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九章
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警察署では取り調べが行われた。
広翔はわりと直ぐに終わったが、澄香はやけに長かった。
話せないから仕方ない。
いや、またパニックになったのだろうか。だとしたら今すぐにでも飛び込んでいきたい。そんな心地で待っていた。
ようやっと出てきた澄香は疲労困憊しているようだった。
とりあえずは落ち着いているようだ。
「先輩」
広翔が駆け寄ると、澄香はぎこちない笑みを返した。
その反応に少なからずショックを受ける。
「何かあったんですか?」
広翔が聞くと、澄香は口を開きかけてやめた。
スマホを取り出し、文字を打つ。
【話したいことがあります】
そう切り出した澄香の表情は暗く、良い展開は予想できそうもなかった。
広翔は短く「はい」とだけ答えた。
澄香は弱々しい笑みを浮かべて一歩先に歩き出す。
その背をやんわりと抜かし、
「どこに行きます?」
と聞く。
澄香は目を瞬かせ、【前に行ったカフェにしようかと】と言う。
わかりました、と広翔は頷き澄香の手を引く。
澄香は困惑した表情で広翔を見上げた。
「嫌ですか?」
広翔のしゅんと項垂れたような顔に、澄香は首を振ってみせる。
二人は手を繋ぎ、駅へと向かった。
電車を待つ間も、広翔は手を離そうとしなかった。
離したら、二度と触れられなくなる気がしていた。
二人で話したいという澄香の意図を汲み、小泉の「パトカーで送るよ?」という申し出を丁重に断った。その時の後輩警察官の顔は恐怖だった。思い出した広翔の腕に鳥肌が立つ。
プアーンと音を立てて電車が通過し、ゴオウと風が勢いよく二人めがけて吹いた。
ふわっと舞い上がった澄香の髪が揺れ、光を反射する髪が金色を帯びる。
ああ、シャワー借りたんだっけ。
監禁中風呂に入れて貰えなかった澄香は、警察官の計らいでシャワーを貸してもらえたらしい。
嗅ぎなれないシャンプーの爽やかな香りが鼻をくすぐる。
やっぱり、彼女は美しい。
ただ立っているだけのはずなのに思わず目を奪われる。
長いまつ毛が震え、水晶体が広翔を捉える。
見てたのがバレた。
慌てて目を逸らす広翔を見て澄香は可笑しそうに笑った。
やっと来た電車は人がかなり多く、思わず乗るのを拒否したくなる。
「行きますか」
広翔が感情の無い目で促すと、澄香は吹き出した。
「ちょ、なんで笑うんです」
【だって、すごく嫌そうな顔してるんだもん】
ツボに入ったらしく笑い続けている。
広翔は頬を赤らめて「もー、さっさと行きますよ」と誤魔化すように手を引いた。
混雑した車内で、ヒョロリとしている澄香は押し潰されそうだった。
広翔は自分が壁になるように立つ。
「狭いですね」
密着した恥ずかしさから気を逸らしたくて話題を探す。
「あと三駅ですよ。長いですね」
話せない澄香からは、当然声は出てこない。
これじゃ、変な人か無視されてる人だな。
広翔は他の話題を探すも、なかなか「いい天気ですね」くらいの文句しか出てこない。
【今度は、上手く育てられるといいね】
澄香はスマホを差し出しながら微笑した。
「え、ああ、アネモネですか?そうですね。頑張ります」
澄香から話しかけてもらえたということがとてつもなく嬉しかった。
冷えていく心が一瞬にして温まった気がした。
駅に早く着いて欲しいのに、まだ離れたくない。
矛盾した感情を抱きながら、彼らは電車に揺られた。
***
カフェは相変わらず閑散としていた。
マスターがカウンターで一人、カップを丁寧に磨いている。
「こんにちは」
広翔が声をかけると、マスターは細い目をさらに細めて微笑んだ。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
広翔たちは前回と同じ席に着き、メニューを開く。
「前回はチーズケーキだったので、今回はクリームソーダ……え、ない?クリームオレンジ?え、この店変わってる」
メニューを見て思わず声を漏らす。
普通カフェといえばクリームソーダではないのか。なぜクリームソーダがないのにクリームオレンジはあるんだ。ていうかクリームオレンジって俺の想像と合ってるのか?
ぐるぐると悩んで結局クリームオレンジを頼む。
その様子を澄香は少し楽しそうに眺めていた。
しんとした店内には聞き覚えのあるクラシックが流れている。
「あの」
沈黙に耐えかねて広翔は声をかける。
澄香は汗をかいたグラスを手に取って、一口飲む。
じっと、広翔の次の言葉を待っているようだった。
「話したいことって、何でしょうか」
澄香は静かにスマホを取り出す。
だが、書き始めなかった。
眉を寄せて、唇を軽く噛んでいる。
「お待たせ致しました」
マスターがクリームソーダならぬクリームオレンジを運んでくる。やはりジュース部分がオレンジジュースだった。想像通りでほっとする。
アイスの部分を一口頬張る。
冷えたバニラアイスが意外にもオレンジジュースに合う。だが欲を言えば炭酸が欲しい。
【私のこと、もう知ってるんでしょ?】
こと、とスマホをテーブルに置いて見せてきた。
思わずアイスを掬う手が止まる。
「ええと、先輩の旧姓が瑠璃ってことですか?」
広翔が細長いスプーンを紙ナプキンの上に置きながら聞くと、澄香は小さく頷いた。
【お父さんが言っていたことは事実。お父さんの家までわかってたってことは、それももう知ってるよね】
広翔は口を引き結んだ。
【私があなたの家族を殺したも同然なんだよ。もう好きだなんて言えないでしょ?】
澄香は自嘲するような笑みを浮かべている。
広翔は澄香から視線を外し、乾いた喉に水を滑り込ませる。
「あの、その件はもういいんです。当然、先輩の肉親に対しては腹が立ってますけど。でも、先輩は関係ないじゃないですか。なんで、まぁ少しも気にならない、と言えば確かに嘘になるかもしれません。けど」
言葉がなかなか出てこない。
肝心な時ほど語彙力のなさを思い知らされる。
何と言えば伝わるのだろう。
「そんなことを気にするよりも、あなたと一緒に笑ってたいんだ」
決して大きな声ではなかった。
だが、確かにそれは響いた。
澄香はホロホロと涙を流した。
慌ててハンカチで拭う。
「先輩」
ふと、広翔が澄香に声をかけた。
「好きです」
澄香の目から、また涙が溢れた。
「覚えてませんか?以前来た時に約束したんです。もう一度告白するって」
恥ずかしそうにはにかむ広翔に、澄香は小さくかぶりを振った。
忘れてなんかない。
あなたがくれた日々を忘れたりなんかしない。
どれも全て色づいて見えて、とてもとても幸せだった。
あなたが私に生きることの楽しさを教えてくれた。
ありがとう。
ありがとう、ありがとう。
声が出たらどれだけ良かっただろう。
私を否定した影は、今もしこりとなって残っている。
「煩い声だこと。あの女にそっくりね」
やめて。そんな目で見ないで。
声、出さないから。もう出さないから。
お願いお願いお願い。
私を捨てないで。
生きていることを否定しないで。
ダレカワタシヲミツケテ
かつての映像が、さざ波のように襲っては消えていく。
以前ほどの恐怖を感じないのは、彼が目の前にいるから。
こんな私を認めて、励まして、支えてくれたから。
生きていることを肯定してくれたから。
真っ直ぐに、私を見てくれたから。
ねえ、広翔君。
「──大好き」
広翔は思わずスプーンを落とした。
澄香が今までにないほど綺麗な笑みを浮かべたからではない、とは言いきれないが、微笑をうかべた澄香の唇から、木琴が奏でるような優しく可愛らしい声が滑り出たからだ。
澄香自身も目を丸くしている。
マスターがちょうどパンケーキを運んできた。
「良かったですねぇ。どうか末永くお幸せに。これはサービスですので」
優しげに目を細めたマスターは、小さな二人分ほどのホールケーキと取り皿を二つ持ってきていた。
パンケーキと合わせると少し量が多い気もする。
──ケーキって、時間かかるもんじゃないのか?
ふと浮かぶ疑問にマスターを横目で見ると、何食わぬ顔してまた食器を磨いていた。
千里眼でも持っているのだろうかと思ってしまう。
澄香も同じことを思っていたようで、なんとも不思議なものを見る目でマスターを凝視している。
「先輩、声……でましたね」
広翔が言うと、澄香は小さく頷いた。
「あの」
未だ困惑している澄香に、広翔は控えめに声をかける。
「さっきのよく聞こえなかったんで……もう一回言ってもらってもいいですか」
澄香は頬を赤らめた。
少し考える仕草をして、席を立った。
「え!ごめんなさい!気を悪くしたなら謝ります!すみませんでした!」
広翔は慌てて引き止めようとした。
澄香は立ち上がり、テーブルのすぐ脇を通って広翔に近づいた。
「怒りました?」
上目遣いで澄香を見上げると、澄香は顔を近づけて広翔の耳元で囁いた。
「広翔君、ありがとう。大好き」
聞き慣れない声が広翔の鼓膜を潤す。
広翔の耳が真っ赤になった。
「あの、俺も、好きです。大好きです。でも目ぇ合わせて言うのは恥ずかしすぎてちょっと無理です。勘弁してください」
首まで真っ赤にしながら言う広翔に笑いかけ、澄香は頬に軽くキスをした。
「えっ!?」
勢いよく振り向いた広翔に、今度は唇を重ね合わせた。
「…………………………ええぇ」
茹でダコのようになっている広翔を真っ直ぐに見つめる。
「まだ、わだかまりがあるかもしれない。解決できなくて整理できないこともまだまだ私たちの間にはいっぱいあると思う。……でも、ここから、始めていきたい。私は春海ちゃんに沢山助けられた恩を仇で返した。それは紛れもない事実。だけどその時、私ができることは、少なくとも悲観して立ち止まることじゃない。前を向いていくことだって、教えられた。今のこの状況は、春海ちゃんと出会った時と少し似ているわ。あなたたち姉弟が、私を前に送り出してくれたの。だから私は過去をなかったことになんかしないし、受け止めながら生きていく。これからもずっと……──もう二度と、逃げたりしない」
まだ声を出すことに慣れないのだろう。ときどき声が掠れていた。
決意の灯った瞳は、これ以上なく美しく見えた。けれど、
「……逃げても、いいんだ」
広翔はそっと澄香の手を取った。
「逃げてもいい。辛かったら逃げていい。だけどその度、俺が、俺たちが、また背中を押すよ。──助けるよ、何度でも」
そう言って、広翔は穏やかに微笑んだ。
カフェの外では冷たい風が色づいた紅葉を落としていく。
冬はもう、すぐそこに来ていた。
広翔はわりと直ぐに終わったが、澄香はやけに長かった。
話せないから仕方ない。
いや、またパニックになったのだろうか。だとしたら今すぐにでも飛び込んでいきたい。そんな心地で待っていた。
ようやっと出てきた澄香は疲労困憊しているようだった。
とりあえずは落ち着いているようだ。
「先輩」
広翔が駆け寄ると、澄香はぎこちない笑みを返した。
その反応に少なからずショックを受ける。
「何かあったんですか?」
広翔が聞くと、澄香は口を開きかけてやめた。
スマホを取り出し、文字を打つ。
【話したいことがあります】
そう切り出した澄香の表情は暗く、良い展開は予想できそうもなかった。
広翔は短く「はい」とだけ答えた。
澄香は弱々しい笑みを浮かべて一歩先に歩き出す。
その背をやんわりと抜かし、
「どこに行きます?」
と聞く。
澄香は目を瞬かせ、【前に行ったカフェにしようかと】と言う。
わかりました、と広翔は頷き澄香の手を引く。
澄香は困惑した表情で広翔を見上げた。
「嫌ですか?」
広翔のしゅんと項垂れたような顔に、澄香は首を振ってみせる。
二人は手を繋ぎ、駅へと向かった。
電車を待つ間も、広翔は手を離そうとしなかった。
離したら、二度と触れられなくなる気がしていた。
二人で話したいという澄香の意図を汲み、小泉の「パトカーで送るよ?」という申し出を丁重に断った。その時の後輩警察官の顔は恐怖だった。思い出した広翔の腕に鳥肌が立つ。
プアーンと音を立てて電車が通過し、ゴオウと風が勢いよく二人めがけて吹いた。
ふわっと舞い上がった澄香の髪が揺れ、光を反射する髪が金色を帯びる。
ああ、シャワー借りたんだっけ。
監禁中風呂に入れて貰えなかった澄香は、警察官の計らいでシャワーを貸してもらえたらしい。
嗅ぎなれないシャンプーの爽やかな香りが鼻をくすぐる。
やっぱり、彼女は美しい。
ただ立っているだけのはずなのに思わず目を奪われる。
長いまつ毛が震え、水晶体が広翔を捉える。
見てたのがバレた。
慌てて目を逸らす広翔を見て澄香は可笑しそうに笑った。
やっと来た電車は人がかなり多く、思わず乗るのを拒否したくなる。
「行きますか」
広翔が感情の無い目で促すと、澄香は吹き出した。
「ちょ、なんで笑うんです」
【だって、すごく嫌そうな顔してるんだもん】
ツボに入ったらしく笑い続けている。
広翔は頬を赤らめて「もー、さっさと行きますよ」と誤魔化すように手を引いた。
混雑した車内で、ヒョロリとしている澄香は押し潰されそうだった。
広翔は自分が壁になるように立つ。
「狭いですね」
密着した恥ずかしさから気を逸らしたくて話題を探す。
「あと三駅ですよ。長いですね」
話せない澄香からは、当然声は出てこない。
これじゃ、変な人か無視されてる人だな。
広翔は他の話題を探すも、なかなか「いい天気ですね」くらいの文句しか出てこない。
【今度は、上手く育てられるといいね】
澄香はスマホを差し出しながら微笑した。
「え、ああ、アネモネですか?そうですね。頑張ります」
澄香から話しかけてもらえたということがとてつもなく嬉しかった。
冷えていく心が一瞬にして温まった気がした。
駅に早く着いて欲しいのに、まだ離れたくない。
矛盾した感情を抱きながら、彼らは電車に揺られた。
***
カフェは相変わらず閑散としていた。
マスターがカウンターで一人、カップを丁寧に磨いている。
「こんにちは」
広翔が声をかけると、マスターは細い目をさらに細めて微笑んだ。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
広翔たちは前回と同じ席に着き、メニューを開く。
「前回はチーズケーキだったので、今回はクリームソーダ……え、ない?クリームオレンジ?え、この店変わってる」
メニューを見て思わず声を漏らす。
普通カフェといえばクリームソーダではないのか。なぜクリームソーダがないのにクリームオレンジはあるんだ。ていうかクリームオレンジって俺の想像と合ってるのか?
ぐるぐると悩んで結局クリームオレンジを頼む。
その様子を澄香は少し楽しそうに眺めていた。
しんとした店内には聞き覚えのあるクラシックが流れている。
「あの」
沈黙に耐えかねて広翔は声をかける。
澄香は汗をかいたグラスを手に取って、一口飲む。
じっと、広翔の次の言葉を待っているようだった。
「話したいことって、何でしょうか」
澄香は静かにスマホを取り出す。
だが、書き始めなかった。
眉を寄せて、唇を軽く噛んでいる。
「お待たせ致しました」
マスターがクリームソーダならぬクリームオレンジを運んでくる。やはりジュース部分がオレンジジュースだった。想像通りでほっとする。
アイスの部分を一口頬張る。
冷えたバニラアイスが意外にもオレンジジュースに合う。だが欲を言えば炭酸が欲しい。
【私のこと、もう知ってるんでしょ?】
こと、とスマホをテーブルに置いて見せてきた。
思わずアイスを掬う手が止まる。
「ええと、先輩の旧姓が瑠璃ってことですか?」
広翔が細長いスプーンを紙ナプキンの上に置きながら聞くと、澄香は小さく頷いた。
【お父さんが言っていたことは事実。お父さんの家までわかってたってことは、それももう知ってるよね】
広翔は口を引き結んだ。
【私があなたの家族を殺したも同然なんだよ。もう好きだなんて言えないでしょ?】
澄香は自嘲するような笑みを浮かべている。
広翔は澄香から視線を外し、乾いた喉に水を滑り込ませる。
「あの、その件はもういいんです。当然、先輩の肉親に対しては腹が立ってますけど。でも、先輩は関係ないじゃないですか。なんで、まぁ少しも気にならない、と言えば確かに嘘になるかもしれません。けど」
言葉がなかなか出てこない。
肝心な時ほど語彙力のなさを思い知らされる。
何と言えば伝わるのだろう。
「そんなことを気にするよりも、あなたと一緒に笑ってたいんだ」
決して大きな声ではなかった。
だが、確かにそれは響いた。
澄香はホロホロと涙を流した。
慌ててハンカチで拭う。
「先輩」
ふと、広翔が澄香に声をかけた。
「好きです」
澄香の目から、また涙が溢れた。
「覚えてませんか?以前来た時に約束したんです。もう一度告白するって」
恥ずかしそうにはにかむ広翔に、澄香は小さくかぶりを振った。
忘れてなんかない。
あなたがくれた日々を忘れたりなんかしない。
どれも全て色づいて見えて、とてもとても幸せだった。
あなたが私に生きることの楽しさを教えてくれた。
ありがとう。
ありがとう、ありがとう。
声が出たらどれだけ良かっただろう。
私を否定した影は、今もしこりとなって残っている。
「煩い声だこと。あの女にそっくりね」
やめて。そんな目で見ないで。
声、出さないから。もう出さないから。
お願いお願いお願い。
私を捨てないで。
生きていることを否定しないで。
ダレカワタシヲミツケテ
かつての映像が、さざ波のように襲っては消えていく。
以前ほどの恐怖を感じないのは、彼が目の前にいるから。
こんな私を認めて、励まして、支えてくれたから。
生きていることを肯定してくれたから。
真っ直ぐに、私を見てくれたから。
ねえ、広翔君。
「──大好き」
広翔は思わずスプーンを落とした。
澄香が今までにないほど綺麗な笑みを浮かべたからではない、とは言いきれないが、微笑をうかべた澄香の唇から、木琴が奏でるような優しく可愛らしい声が滑り出たからだ。
澄香自身も目を丸くしている。
マスターがちょうどパンケーキを運んできた。
「良かったですねぇ。どうか末永くお幸せに。これはサービスですので」
優しげに目を細めたマスターは、小さな二人分ほどのホールケーキと取り皿を二つ持ってきていた。
パンケーキと合わせると少し量が多い気もする。
──ケーキって、時間かかるもんじゃないのか?
ふと浮かぶ疑問にマスターを横目で見ると、何食わぬ顔してまた食器を磨いていた。
千里眼でも持っているのだろうかと思ってしまう。
澄香も同じことを思っていたようで、なんとも不思議なものを見る目でマスターを凝視している。
「先輩、声……でましたね」
広翔が言うと、澄香は小さく頷いた。
「あの」
未だ困惑している澄香に、広翔は控えめに声をかける。
「さっきのよく聞こえなかったんで……もう一回言ってもらってもいいですか」
澄香は頬を赤らめた。
少し考える仕草をして、席を立った。
「え!ごめんなさい!気を悪くしたなら謝ります!すみませんでした!」
広翔は慌てて引き止めようとした。
澄香は立ち上がり、テーブルのすぐ脇を通って広翔に近づいた。
「怒りました?」
上目遣いで澄香を見上げると、澄香は顔を近づけて広翔の耳元で囁いた。
「広翔君、ありがとう。大好き」
聞き慣れない声が広翔の鼓膜を潤す。
広翔の耳が真っ赤になった。
「あの、俺も、好きです。大好きです。でも目ぇ合わせて言うのは恥ずかしすぎてちょっと無理です。勘弁してください」
首まで真っ赤にしながら言う広翔に笑いかけ、澄香は頬に軽くキスをした。
「えっ!?」
勢いよく振り向いた広翔に、今度は唇を重ね合わせた。
「…………………………ええぇ」
茹でダコのようになっている広翔を真っ直ぐに見つめる。
「まだ、わだかまりがあるかもしれない。解決できなくて整理できないこともまだまだ私たちの間にはいっぱいあると思う。……でも、ここから、始めていきたい。私は春海ちゃんに沢山助けられた恩を仇で返した。それは紛れもない事実。だけどその時、私ができることは、少なくとも悲観して立ち止まることじゃない。前を向いていくことだって、教えられた。今のこの状況は、春海ちゃんと出会った時と少し似ているわ。あなたたち姉弟が、私を前に送り出してくれたの。だから私は過去をなかったことになんかしないし、受け止めながら生きていく。これからもずっと……──もう二度と、逃げたりしない」
まだ声を出すことに慣れないのだろう。ときどき声が掠れていた。
決意の灯った瞳は、これ以上なく美しく見えた。けれど、
「……逃げても、いいんだ」
広翔はそっと澄香の手を取った。
「逃げてもいい。辛かったら逃げていい。だけどその度、俺が、俺たちが、また背中を押すよ。──助けるよ、何度でも」
そう言って、広翔は穏やかに微笑んだ。
カフェの外では冷たい風が色づいた紅葉を落としていく。
冬はもう、すぐそこに来ていた。
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