クルーエル・ワールドの軌跡

木風 麦

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七章

救助要請<後>

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 ガチャガチャと玄関で音がする。
「あ、おかえりなさーい」
 トタトタと母を迎えに行く。
「あれ」
 春海は目を丸くした。
「瑠璃ちゃん!帰ったんじゃなかったの?あ、もしかしてまだ私と居たかった?」
 と笑いながら瑠璃を招き入れる。
「ん?人が増えてる」
 目を赤く充血させた瑠璃そっくりの女性は申し訳なさそうに縮こまっている。
「佳奈さんて名前の瑠璃ちゃんのお母さんよ。それはそうと、ハル。あなたお菓子作ってたのよね?」
 智美は微笑みながら佳奈の肩に手をかける。
「あ、うん。でもあとは焼けるの待つだけ」
 春海は瑠璃の手を引いて「上がって」と嬉しそうに笑う。
 佳奈は軽く目を見張った。
「どうかした?」
 智美が佳奈を覗き込むと、佳奈は心ここに在らず、といった様子で「信じられない」と呟いた。
「瑠璃が、素直について行くなんて」
 そこから?と言いたい言葉を呑み込み、「さ、佳奈さんも上がって」と促した。
「あ、焼けた焼けた。スフレ作ってたの。熱々のうちに食べてね」
 銀のティースプーンと共に、スフレがコトリとテーブルに置かれる。
 佳奈と瑠璃はぽかんと口を開けてスフレとティースプーンを眺めている。
「あ、うち食器にこだわってないの。ごめんね、これで食べて」
「美味しいお菓子には美味しい紅茶が合うわ。お湯はあるのよね?」
 智美が準備しようとすると、「えーっ」と春海が異を唱える。
「ダメダメ!スフレはすぐにしぼんじゃうんだから!今すぐ食べて!」
 春海の主張に佳奈と瑠璃は慌ててスプーンを手に取る。
 ふわりとした生地がプツプツと音を立てて割られる。
 フーっと息を吹きかけ、口に滑り込ませる。
 メレンゲがジュワリと溶けて、程よい甘みが口内を満たす。
「美味しい」
 とパンケーキを食べた時のような笑顔を見せる。
 佳奈はそんな瑠璃を見てまた驚く。
 春海は食べるのを止めた佳奈に対して頬を膨らませる。
「あ、佳奈ちゃん食べて!それ熱々が美味しい……」
「瑠璃が、笑ってるわ」
 春海の言葉など聞こえていないというように呟いた。
 春海は少し不機嫌そうに「当たり前でしょ」と言い返す。
「人間なんだから」
 佳奈はその言葉に息を呑んだ。
 まじまじと春海を見つめる。
「なに?」
 春海は小首を傾げる。
 その横で智美がくすりと笑う。
「子どもって、たまに核心をつくようなことを言うのよね。不思議よね。この子たちより長く生きているはずなのに、この子たちに教えられたり、当たり前のことを改めて突きつけられたりする」
 春海の頭を撫でながら智美は言う。
「あ、瑠璃ちゃん食べ終わった?また人生ゲームやろ」
 と瑠璃の手を引きバタバタと二階へ上がっていった。
「私は」
 佳奈はスフレを口に含んで、小さく喉をならした。
 智美に視線を向け、堅い表情で口を開いた。
「私の家にはもう家族と呼べる人は居なくて、夫……秀一さんというのですが、夫とは務めていた会社で出会いました。とても優しくしてくださって、本当に、初めて好きになれた人だったんです。私男運無くって、いじめられた記憶しか無くて」
 そっと視線を外しながら佳奈はぽつりぽつりと話し始めた。スフレを時折口に含みながら言葉を紡いでいく。
「秀一さんは違った」
 そう言った佳奈の目に嫌悪や脅えは全く無く、むしろ愛しさが滲んでいた。
「秀一さんは本当に大切にしてくれた。あの人は会社の社長の息子さんで、縁のない人だと思っていたし、そういう人は私みたいな人間を見下しているのだと思っていた。……勝手に、私は人を決めつけていたんです。だけど彼は、そんな奴ばかりじゃない。俺自身を見て決めてくれないかって……もう、真っ赤になっちゃった。恥ずかしくて。自分が何もかも正しいと、無意識に思っていたことを突きつけられたわ」
 いつの間にか敬語は外れていた。
 智美は残った湯で紅茶を入れ始める。
「色々、教えてもらったわ。楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと。全てあの人が一緒に居てくれたから、世界が色鮮やかに見えたの。生きていることが幸せだと教えられたの。友人として接してくれるだけでも嬉しかったのに、まさか……私を好きと言ってくれるなんて思わなかった」
 智美はくすりと笑う。
 目にはうっすりと涙の膜が張られて潤んでいた。
「社長夫人からは、とても反対された。でも、秀一さんは諦めなかった。それで私たちは結婚できた。幸せだった……──瑠璃が、産まれるまでは」
 カツン、と紅茶の注がれたカップを佳奈の目の前に置く。
「どうぞ、続けて?」
 智美は砂糖とミルクをコンコンと順に置いていく。
「瑠璃が産まれて、始めの方はとても円満だった。だけどある日を境に、秀一さんは、どんどん怖くなっていった。いいえ、壊れていった・・・・・・という感じかしら。私たちに……ああ、違うわ。瑠璃に・・・、当たるようになった。仕事で何か起きたのか、別のことが原因か……さっぱりわからなかった。でも、あの人の目が、昔みたいな暖かさを含んでいないことだけはわかった。幼い瑠璃を庇うと、秀一さんは余計に怒った。……何でか、本当にわからないの。でももう限界。昨日会ったばかりのあなたに言うのも変な話だけど、藁にもすがる思いだけど…………あの人を、助けてほしい」
 佳奈の目から水晶のような涙がポロリとこぼれた。
「助けてって、あなたのことじゃなかったの?」
 智美は軽く目を見張った。
「私はあの人と離れたいわけじゃない。もしかしたら……もしかしたらまた、昔みたいに笑い合えるようになるかもしれないって、諦めきれないのよ」
 佳奈はそう言って笑った。
 初めて見せたその笑顔は、あまりにも頼りなかったが、この世のものとは思えないほどに儚く美しいものだった。
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