隣人は今日も気づかれない

木風 麦

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おかれた距離、近づく心

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 病室特有のアルコールの香りがしたとき、ぼんやり「ああ、戻ってこれたんだ」と思った。

 事件を受け家庭の事情がオープンになったことから、私は里親の元で育てられることになった。里親は私の今住む場所から駅五つ分しか離れていないから、会おうと思えば家族と会える距離だ。

 けど、私はもう戻らない。大人になって十年くらい月日が経ったら顔を見せにいくかもしれないが。

 だってもう、そこに私は居ちゃいけない。大切な人たちを傷つけるだけの存在になりたくない。傷つけられる存在でありたくない。

「ひーちゃん」

 丁度荷造りを終えたタイミングで、ハルナちゃんが遠慮がちに声をかけてきた。退院以来、ハルナちゃんはずっと暗い顔をしていた。出ていく私に罪悪感を抱いているらしかった。
「あの……私のこと、ずっと憎いかもしれない。けど、………………私は、それでも『お姉ちゃん』をやめないからね」
 指を握りこみながら、ハルナちゃんは言った。
 そういう、優しさを見せつけられる度に惨めになった。私じゃこんなに他の人間を大事になんでできないと思ってしまうから。だから心の奥底にどす黒い重い思いが溜まっていった。

 けど、それと同等くらいに好きだった。妬ましくて嫌な奴に成り下がっていく私がいたとしても、姉のことは好きだった。

「うん」

 口を開けば余計な言葉を吐いてしまいそうで、私は短くうなずいた。
 ハルナちゃんも「うん」とうなずき返し、すこし開いていた扉を閉めた。
 息を短く吐いてすぐ、コンコンと戸が叩かれた。ハルナちゃんかな、と上体をよじると、
「ヒツギ」と低い声が向こう側から聞こえてきた。
 一瞬体が強ばった。
「どうぞ」と平静を装った声で応える。
 遠慮がちに開かれた扉から、義父がそっと顔を覗かせた。
「……もう、荷造りを済ませたのか」
 ハルナちゃんと使っていた二段ベッドの下段が木の板をさらけ出しているのを見ながら義父は言った。
「うん ……えっと」
 要件は、と顔に出す。義父は無言で古びたコピー紙を一枚取り出した。
「要らなかったら、棄ててくれていい。だが……俺の我儘ではあるんだが、聞いて欲しい」
 手渡された用紙に視線を落とす。紙には「灯継」とあった。
「漢字では、お前の名前はこう書くんだ。棺桶なんかじゃない。『意思や思い、命の灯火を継いでいく子』であるようにと……私が、名付けた」
 初めて知る事実に言葉を失う。
 結局、小学校のあの課題が出た授業は休んだ。ペーパーだって提出しなかった。それを、もしかして見られたのだろうか。一度言葉にして、涙を落としてしまったあの紙を。
 黙り込む私に、義父は静かな声で続きを語る。
「母さんは……ヒツギに対し、だいぶ酷い扱いをしていた。それを見て見ぬふりをした私も同罪だ。今さら謝ったところでなににもならないだろうが、……すまなかった」
 深く頭を垂れる義父に、「べつに」と声が出る。
「謝られることなんてないよ。だって私は……生まれてきちゃいけない存在だったから。お母さんが大事だったら、さっさと家を出ていなければいけなかったのに」
 私の言葉に「そんなことはない」と言った義父はハッとしたように目を見開く。
「……まさか」
 知っていたのか、と義父の唇が戦慄く。

 お母さんはずっと私を見ないふりしてた。幼かった私はどうにかして見てほしくて、お母さんの足にしがみついたことがあった。
 そのとき、思い切り頬を叩かれた。
 3歳くらいの時期だったから、当時は何が起きたのか理解ができなかった。ただ痛くて、怖くて、泣きじゃくった。
 泣き喚く私に、母は震える声で言ったのだ。

「触んないで!背後から襲ってくるなんて、本当にあの男そっくりね……!!」

 怒りと恐怖のせいか、母の目にうっすら涙の膜が張られていたのを今でも時々夢に見る。
 その言葉の指す意味は、──……。

 うっすら笑みが浮かぶ。嘲笑と、諦めの。
「私、父さんの本当の子じゃないんでしょ」
 母がひどく憎んだ男が、私の父なのだろう。

 襲われた証が、私なのだ。

 義父は項垂れた。力の抜けた首とは反対に、膝の上の拳は小刻みに震えている。
「……たしかに、血の繋がりはない。お前の言う通りだ」
 初めて口に出して肯定されてしまった。今まで黙っていた秘密を打ち明けたことで、歪な家族が遂に完成してしまった。

「だけどな」

 義父は一拍置いて、息を吐く。

「育ての親は、俺だったんだ。だから俺は、お前の父親として、お前のことを守らなければならなかったんだよ」

 真っ直ぐ見つめられ、息が詰まった。
 血の繋がりがないと気づいてしまってからずっと「義父」だった。義父は私のことを疎んでいて、母同様に私のことが憎いと思っているはずだと信じて疑わなかった。

 だから、父親なんて私には居ないはずだったのに。

 胃のもっと奥の方から込み上げるなにかに、体が一気に熱をもつ。

「今度、ハルナと──誘えたら、母さんも誘って……家族四人で、食事にでもいこう」

 義父の──父の言葉も声も優しくて、私はそのつもりなど微塵もなかったのに泣いてしまった。


 ***


「……で、涙が止まらないままうちに来たんすか」
 呆れ顔になりながらもアケボシはティッシの箱を渡してくれる。
 アケボシの部屋で二人、ローテーブルを挟むようにして座っていた。引越し前に話したかったというのと、今までありがとうということで手土産を持参した。その手土産は今私とアケボシに食われてる、ちょっと良いカステラだ。
 カステラを一口大に切って口に含み、ほとんどなくなってから口を開く。
「だって今日しか会う機会ないし」
 仕方ないでしょ、と鼻をかむ。
「今生の別れじゃないんだから」
「学校変わるもの。駅も使う電車も違うし……滅多に会わなくなるよ」
 いつも追いかけてくる生意気で笑顔の可愛い後輩が居ないのは、やはり寂しい。
「べつに予定組めばいいだけでしょ」
 しんみりした空気を察したのか、アケボシは事も無げに言う。
「そうは言うけど、アケボシだって恋人できるかもだし」
 そしたら私と遊びに行くのはだめでしょ、と説得のつもりで、本当に他意はなかった発言にアケボシが食いついた。
「……っいい加減鈍い!」
「にぶ……っ鈍感であろうとしてただけです!そこまで鈍くない!」
 売り言葉を買うと、アケボシは「ほー」と目を細め席を立ち──私のすぐ横に座った。
 そこまで広い部屋ではないため、互いの膝がちょんと当たる。
「なによ」
 突然詰められた距離に驚き、心拍数が上昇していく。アケボシは私の様子を観察するように視線を寄越し、
「ちっさい頃から追っかけてきた理由は、ずっと前から変わってねぇです。あんたが隼太先輩を見ていたように、俺だってあんたを見てたってだけです」
「私が、隼にぃを見てたように……」

 そうだ、と記憶が蘇る。
 幽体のときの終盤の記憶。ハルナちゃんを見る隼にぃみたいだと思ったんだ。

「………………えっ」

 思わず声が漏れる。頬が、耳がじわりと熱を帯びる。それを見たアケボシは満足気に、
「やっとですか。ほんと長かった」と微笑んだ。

 私の生きてきた17年は、平坦とも幸せだったとも言えないかもしれない。不幸なトンネルがずっと続いていたのかもしれない。
 けど、この先はもしかしたら、色鮮やかな景色が広がっているのかもしれない。
 かすかな予感が、胸に甘く広がっていった。


 fin.
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