クルーエル・ワールドの軌跡

木風 麦

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九章

凍てつく季節

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 翌日、広翔と璃久はクラスで注目を浴びることになった。
 理由は当然澄香のことがテレビで報道されたからだ。
 虐待というワードは今流行りと言うのもおかしなことだが、マスコミの格好の餌となるネタだ。
「え、本当に監禁されてたの?」
 胡桃が心配そうに小声で尋ねてくる。
 璃久と広翔は苦笑いで頷く。
 もう何回目だろうか。
 そういえば先輩は大丈夫だろうか、と心配になる。
 まだ一日始まったばかりでこの疲労感、加えて広翔たちは当事者ではあるが一番注目されるのはなんと言っても澄香の方だろう。
 広翔はすぐにでも教室に行って様子を見に行きたかった。
 だが、そうはしなかった。
 余計に注目を浴びるであろうことが容易く想像できたからだ。
「放課後になれば会えるだろ」
 悔しそうに項垂れる広翔に、璃久は励ますように肩を叩いた。
 広翔は「ああ」と頼りない笑みを浮かべたものの、やはり気にかかる。
 せっかく出るようになった声が再び出なくなったら、と思うと気が気でない。
 ソワソワとしている広翔を見て、胡桃は眉をひそめる。
「それじゃ過保護よ。仕方ないじゃないの。確かに辛いだろうけど、かと言ってずっと葛西君が引っついてるの?無理でしょ?それじゃ依存だよ」
 と言った。
 依存。
 カッと頬が熱くなる。
 確かにそうだ、と意識が覚醒する。
 ずっと彼女のことを気にかけていたらそれこそ重い。
「ありがとう、雨水」
 笑顔を向けると、胡桃は一瞬複雑そうな表情をしたが「ん」と言った。
「それに、またあまり会えなくなっちゃうんだから。慣れないとね」
 胡桃は軽く言ったつもりだった。
 だが、広翔の思考を停止させるのに充分な威力を持っていた。
「え、会えないって、何で?」
 広翔の呟きに胡桃は困惑したように「だからー」と言う。
「その先輩って三年生なんでしょ?卒業まであと少しよ」
 広翔は息が止まりそうになった。
「まさか気づいてなかったの?」
 胡桃が覗き込むようにして広翔と視線を合わせる。
 広翔は微妙に目を逸らしながら頷いた。
 誘拐騒動で既に秋も半ばだ。既に気温は下がり始めて冬物はとっくに売られ始めている。
 当たり前に来年も一緒に居られると思っていた。
 花壇に植える花を相談して、辛かった過去を楽にできたら、なんてことを考えていた。
 そうだ。彼女は受験生だった。
 冬を一緒に過ごすことはできるのだろうか。
 そんなことを考えると胸がギシギシと痛くなる。
「おい広翔」
 璃久に声をかけられてはっとする。
「わかってるってー。冗談だよ」
 笑い返すと、胡桃は心配そうな顔をしていたが「そう?」と笑って離れていく。
 そうだ。しっかりしないと。
 拳を握り、心の中で呟いた。
 窓の外は乾いた風が音を立てて吹いていた。


***


 保健室の窓側に寄ると、布団部分に突起がある。澄香が居るのだろう。
 何だかその光景が懐かしく思えた。
「先輩」
 コンコン、と窓ガラスを叩く。
 音に気づいた澄香が窓の近くに寄ってくる。
『なんか、懐かしい』
 そう書かれたボードを見せてきた。
 嬉しそうに笑う澄香を見て、ひとまず根掘り葉掘り聞かれたりはしてなさそうだ、と肩をなでおろす。
「ていうか、俺そっち行ってもいいですよね?」
 ふと気づいた疑問を口にする。
 澄香は目を瞬く。
 人がいないことを確認してボードを立てる。
『そうだね。仕事終わったの?』
 未だ持ったままのじょうろに視線を注ぎながら尋ねてくる。
「もう終わりますよ」
 広翔がニコッとしながら言うと、澄香はじっと広翔を見つめたが、結局何も言わずに頷いた。
 広翔がカーテンに遮られたベッドへと足を運ぶと、サングラスをかけた澄香が過去問を開いていた。
 澄香は広翔を捉えると微笑んだ。
「今日、大丈夫でしたか?」
 広翔は笑みを浮かべながら聞く。
 澄香は少し困ったようにはにかんだ。
『友達に助けてもらったよ』
「友達って、雨水先輩じゃないですよね」
 広翔が苦笑を浮かべると、澄香はそりゃあねと言いたげに大きく頷く。
 ああ、とまた広翔は胸が痛くなる。
 俺はこの人の友達すら知らないんだと。
 当たり前に彼女の世界はあるのに、この人には自分との繋がりしかないような、そんな感覚をどこかで持っていたんだ。そこに優越感を抱いていなかった、なんてことは無かっただろう。
 きっと、彼女が一番に頼れるのは自分だけなんだ、なんて、そうタカを括っていたんだ。
 自分という人間がどれほど愚かで傲慢で情けないのかを目の当たりにした気がした。
 何も、言えなかった。
 言葉が出てこなかった。
 澄香は黙ってしまった広翔を心配そうに眺めている。
「先輩、声出さないんですか?」
 彼女の筆談が当たり前すぎて忘れていた。
 もう声が出るようになったんだった。
「あ……そうだったね。つい、癖で」
 恥ずかしそうに言う澄香を見て、やはり広翔は胸が締め付けられるような気持ちになる。
「先輩は、大学どこに行くの」
 それとなく聞いたつもりだった。
 だが、微かに声が震えた。
「私は福祉学科のある……ええと、ここ。この大学のこの学部に行きたいの」
 そう言いながらパンフレットを見せてきた。
 決まってたんだ。
 そりゃそうか。
 だが、広翔の内に渦巻くモヤモヤは大きくなっていくばかりだ。
「あと二年早く生まれてくればよかった」
 気づけばそんなことを口に出していた。
 澄香は滑り出た言葉に驚いた顔をした。
 広翔は慌てて笑いを作った。
「いや、同学年だったら教室とかでも話せたのになー、とか」
 ハハハ、と乾いた笑い声が出てくるばかりだ。
 澄香は「うん」と言った。
 広翔の笑いが止まる。
「うん。でも、広翔君が早く生まれてたら、私は春海ちゃんに会えてなかったかもしれないし、この学校で会うこともなかったかもしれない。それに、私本来ならもう一つ上の学年だから……広翔君と同じ学校に入れなかったんだよ。でも一年間も一緒に時を過ごせたんだよ。これって、まさに巡り合わせってやつじゃない?」
 まだ話慣れない様子で澄香は語りかけた。
 ふと、広翔は「先輩」と声を漏らした。
「私の目はまだ治ってないけどね、だんだんと光が多くなってきたんだよ。いつも真っ暗な闇の中で暮らしているような、そんな感覚しかなかったのに……君が、初めてこの花壇に来た時にね、不思議なことに一瞬……ほんとに一瞬だったけど、視界が綺麗に開かれたような、でも夢だったような。そんな不思議な心地がした。あなたと会ってから、私の気持ちにも変化が起こり始めた。君が、私の世界を広げてくれた。ありがとうって、ずっと、ずっと言いたかった」
 息が詰まりそうになった。
 日がカーテンの隙間から差し込んできて、澄香の足元を照らす。
「俺、先輩が言うような人間じゃないと思う」
 広翔は目を合わせずに呟いた。
「先輩が笑うととても嬉しくなる。でも、俺の知らないことで笑ってたら複雑な気持ちになる。先輩が、俺の知らないことを話すだけでたまらなく不安になる。先輩の世界の全てが、たまにとても憎く思える。そんなことを思うのはおかしいって、分かってはいるんだけど」
 依存という言葉が広翔の頭に浮かぶ。
 まさにその言葉が適当に当てはまるものだと思った。
 澄香は黙って聞いていた。
 沈黙が二人の間に落ちる。
「じゃあ」
 澄香は小さいがはっきりとした口調で口を開く。
「広翔君がしてほしいこと、挙げてって?」
 え、と広翔は狼狽えた。
 顔を上げて澄香を見た。
 彼女は優しく微笑んでいた。
「──手」
 ややあって、声が漏れでる。
「手、繋ぎたい」
 またも俯く広翔に、
「はい」
 とクスクス笑いながら手を差し伸べた。
 そっと、その手を握る。
 少し冷たい彼女の手は、不思議と広翔に落ち着きを与えた。
「また、二人で出かけたい」
「うん」
「花も育てたい」
「うん」
「……先輩と」
「うん」
「先輩と……ずっと、一瞬に居たいよ」
「──うん」
 澄香は微笑を浮かべたまま優しく手に力を込めた。
「私だって、同じだよ」
 広翔はゆっくりと顔を上げて視線を合わせる。
「同じなんだよ」
 笑っているのに、どこか寂しそうな影が落ちていた。
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