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九章
自己満足
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璃久は時間の流れが止まったように感じた。
言葉が喉につっかえたように出てこない。
「もう……決めた、のか?」
呆然とする璃久に向かって、広翔は穏やかな笑みを浮かべていた。
「雅也さんが仕事の都合でイタリアに行くことになったんだ。結芽さんもついて行くって。俺は好きなようにしたらいいと言われたけど、行ってみたい。璃久、俺が居なくても泣くなよ」
軽い調子で言葉を連ねる広翔に、璃久は「ちょ、ちょっと待て」と慌てて静止をかける。
「本当に行きたいのか?」
「ああ。前々から留学自体に興味はあったから……止める?」
広翔はカタン、と机を微かに揺らしてその上に腰掛けた。
璃久は盛大に溜息を吐いて頭をわしゃわしゃと掻きむしった。
「止めても、無駄なんだろ」
ぶすっと言い返す璃久に、広翔は笑顔を返した。
「先輩には?」
「これから言うよ」
トン、と地に足をつけてゆっくりと教室を出て行った。
しんと静まり返った教室に、窓の外から聞こえる低い雷鳴が微かに響いた。
***
保健室では相変わらず澄香が参考書やら過去問やらを読んでいた。
「先輩」
声をかけると、澄香は広翔に向けて笑いかけた。
「昨日は、すみませんでした」
広翔が頭を下げると、澄香は目を見開き慌てて手を振る。
「謝らないで」
困ったような顔になる澄香に罪悪感を覚えながらも、「あと」と切り出す。
「俺、留学しようと思ってます」
澄香は言葉を失ったようだった。
手を止めて広翔を食い入るように見つめる。
「それは……いつ?」
「先輩が大学入るのと同じくらいの時期です」
「いつまで行くの?」
「雅也さ……叔父の仕事が終わるまでだから、ちょうど二年か、三年か」
「いつから決めてたの?」
「話が持ち上がったのは昨日です」
淡々と質問し、それに答えていく。
ゴロゴロ、と唸るような低い雷鳴の音が大きくなり始めている。
「昨日、あんなこと言ってたのに?」
そう言った澄香は、悲しそうな、裏切られたような、嘲笑のような、けれど全て当てはまらないような、複雑な表情をしていた。
「だからこそ、行こうと思った。このままだと俺は先輩のことを深く傷つけそうだったから。少し、何て言うんだろ。冷静になって考えたかった、のかな。先輩は、止める?俺のこと」
真剣な眼差しだった。
もちろん冗談でそんなことを言う人間ではないとわかってはいたが。
──本当に行く気なんだ。
まざまざと実感が湧いてくる。
「止めないよ」
澄香の口から滑り出ていた。
「広翔君が、決めることだし……──私に止める権利なんて、無い」
小さく呟き、「行ってらっしゃい」と笑った。
広翔は思わず言葉を失った。
笑ったその顔は、今までに見たこともないほどに歪んで見えた。
「先輩」
「あ、お迎えもう来るって。またね、広翔君。雨降りそうだから早く帰った方がいいんじゃない?」
何か言おうとした言葉を遮って澄香は笑顔を向ける。
「危ないから、ね?」
早く帰れ、と言っていた。
澄香の強い拒絶に為す術もなく広翔は保健室から出て行った。
どこかでやはり、甘えていたんだ。
広翔は廊下を歩きながら思った。
先輩なら理解してくれる。何があっても大丈夫。
何があっても大丈夫なんて、そんなことあるはずがなかったのに。
──勝手に留学を決めて、勝手に先輩の気持ちまで決めて。
とことん馬鹿だ。
広翔は自分で自分を殴りたくなる。
でも。
たとえ嫌われても、決意を変えたりはしないだろうとどこかで実感していた。
先輩と上手く付き合えるように、なんて言い訳にしかならない。その間彼女を放っておくのと同義なのだから。
彼女に受け入れられなかった、という事実にショックを覚える自分が、広翔は心底嫌に思った。
待っててくれ、なんて言う権利はない。
自分が居ない間に彼女に好きな人ができる可能性はゼロじゃない。
──それでも、行くのか?
璃久が去り際に放った一言が脳裏に響いては消え、また響いては消えていく。
「行くよ」
元々海外に行くことに興味があったのは事実だし、そのチャンスが訪れたのも事実だ。
ただ、友人や彼女たちと離れることに抵抗があるのもまた事実であった。
この機を逃せば、おそらくきっと後悔が残って消えないであろうという予感が彼にはあった。
彼女からすれば、随分と勝手な奴だ。
そしてぎこちない空気を残したまま、時間だけは着々と進んでいった。
言葉が喉につっかえたように出てこない。
「もう……決めた、のか?」
呆然とする璃久に向かって、広翔は穏やかな笑みを浮かべていた。
「雅也さんが仕事の都合でイタリアに行くことになったんだ。結芽さんもついて行くって。俺は好きなようにしたらいいと言われたけど、行ってみたい。璃久、俺が居なくても泣くなよ」
軽い調子で言葉を連ねる広翔に、璃久は「ちょ、ちょっと待て」と慌てて静止をかける。
「本当に行きたいのか?」
「ああ。前々から留学自体に興味はあったから……止める?」
広翔はカタン、と机を微かに揺らしてその上に腰掛けた。
璃久は盛大に溜息を吐いて頭をわしゃわしゃと掻きむしった。
「止めても、無駄なんだろ」
ぶすっと言い返す璃久に、広翔は笑顔を返した。
「先輩には?」
「これから言うよ」
トン、と地に足をつけてゆっくりと教室を出て行った。
しんと静まり返った教室に、窓の外から聞こえる低い雷鳴が微かに響いた。
***
保健室では相変わらず澄香が参考書やら過去問やらを読んでいた。
「先輩」
声をかけると、澄香は広翔に向けて笑いかけた。
「昨日は、すみませんでした」
広翔が頭を下げると、澄香は目を見開き慌てて手を振る。
「謝らないで」
困ったような顔になる澄香に罪悪感を覚えながらも、「あと」と切り出す。
「俺、留学しようと思ってます」
澄香は言葉を失ったようだった。
手を止めて広翔を食い入るように見つめる。
「それは……いつ?」
「先輩が大学入るのと同じくらいの時期です」
「いつまで行くの?」
「雅也さ……叔父の仕事が終わるまでだから、ちょうど二年か、三年か」
「いつから決めてたの?」
「話が持ち上がったのは昨日です」
淡々と質問し、それに答えていく。
ゴロゴロ、と唸るような低い雷鳴の音が大きくなり始めている。
「昨日、あんなこと言ってたのに?」
そう言った澄香は、悲しそうな、裏切られたような、嘲笑のような、けれど全て当てはまらないような、複雑な表情をしていた。
「だからこそ、行こうと思った。このままだと俺は先輩のことを深く傷つけそうだったから。少し、何て言うんだろ。冷静になって考えたかった、のかな。先輩は、止める?俺のこと」
真剣な眼差しだった。
もちろん冗談でそんなことを言う人間ではないとわかってはいたが。
──本当に行く気なんだ。
まざまざと実感が湧いてくる。
「止めないよ」
澄香の口から滑り出ていた。
「広翔君が、決めることだし……──私に止める権利なんて、無い」
小さく呟き、「行ってらっしゃい」と笑った。
広翔は思わず言葉を失った。
笑ったその顔は、今までに見たこともないほどに歪んで見えた。
「先輩」
「あ、お迎えもう来るって。またね、広翔君。雨降りそうだから早く帰った方がいいんじゃない?」
何か言おうとした言葉を遮って澄香は笑顔を向ける。
「危ないから、ね?」
早く帰れ、と言っていた。
澄香の強い拒絶に為す術もなく広翔は保健室から出て行った。
どこかでやはり、甘えていたんだ。
広翔は廊下を歩きながら思った。
先輩なら理解してくれる。何があっても大丈夫。
何があっても大丈夫なんて、そんなことあるはずがなかったのに。
──勝手に留学を決めて、勝手に先輩の気持ちまで決めて。
とことん馬鹿だ。
広翔は自分で自分を殴りたくなる。
でも。
たとえ嫌われても、決意を変えたりはしないだろうとどこかで実感していた。
先輩と上手く付き合えるように、なんて言い訳にしかならない。その間彼女を放っておくのと同義なのだから。
彼女に受け入れられなかった、という事実にショックを覚える自分が、広翔は心底嫌に思った。
待っててくれ、なんて言う権利はない。
自分が居ない間に彼女に好きな人ができる可能性はゼロじゃない。
──それでも、行くのか?
璃久が去り際に放った一言が脳裏に響いては消え、また響いては消えていく。
「行くよ」
元々海外に行くことに興味があったのは事実だし、そのチャンスが訪れたのも事実だ。
ただ、友人や彼女たちと離れることに抵抗があるのもまた事実であった。
この機を逃せば、おそらくきっと後悔が残って消えないであろうという予感が彼にはあった。
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