さよなら神様、また会おう

佐伯逢涼

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出会い編 後編

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 俺に将棋を教えてくれたのは、祖父だった。祖父は容赦がなく、社交辞令的に負けてくれるなんて一切、なかった。でも、俺が粘れそうな手に誘導したりと、一方的に負かせて誇るわけではなく、敗者側も楽しめる将棋を指してくれた。
 勝っても負けても楽しいばかりだった将棋が、今は苦痛でしかない。
「「お願いします」」
 駒並べを終え、二人で同時に頭を下げる。
 波打ち際で、びしょ濡れの恰好のまま正座をしていると、いつもよりも身体が重く感じられた。
 先手は少年、後手は俺となった。俺のほうの駒を少なくしてハンデを与えようかと申し出たが、少年は軽い調子で拒否をした。
 淡々と、序盤の駒が進んでいく。
 奨励会の威厳を保つためにも、力強く、盤面に駒を打ち付けた。
 少年は動じもせず、無頓着に駒を進める。
 駒を盤面に打ち付ける少年の手つきは、何年も将棋に携わった人間と変わらない。まったくの素人ではないと判断ができたため、ひとまずは安心をした。
 パチン、パチン、と盤上の対話が波の音に紛れて爆ぜた。
「……?」
 人差し指と中指で歩を挟んだが、指の動きを止めた。
 将棋には、定跡というものがある。お決まりの順番で駒を動かしていくのだが、先人たちが深く考えて研究していた結果だから、誰もが当たり前のように使うし、むしろ、下手な動作をすれば一瞬で勝負が終わってしまう。
 少年の手は、知識にあるどの手とも違っていた。
 正確にいえば、酷く、古い手だ。渋いといえば聞こえはいいが、研究があまり進んでいないし、展開も見込めない。プロでは採用されないだろうと予測される手を、少年は当然のように指した。
 偶然なのか、わざとなのか、判別ができない。
 少年が身じろぎをしたため視線を寄越した瞬間に、異変を感じ取った。
「すみません」
 波の音に掻き消されそうな小さな声で、少年は詫びた。
 盤面を冷静に見下ろす少年の顔には、赤黒い痣が浮かんでいる。和紙にコーヒーが徐々に染みこんでいくように、痣は少年の白い肌をじわじわと侵食する。右目の周り、右頬、左側の口端と、痣は濃さを増しながら面積を増やす。
「その痣「将棋をしていると、広がるんだよね。だから、人前では、指さない。見ていて、心地よい物ではないから」
 早口に喋った少年は、甲高い音を立て、駒を盤面に打ち付けた。
 意味不明な手に見えた後で、その先の展開を理解した俺は喉を「うっ」と唸らせた。
 少年は、何も喋らない。
 ただひたすらに、冷静な目で盤面を見下ろし、薄い唇を親指で押して思考を巡らせている。
 残酷なまでに、美しい光景だった。
 白い肌に滲んだ赤黒い痣が鬱々とし、痛みを超越したような眼は盤面を冷静に冷酷に冷徹に捉え、細い指から迸る将棋は容赦がなく鋭い。
 海水に濡れた少年の黒髪は、艶を帯びている。俺よりも年下だろうに、童顔の少年からは確かな色気が漂い、あまりの美しさに生唾を呑む。
―――いやいや、今は、勝負だ。
 少年だって、痣を気にされて勝負がおざなりになるなんて、望んでいないはずだ。
 俺は、意識を完全に盤面へと向ける。
 奇想天外な手を、俺なりに噛み砕いて解釈をした。方針の良し悪しは検証しなければならないが、守りを捨て、思い切って攻めに転換した。
 少年は読んでいましたよ、とばかりに次の手を繰り広げる。
 またしても、難解な手だ。深くて遠くて果てしない。
 こんな場所にも、将棋の海が広がっている。
 頭の中では駒があらゆる角度から動き回り、三手、五手先を、枝葉を広げて展開する。
 こちらがより一層厳しい手を打てば、少年も鋭く切り込んでくる。
 じゃあ、こうすれば、とプロでも採用される手を打っても、少年は動じない。的確に対応をしてくるから、俺のほうも終始、忙しい。
―――まるで、祖父ちゃんみたいだな。
 弱い俺をとことん負かしてきた、祖父を彷彿とさせる。
 だからかもしれないが、久しぶりに、将棋が楽しかった。奨励会みたいな人生が掛かっていない分、俺は確かに将棋を楽しんでいる。
 しかし、徐々に劣勢の色が見え始め、悔しさに唇を噛みしめた。
 駒落ちのハンデなんて、とんでもない話だった。
 段位すら持っていないと語る少年が、前髪を手のひらで押し上げる。海水を含んだ髪がオールバックのように流れ、額の痣も露わになった。
 軽い音を立て、少年の駒が盤上で輝いたように見える。
 飛車が少年の指によって翻り、龍へ化けた。
「あ……」思わず、声が漏れる。
 清々しいまでの、決め手だった。
 少年の勝利を告げる龍の咆哮が、聞こえてくるようだ。
 肺に思い切り息を溜め込み、胡坐を掻いた姿勢で頭をじっくりと下げる。
「負けました」
 ふぅ、と息を吐きながらも、ハッキリと負けの宣言を紡げた。
「じゃあ、君の命は預かるよ。もう、死ぬなんてしないで」
 少年は人差し指を俺の額に置き、にんまりと笑う。盤面前の色香が静まり、幼さが残る年相応の笑顔に戻る。
「わかった、約束する。それにしても、段位がないなんて、嘘だろ?」
 敬語を捨てて、尋ねた。少年は指を引っ込めながら、首をゆっくりと横に振る。
「無いよ。さっきも言ったけど、知り合いと、対局をしているぐらい。知り合いが、強すぎる人たちだから、環境は恵まれているかな」
「君だったら、大会でも優勝できるよ。アマチュアの大会に、出たらいい。好成績を残したら、プロとの対局もできる」
「将棋の強さは、自信あるけどさ。目の前で痣が浮かんだら、気持ち悪いでしょ。変に騒がれたく、ないんだよ」
 あっけらかんとしたもので、少年は腕を大きく伸ばして背筋を整える。
「俺は、痣は気にならなかった。むしろ、綺麗だと思ったよ」
 社交辞令を練る前に、自分の口は勝手に気持ちを迸っていた。
 自分でも驚いたのだけれど、発してしまえば、確かに美しい光景だった。暗さを伴う美しさは、煌びやかな物よりも脳裏にくっきりと刻まれる。
 お互いにプロになって、和服で勝負に臨めたら、といった妄想まで広がった。
 ただの妄想に、恍惚とした喜びが湧く。
 おそらく、俺はこの妄想に、生涯、憑りつかれるのだと思う。
「変態だねぇ。でも、だいたいの人は、気持ち悪いはずだよ」
 ふはっ、と呆れたような嬉しいような笑いを、少年は漏らす。
 少年の顔からは、痣が徐々に薄れていく。
 痣なんてなかったのかと首を傾げたくなるぐらいに、瞬きをしている間に、跡形もなく、痣は消え失せた。
「将棋を指す時だけ、現れるの?」
「うん。だから、人前で将棋は無理だね。実際、気持ち悪いとか、言われた経験もあるし」
 言った奴を許せないぐらいには、俺は少年の将棋に魅力を感じている。
 男は拳で語り合う――ではないが、将棋で一度殴り合ったからこそ、俺の心は少年に鷲掴みにされる。
「プロには、なるつもりはない? 編入試験を受けて、プロ棋士になれば、痣は代名詞になる」
 プロ棋士になるための道は、奨励会だけではない。かなり厳しい条件にはなるが、少年にも棋士になるチャンスは僅かだが存在する。
「代名詞になる前に、叩かれまくりそうだからなぁ」
 俺の必死の説得も意に介さず、少年は頬を掻いて、唇を尖らせた。
「一緒に、タイトル戦に、出たいんだけど」
 妄想を願望に変えて、懇願をする。
 噴き出すかとも思ったが、少年は大人びた微笑みを浮かべた。
「縁があれば、かな。自殺未遂のお兄さん、お名前はなぁに?」
「斉木天多(さいき あまた)。君は?」
 幼くも美しい顔をした少年は、大人びた微笑みに挑発の色を混ぜた。
 盤面に向かっているような緊張感と、美しさに対する尊敬と、自分でも戸惑うほどの陶酔を覚える。
「名乗る必要もないよ、君にとっては、僕は一般人だもん」
 自分が名前を聞いたくせに、名前は教えるつもりはないらしい。じっと見つめはしたが、結局、少年は名前の片鱗すら覗かせる気配はなかった。
「強いのに、勿体ないよ。棋士にならない、理由は? 親の同意がない? それとも、他に夢があるから?」
「賭けていることがあるから。賭けに勝ったら、棋士になるかもね。名前は、その時に、わかると思うよ」
「賭けって、どんな?」
 食いついて問いかけたのに、少年は、賭けの内容も、教えてくれなかった。
 波が、迫ってきている。もうすぐで、満潮を迎えそうだ。
「じゃあ、縁があれば、また会おうね、天多君。次に会う時は、棋士でありますように。自殺なんて、君には似合わないよ。もう、しないようにね」
 少年はずぶ濡れた背中を向け、スキップをするような軽い足取りで遠のいていく。
 自殺が似合うとか似合わないとか、この世にあるのだろうか。
 少年なりの言い回しなのだろうと解釈して、突っ込みはしなかった。
「絶対に、会おう! 将棋界で! プロ棋士になって!」
 俺よりも数歳だけ年下であろう子の背中に、叫んだ。少年は振り返ることも、手を振ることもせず、ただ、軽やかに足を動かして遠のいていった。
 砂浜に、将棋の強さに見合わない小さな足跡だけが、残った。


【少年 side】
「斉木天多君、ね。なーんだ、あと一歩じゃん。あの強さだったら、棋士になる日も近いだろうなぁ」
 携帯の画面で、三段リーグの結果表を確認する。
 半年ごとに行われる三段リーグで、上位二名がプロ棋士になることができる。
 天多君はプロ棋士にはなれなかったが、あと一歩まで届いている。その一歩が果てしなく遠いのだとは知識として持っているけれど、実際に対局をして強さは理解できた。
 あの強さだったら、プロ棋士の日も近そうだ。
「父さんと母さん以外で、勝負できたのは久しぶりだなぁ。めっちゃ、楽しかった」
 気まぐれに散歩をしていたら自殺未遂の高校生を発見して、気まぐれに助けたらプロ棋士の卵だった。
 自分がプロ棋士になる可能性は極端に低いはずだけれど、将棋への縁は深いと感じてしまう。
 ずぶ濡れの身体を引き連れて、玄関の扉を開く。「ただいま」と控えめに声を発したが、父さんも母さんも不在だから、無言の廊下が出迎えた。
「お風呂ぉ、お風呂ぉ~にぃ~、入るのじゃ~」
 適当な音程を付けて、鼻歌にする。
 薄暗い廊下を、ひょこひょこと渡り、風呂場を目指していた。
「お帰り。どこに行ってたの?」
「わっ! 涼君、こんな時間に、何で来たの?」
 知り合いの涼君が、薄暗い廊下に仁王立ちしていた。
 誰もいないと思って、完全に油断をしていた。驚きでずっこけそうになったが、踏ん張って涼君と対峙する。
「濡れてるじゃん。どこに行って、何をしていたの?」
 頭をゆったりと撫でられ、背中がぞわぞわする。
 女の子が涼君に撫でられたら、物凄く喜ぶんだろうな、なんて考えながら手を払いのけた。
「涼君には関係ないよ。風呂に入るから、どいて」
 欠伸をしながら素通りをしようとしたのに、今度は腕を掴まれた。痛みを感じるぐらいに強めに掴まれたから、睨みつける。
「洗ってやるよ」
「自分で、出来るし」
 涼君が、僕の首筋に舌を這わせる。塩水を含んだ首を舐めて、何が楽しいのか意味が分からない。
 生暖かい舌の感触に、身体が憎いほどに反応する。
「風呂が終わったら、部屋に行こう。そのために、来たんだよ」
 思わず、大きく噴いてしまった。
「ははは、変態。やだよ。朝からなんて、したくな――」
 拒否をする言葉は、唇を塞がれて叶わなかった。後頭部を固定され、噛みつく口付けを繰り返される。涼君の熱が唇を通して伝わり、うっかりと口を開けば舌が入り込んだ。
 熱くて柔らかい舌で、口内を舐め上げられる。
 涼君の身体が密着したから、ズボンにそっと触れた。
 何度も僕の身体を貪った膨らみが、ズボンの中で存在を誇示している。
「ね、達樹」
 神経に直接触れるような甘えた声に、海水で冷え切っていたはずの僕の身体まで、反応を始める。
「はぁ。しょうがないな。あんまり、酷くしないで」
 やっとの思いで口を開くと、性欲に濡れた涼君が嬉しそうに眼を歪めていた。
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