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第二章 小さなさざなみ

48.溢れる

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 初音は、何かを感じる自身に気づいていた。

「あなたも……転生者……?」

 そっと檻越しに話しかけた初音の声に、ぴくりとその痩せほそった青年の身体が揺れる。

 黒く窪んだ眼下のその奥に覗く、深淵のような光を宿さない黒い瞳に力なく見つめられた初音は、言い知れない感覚に背筋を這われて冷水を浴びさせられたかのような衝撃を受けた。

「あなた…………?」

 水分も栄養も足りずに乾いて割れ切ったカサカサの唇から、蚊のなくようなか細い声で発された言葉に返そうとしたその直後、叫び声と共にけたたましい音が響き渡る。

 ハッとして顔を上げる初音とギドの視線の先。檻の中で、獣人にのしかかられるように地面に縫い留められるアスラの姿に、初音とギドが顔色を変えて反射的に走り出した。

「アスラさん!!?」

 明らかに焦りを帯びた初音の声を聞きながら、のしかかられて絞められた首に気道を圧迫され、口をぱくぱくとさせるアスラが歪む視界でその憎悪に歪む獣人の顔を仰ぎ見る。

「お前! お前だ!! 魔法使い!! お前の臭いを忘れるものか!!!!」

「やめてください!! この人はあなたを助けようとしたんですよ!?」

 荒い息で噛み殺さんばかりの形相でアスラにのしかかるイタチ系統の年配の男の獣人。

 片手と片足である身体によって、バランスが取れずにうまく力が込められないのか、多少の猶予はあっても悠長にできる時間は全くなさそうだった。

 飛びつく初音は、邪魔だと言わんばかりに振り抜かれた腕に跳ね飛ばされて後ろに飛んで地面へと落ちる。

「やめて!!」

 尚も残された左腕に必死でしがみつく初音に気が逸れているイタチの獣人を、下から見上げたアスラは、ぼんやりとその顔を見た。

 正直に言って、アスラを知ると言うそのイタチの獣人を、アスラは思い出せそうにない。

 なかったけれど、思い当たる節が多過ぎて弁解する気にもならなかった。

「……申し訳……なかっ……っ!」

 人間の成人男性とは比較にならない力の中で、かはっと息が漏れて霞む視界。

 なんとかそれだけを溢した次の瞬間、イタチの獣人の身体がビクリと震えて硬直し、アスラの首にかかっていた力が消える。

 げえっほ!! と荒く立て続けに咳をしてその身体の下から抜け出したアスラは、目前で硬直する獣人が捕縛魔法にかかっていることに気づき、涙の滲んだ瞳でゆっくりと振り返る。

「悪いな、お前みたいに早くなくて……っ!!」

 珍しく焦りを色濃く帯びた顔で魔法を発動させているギドの姿に、初音とアスラは目を丸くする。

「え……ギド……さん……っ!?」

「…………本当……っ……私の周りは……規格外が、多すぎる……っ!」

 ハッと息を吐き出して、泣き笑うように顔を歪めて俯くアスラのその背中に、初音はかける言葉を見失いながらそっと触れる。

 そんな様子を、痩せ細った黒髪黒目の青年は一切と微動だにもせず、ただ黙って横目で見つめていたーー。





「無事か!?」

「ジークっ!」

 掛けられた声に反応して初音が振り向くより早く、慣れた感触の腕に包まれる。

 ぎゅうと抱きしめられて、初音は詰めていた息をそっと吐き出すとその体温に身を任せた。

「ジーク、大丈夫!? ケガはっ!? お腹と頭は……っ!?」

 初音はその引き締まった身体を見える範囲でペタペタと確認し、頬に触れて金の瞳を見上げる。

「……それは俺のセリフだ……っ」

「……っ!?」

 眉間にしわを寄せて、はぁと息を吐いたジークに抱きすくめられる。

 羽織ったローブの下で盛大に露出している背中をそっと撫でられたことに、初音は目を見開いてピクリと身体を震わした。

「ジーク……っ!?」

「……キズを負わせなくて、……良かった……っ」

 ぎゅうと痛いくらいに抱きしめられて、初音は自身の胸にじんわりと広がる感情に唇を結んだ。

「……捕まっちゃって、ごめんね……。いつも心配してくれて、ありがとう。……いつも、いつも、助けに来てくれて、ありがとう」

 初音に合わせて少し前屈みになっている、その間近にある綺麗な顔を両手で包む。

「……でも、怖かったけど、ジークがいるってわかってたから、私は怖くなかったよ……」

 おでこを合わせて、すり合わせた鼻先に、目を閉じた初音は少しかさついたその唇にそっと自身の唇を重ねた。

 思えばは大抵ジークからで、勢いに任せて行動してしまってから少し気恥ずかしくなって、初音は熱くなる顔を自覚しながらぎこちなく視線を揺らす。

 そんな初音に金の瞳を一瞬だけ揺らしたジークは、初音の頭と腰に腕を回すと、控えめに触れられたばかりの唇に自身の唇を押し付けた。

「んぅ……っ」

 はっと息を吐き出す初音の口内に、滑り込んだジークの舌先に撫でられて、ピクリと反応を返す。

 今までも幾度となく、半ばなし崩しのようにいつの間にか重ねていた唇から、まるで全身の細胞すべてが求め合うかのように騒ぎ立てていく。

 そのぞわぞわとした感覚が全身を走り回るのが止まらず、漏れる音と息遣いにその感覚は更に煽られる。

ーー……っ、食べられそう……っ

 いつの間にか壁に押し付けられて、両手はいつの間にか絡み取られて、息継ぎもままならないままぼっとしてくる頭に対して、身体だけは鋭敏だった。

ーー何……これ……っ、頭……が……っ

「ジー……っ」

 やっとのことで合間に発した言葉は、その名前すらも紡ぐ暇を与えない。

ーー……も、……変に……なのに、……きもち……い……っ

 どくどくとした心臓の音が止まらない。ほてって下がらない身体は汗ばんで、その視界は滲んで見えず、ぎゅうと縋るように初音は絡め取られた大きな指先を握りしめる。

「…………ジーク……っ、……はっ…………っ……す……っ、き……っ」

 滲んだ視界でその金の瞳を見上げると、うわ言のように小さく漏れる心の声と共に、2人は尚も離れないままにずるずると壁に沿って座り込む。

 届いたのか届かなかったのかわからないその声は、大きな両手に両頬を包まれてその身体に覆い被さられるように、更に深く重なりあった唇に途切れて消えたーー。
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