紫藤先生が防衛する自体は当たり前で、あとはタイトルを何期獲得しているかが重視されているように思う。
『紫藤名人は、弟子を取ることを明言した。声優として活動している今井達樹が、弟子として名が挙がっている』『弟子について、紫藤名人は「師匠として世話をするつもりはないですが、物凄く強いです」と語っている』
 僕の名前と、事務所のホームページに記載している写真が記事に入っていた。客観的に見て、やはり僕は笑顔が下手だと思う。
 近藤さんの慌てぶりに、他の声優もこぞって検索を始める。
 当事者のはずの僕だけが、他人事のスタンスを崩さずに記事を淡々と目で追った。
 声優として「活躍している」ではなくて、「活動している」という表記を使っているあたり、記者の調べる能力は優秀だと思う。売れない声優を表現する言葉としては、憎いぐらいに最適だ。
「今井君は、声優を辞めて、棋士になるの? 俺には、教えてくれなかったんだな」
 近藤さんが迷子の子供みたいに、困った表情を浮かべる。
 僕は近藤さん以上に、困っている。
 声優界では近藤さん以外に僕に親しくしてくれる人はいないのだけれど、今ばかりは色んな人の視線が集まる。
 やっとで声優を辞めるのか、の期待の色も混じっているだろう。
「棋士になるためには、超える山が多いので、無理かもしれませんね。でも、とりあえず、頑張ります。色んな人と、約束をしましたので」
 紫藤先生の弟子になったから、棋士になれるわけではない。紫藤先生の名前が後ろにあったとしても、確率でいえば、棋士になれる確率は、ほぼゼロに等しい。
 将棋を知っている人間であればあるほど、棋士への道の険しさを実感する。ましてや、奨励会に所属していないのだから、狭すぎる門がさらに狭くなる。
 近藤さんだって、ある意味で棋士に近い人間だったのだから、僕が棋士になれる確率の低さを承知しているはずだ。
 承知しているはずなのに、近藤さんは、まるで僕が棋士になることが確定したみたいに、寂しそうな色を消さなかった。


【斉木 天多side】
 今井達樹の存在を知ってからというもの、居ても立ってもいられなくなった。
 紫藤先生のインタビューはまだまだ続いているが、スタッフさんに確認をすると、俺の仕事は終りだと聞いた。大先輩で帰宅した方もいるため、俺が場を離れても問題はなさそうだった。
「斉木先生、良かったら検討を「ごめん、用事があるから、帰る。お疲れ様!」
 後輩が目を輝かせて将棋の検討を申し出たけれど、強引に区切ってカバンと共に走る。
「斉木先生、ご飯でも「いえ、無理です。すみません」
 女流棋士からのお誘いも、未だかつてない冷たさで跳ねのける。ぽかん、とされたような気もするが、振り返る時間で、脚をとにかく先に進めたかった。
「声優って、どこで逢える? 手掛かりは、ないのだろうか。ファンレターが、早い? でもチェックをされたら、届かないか。それか、紫藤先生にお願いをすべきか。でもなぁ、紫藤先生とは、そこまで親しくないからなぁ」
 急き立てる気持ちを独り言として漏らしながら、今井達樹に逢えるための術を検討する。
「紫藤先生と、コミュニケーションを取っておくべきだった……いやいや、無理だ」
 将棋界のトップにお弟子さんを紹介してくださいなんて、口が裂けても言えるはずもない。
 悩みながら、会場を出る。外にはマスコミもいたが、感心は紫藤先生と弟子であるため、軽い挨拶をしながらさっさと抜ける。
「おお? この後ろ姿は、斉木先生だ。うん、間違いない。俺の目は誤魔化せないぞ、よぉ、斉木天多!」
 答のない問いに頭を悩ませながら信号待ちをしていた俺の背中に、なれなれしい挨拶が飛ぶ。ファンであるならば無碍にはできず、頬を搔いて振り返った。
 スーツとシャツといった、いかにもサラリーマンの男性が手を大きく振る。年齢は三十代の前半あたりで、表情からもなれなれしさが滲んでいる。
 厄介なファンではないようにと祈りながらも、愛想笑いを浮かべた。しかし、愛想笑いを浮かべた後で、記憶に引っ掛かる顏だと気づく。
「んん? あれ、もしかして、鬼塚先輩ですか?」
 自殺未遂をするよりも、随分前の記憶が蘇る。懐かしくも、苦しかった時代だ。当時の畳の匂いや、喜怒哀楽に沈む部屋の重苦しい空気も背中にじりじりと纏わりつく。
「そうだよ! 棋士になれなかった、鬼塚。天多ぁ、お前は、ちゃんと棋士になったんだな。偉いぞ!」
 奨励会を三段で退いた鬼塚先輩は、両手を大きく広げた。昔から癖は変わっておらず、俺は条件反射で鬼塚先輩の胸元に飛びついた。
 身長が十センチほど違うため、胸元に飛びつくというよりは俺が抱き締める形になる。それでも、鬼塚先輩の細身に見えて、意外と骨がガッチリとしている雰囲気は、十二分に伝わった。
「先輩は、今は何をされているんですか」
 鬼塚先輩から離れ、スーツ姿を上から下まで観察する。
「サラリーマンをしているよ。家庭もあるし、今は幸せなんだぁ」
「あ、ご家庭が! それは、その、良かったです」
 濁したお祝いになってしまったが、子供みたいな無邪気さを持つ笑顔を浮かべた先輩につられて笑みを重ねる。
 鬼塚先輩が苦しみ抜いた俺を知っているように、俺も鬼塚先輩の果てしない苦しみを知っている。
 鬼塚先輩の苦しみは、俺とは比にならない。決して晴れることのない、絶望に満ちた悲しみだ。
 再起不能とまで噂された鬼塚先輩は、昔と変わらない、はにかんだ笑顔を浮かべる。
 鬼塚先輩に笑顔が戻っていると知れて、瞼が熱くなる。本人の前で泣くわけにもいかず、咳払いをして、瞼の熱をやり過ごした。
「あ、嫁が店を開いているんだよ。今から、嫁の店で夜飯を食べるんだけど、来て来て!」
 両手を広げる子供っぽい誘い方も、昔とちっとも変わらない。
「せっかくですけれど、俺はちょっと、会いたい人がいて」
 どうやって会うのか、と据え置きにされていた問題が再浮上する。
「会いたい人って? 俺とのご飯を置いてまで、会いたい人?」
 唇を尖らせ、頬を膨らませ、鬼塚先輩は拗ねる。
「鬼塚先輩とは違った意味で、会いたい人です」
 ぼかした言い方をすると、鬼塚先輩は咀嚼するような視線を空へと向ける。まるで空に正解があるかのような、仕草だ。
「うぉ? そっか、わかったぞ。これから、デートだな? そうか、そうか、ついに、見つけたかぁ」
 鬼塚先輩の慈愛に満ちた笑顔に、頬を軽く搔いて頭を下げる。
 俺の性癖を知っている人間は、極端に少ない。鬼束先輩は数少ない一人で、ずっと応援をしてくれていた。必死に隠し通していた性癖を伝えられるほどには、俺にとっては信用が置ける人だった。
「いえ、実は、片想いをしていまして。でも、その人との連絡をどうやって繋げていいか、わからないんです」
 素直に白状したのも、鬼塚先輩の包み込むようなオーラのせいだと割り切った。
「相談に乗ってあげるぞー! せっかく、出会えたんだから、お酒を飲もう。俺と関わっていた頃の天多は、未成年だったからなぁ。ようやく、飲めるようになったんだし」
 くい、とお猪口を掲げるジェスチャーをした鬼塚先輩は、瞳を和らげた。
 強引なのに、憎む箇所が一ミリたりともない笑顔が、眩しかった。
 大事な先輩が、大きな悲しみを乗り越えて、笑っている。先輩の事情を知ってから、自分から連絡を採ることは、できなかった。心のどこかではずっと心配していた人が、こうして目の前で笑っていることが、このうえなく、嬉しい。
「せっかくなんで、お邪魔します。俺、酒は結構、強いですよ。潰れないでください」
「明日、会議なんだよねー! お手柔らかに。まあ、でも、ガッツで乗り切るから、飲もう」
 今井達樹に逢いたい気持ちは膨れるいっぽうだが、手段がない以上、今日は諦めるしかなさそうだ。
 気さくに笑う鬼塚先輩の横に並び、肩を合わせた。
「ご馳走になります、鬼塚先輩」
「俺よりも高給取りの癖にぃ。いいよ、いいよ、奢ってあげる。今日は息子も来る、て連絡があったんだ。せっかくだから、息子も紹介するよ」
「あ、息子さんが生まれたんですね。おめでとうございます。何歳ですか?」
「会ってからのお楽しみ、てね。吃驚するかも、しれないなぁ」
「どういう意味ですか? 気になりますよ、先に教えてください」
「むふふふふ。会ったら、わかるよ。じゃあ、行こう」
 離れていた年月を感じさせない明るさで、鬼塚先輩に肩を抱かれる。すんなりと人の懐に入り込む人柄は健在で、自然と自分にも笑顔が浮かぶ。
 今井達樹の存在も知れて、鬼塚先輩とも再会できた。今日は、とてつもなく、良い日だ。
「お、月が綺麗だねぇ。今日は、三日月だ」
 鬼塚先輩に促され、顎の角度を上げる。
 星に彩られるように、三日月が夜空を照らしていた。鋭利な形状はしているが、どこか丸みを感じて可愛らしいとも思う。
「綺麗な、三日月ですねぇ」
 今井達樹も、どこかでこの月を見ていたらいいと願う。



【今井 達樹side】
 近藤さんと一緒にスタジオを出るなり、記者と名乗る男に遭遇した。アニメや漫画や小説のイメージで、記者といったらよれよれのスーツに胡散臭い空気を滲ませた人物だと思っていたけれど、意外にも愛想もよく、スーツもきっちりとしていた。
「紫藤先生の、お弟子さんですね。わたくし、将棋雑誌の記者をしておりまして」
 差し出された名刺を受け取りそうになって、近藤さんに阻まれる。
「すみません、この子は棋士の前に、声優なんで。事務所を通して欲しいです」
 売れっ子声優の近藤さんは慣れた調子で、僕の前に立つ。近藤さんの背中に顔を埋めるように隠れ、そっと脇の傍から状況を見守る。
「事務所の社長が偶然、知り合いだったんです。許可は、いただいておりますよ」
「許可を証明できるものは、持っているんですか。今井君、マネージャーからの、連絡は?」
「来てないよ。あ、いや、来ていません」
 スマフォを確認したけれど、連絡はない。僕以外の声優の面倒も見ているから、仕事中で連絡ができないのかもしれない。
「困りました。そういうものは、持ち合わせていません。どうしたら、信じていただけますか?」
「あら、岸井さんでは、ございません?」
 近藤さんと記者が、丁寧に駆け引きをしている合間を縫って、涼しい声が耳に届いた。
「母さん」
 和服姿で飾った母さんが、野菜がはみ出る袋を腕にぶら下げていた。真っ赤な口紅を緩め、妖艶が混じった笑顔を、記者に向ける。
「お久しぶりです、紅音さん。ちょうど、取り込み中なんですよ。知り合いの記者さんなら、良かった。話を進められる」
 近藤さんが、首を左右に倒し、コキコキと音を鳴らした。
「涼君、お久しぶりですわね。話を、進める?」
「実は―――」
 近藤さん、もとい、涼君が母さんに説明している間に、視線を綺麗な三日月へと向けた。
 くっきりと光る三日月に、ちょっとの間、意識を奪われる。
「おや、もしかして、木島紅音さん、ですか? また、一段と美しく、なられて」
 記者のほうに視線を戻すと、頬が、わかりやすく真っ赤に変色していた。
 母さんは泣き黒子を和らげ、記者に顔を近づける。母さんから、花のように甘い匂いが漂う。
「ほほ、年寄りを揶揄うものでは、ございませんわよ。どうしたんですの?」
 母さんはさらに記者に顔を近づけ、色気が増した瞳を楽しそうに緩める。
「ちょっと、取材をしたいと思っておりまして」
 明らかに緊張を携えた記者が、一歩、また一歩と下がる。車道にそのまま転ばないといいが、と心配しつつも成り行きを涼君と見守る。
「あら、それは、お邪魔をしてしまいましたわね。でも、今日は、遠慮してくださらない? わたくしも、今井君に用事があって、来ましたの」
「あ、なるほど、今井さんと紅音さんは、お知り合いで」記者は僕の言葉を聞いていなかったようで、関係性について問いかけたい視線を寄越してきた。口笛でも吹いて誤魔化してやりたい衝動を堪えながら、僕はまた涼君の背中に潜る。
「さあ、岸井さん、お帰りなさい。上司の方にも、よろしくどうぞ。それから、今井君。涼君と一緒に、来てくださる?」
 母さんにお帰りなさいと告げられた記者は、何度も頭を下げてそそくさと退散をした。
「ちょうど、お店に行こうとしていたんですよ。ごちそうになります」
 腐れ縁の人気声優は、世の女性を虜にする笑顔でご飯をおねだりする。
 母さんは頬を緩め、うんうん、と首を縦に振った。
 女性を虜にする涼君と、男性を惹きつける母さんのツーショットを、一歩だけ離れた場所で観察する。
「達樹、わたくしは、先にお店に戻りますわね。後でいらっしゃい」
「え、荷物持ち、手伝うよ」
 中学生の頃から体格は変わっていないけれど、力は女性よりは自信がある。
 両手を伸ばして、母さんの買い物袋に手を添える。
「いいのよ。母さん、これでも、力持ちなのよ」
 買い物袋から飛び出る野菜たちは、母さんの細腕には重そうに見えた。
 でも、母さんはどんなに粘っても、大丈夫の一点張りで、やんわりながらも譲らない空気が滲んでいる。
「うん、わかった。じゃあ、後で行くね」
 片手を軽く挙げ、母さんを見送る。母さんも僕と同じように片手を上げてから、カランコロン、と下駄を響かせて遠のいていった。
「相変わらず、美しいよね、紅音さんは。何歳だっけ?」
「三十歳以上、四十歳未満」
「幅が広すぎるわ。母親の年齢ぐらい、覚えてろよ」
 涼君が、肩を揺らして笑う。
 顎の角度を上げ、見事に均衡のとれた三日月を仰ぐ。掴めそうだなんてロマンチックな妄想はしない代わりに、知っている人の一人や二人が同じく三日月に見惚れているだろうと予想する。
 そっと、掌に指が添えられる。温かみは紛れもなく涼君の指だけれど、僕はわかりやすく振り払った。
「手ぐらい、繋いで良いじゃん」
 あからさまに不貞腐れた涼君に、呆れを混ぜた視線を注ぐ。
「嫌だよ。どこの世界に、腐れ縁と手を繋ぐんだよ。人気声優なんだから、気を付けたら? 今どき、すぐにニュースになるよ」
「腐れ縁というかさ」涼君が、耳元に唇を寄せる。「セフレでしょ」
 さすがは売れっ子で、情欲を孕んだ吐息交じりの声に、腹の底がずくん、と疼く。
「そうであっても、手はおかし「ああ、そうだ、忘れてた」
 振り払ったはずの手が、僕の肩を引き寄せる。男性らしい胸板に引き寄せられてしまったら、力では太刀打ちできない。逃げる選択肢が一気に潰されたものだから、身体の力を抜いて、すぐに観念した。
 涼君は、僕の後頭部に頬を擦り付けた。セックス前の興奮気味の仕草で、僅かに吐息の合間から甘ったれた息が漏れている。
「棋士になるなんて、聞いてない。俺が一生、世話をしてやるから、棋士の夢は諦めろよ」
 有無を言わせない雰囲気を孕んだ甘え声で、涼君は僕の後頭部に頬ずりする。
「夢なんてもんじゃない。紫藤先生と、近藤先生との約束だよ。忘れちゃったの?」
 将棋に縁がなかった涼君は、僕をそっと放してから目線を合わせる。
 僕の肩を強めに掴み、苦虫を噛み潰したように顔の筋肉を歪める。涼君のファンが目撃したら、ショックでも受けかねない。いや、むしろ、ドS顔だと喜ぶのか、と状況にそぐわない疑問を脳裏に浮かべる。
「あんなのは、約束とは違う。呪いだ」
 涼君の眼差しは、真剣だった。
「そうかもね。一生、解けない呪いだと思う。だから、涼君にとやかく、言われたくない。もう、ここまで来たんだから、止まらない」
 僕だって、真剣だった。
「将棋を指したら、顔に痣ができるよね。いいの? 今のご時世、一度炎上したら、死ぬほど叩かれるけど」
「欠点も、見せ方によってはアピールポイントになる。声優になって、学んだ。中学生から身体が成長しない僕を、ショタ系声優として売り出したのは、涼君だよ」
 涼君は眉根を寄せ、僕から視線を逸らした。涼君は言葉をいっぱい持っているから、反論や僕を押さえつける台詞はいくらでも出せるはずだ。でも、今は僕と喧嘩をするつもりはないらしい。
 涼君が納得しようがしまいが、紫藤先生が公の場で発表したのだから、止めようもない。
「あーあ、嫌な月だな。三日月って、気味が悪い」
 涼君がとりあえずは折れて、歩き始める。ちゃっかり、母さんの店には行くつもりらしい。
「そうかな。綺麗だよ」
 もう一度、月を仰ぐ。
 よくよく観察すると、コロン、と転がっているようで可愛いとも感じた。
 涼君が嫌がるほどに、この尖った月が、気味悪いとは思えなかった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜

飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。 でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。 しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。 秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。 美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。 秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。

目が覚めたら囲まれてました

るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。 燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。 そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。 チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。 不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で! 独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。

仕事ができる子は騎乗位も上手い

冲令子
BL
うっかりマッチングしてしまった会社の先輩後輩が、付き合うまでの話です。 後輩×先輩。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

後輩が二人がかりで、俺をどんどん責めてくるー快楽地獄だー

天知 カナイ
BL
イケメン後輩二人があやしく先輩に迫って、おいしくいただいちゃう話です。

お客様と商品

あかまロケ
BL
馬鹿で、不細工で、性格最悪…なオレが、衣食住提供と引き換えに体を売る相手は高校時代一度も面識の無かったエリートモテモテイケメン御曹司で。オレは商品で、相手はお客様。そう思って毎日せっせとお客様に尽くす涙ぐましい努力のオレの物語。(*ムーンライトノベルズ・pixivにも投稿してます。)

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

処理中です...