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待ちわびていたはずだった〈陽菜語り〉
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その日は仕事に集中しきれずに、途中で早退することにした。元彼と別れようと、ドラマの録画がされていなかろうと、仕事だけはキッチリこなしていたのだ。
だからかなり心配された。
少し風邪気味なのも原因の一つだろう。
重い頭と足とを引き摺るように、我が家への帰路をゆっくり歩いた。
家につき、部屋の明かりを灯す。
電気を点けたはずなのに、部屋はほんのり薄暗い。
私は、ミザラやシオルに感謝こそすれ、恨む気持ちは一切ない。
二人に記憶が無さそうなのが救いだった。
記憶があれば、私と同じ気持ちになるに違いないから。
空腹な気はするが何も作る気にならず、ソファに体を預けた。
何だか身体がもっと重くなってる気がする。風邪が悪化したのだろうか。
ソファの冷たい感触に目を閉じる。
私はどこかで期待していた。
彼方君が私みたいに前世の記憶を取り戻して、優しい笑みを返してくれると。あの穏やかな時をやり直せるのだと。
そんな甘い話、あるわけがないのに。
カルタから説明された時、どうしたらいいんだろう、とは思わなかった。
すべきことは分かっていた。
カルタを拒絶して、彼方君に体を返さなければならない。今を生きるはずだった彼方君の魂を殺してはならない。
わかってる。
分かってるのに、そうしたくない自分がいる。
きっと、前世の私はそれほどまでにカルタに焦がれていた。倫理観なんて消えてしまうくらい、彼を愛してしまっていたんだ。
カルタは、ずっとずっと彼方君の中に居たのだろうか。
どんな気持ちで、私たちを見ていたんだろう。
そう考えると、あまりに切なくて胸が痛くなる。
私には、カルタを消すことはできない。
カルタを覚えていたから、私は彼方君を見つけた。カルタとの記憶があったから、私は彼と付き合った。
私の中には、いつだってカルタがいたんだ。
──でも、いつからだろ。
ぼんやりとした視界の中、彼方君の細い腕が私の髪を撫でる。
いつもの彼方君なら絶対しない。……これは、私の夢の中だろう。彼方君が私の家に居るはずないし。
細い腕に抱かれる夢の中、じっとその顔を眺めた。
そっと手を伸ばしてみる。
触れた部分の肌がふにっと少しへこみ、照れたように少し頬を赤くする。
可愛くて、愛しい、私の恋人。
「…………彼方君」
そっとその名を口にする。
彼は優しく微笑み、私の名を呼ぶ。
その時間はとても短い。
だけど、一瞬にも思えるこの時間が、私は愛おしくて堪らない。
──好き……。愛してるって感情が少しずつ、溢れてくる。
優しくて暖かいこの感情は、きっと愛情とか恋情とか言われる類のものだ。
頬を、生暖かいものがつたっていく。
視界はさっきよりも濁って、もはや輪郭のはっきりしているものなんかない世界に包まれる。
「私は、カルタを愛してる。それは多分、変わんないよ」
だけど、そこから始まった嘘の恋は、いつしか本物になってしまった。
私、二股してんのかな。……やだ……カルタが浮気性だったの、責められないじゃない。
「……でも、彼方君が言ったんだからね。私は別れること覚悟してたのに、君が延長戦に持ち込んだんだからね」
ずず、と鼻をすする。
「私のことをカルタより好きにさせるんでしょ。カルタより好きって言わせるんでしょ。……あの宣言ってそういう事でしょ?」
──俺たちの関係って何も変わんないよね。
そう告げた彼の瞳は真剣で、でもやっぱり少し恥ずかしそうで、私はその瞳に、どうしようもなく惹かれた。
だけどその手は震えてた。
不安で不安で仕方ないに決まっている。
自分じゃない誰かを好きな人を振り向かせることが、簡単なわけないんだ。もしかしたら、振り向いてもらえないかもしれないのだ。
それでも、彼は手を伸ばしてくれた。
私を掴もうとしてくれた。
それが、泣いてしまうほど嬉しかった。
「彼方君が、私のカルタへの未練を断ち切ってくれるんでしょ」
夢の中なのに、彼に必死に語りかける。
……夢の中、だからか。
現実世界で、今は彼方君に対しては言えない。二重の意味で。
遠のく意識の中で、私は腹を括った。
カルタとサヨナラをする覚悟と、その罪悪感を一生背負う覚悟を。
そこで私の意識は完全に途切れた。
***
ふと目を開けると、いつの間にか布団に移動していた。
……いや、なんで?
布団なんか普段絶対敷かない。ソファがあるから。ベッド代わりにしていて、布団なんか最近滅多に使っていなかったのに。
すんっ、と鼻が無意識に反応する。
ジュワワ、という油の音と共に、ほんのりといい香りが鼻をくすぐった。
むくりと体を起こしてキッチンに向かうと、見慣れた背中があった。
「……おはよう」
「おはよう。よく眠っていたみたいね。朝ごはんもう出来るから座って。まったく、風邪なのにどうして布団を敷こうとしないんだか」
ゆるふわの髪を一つにまとめ、少し眉を寄せながら、好恵はうどんに目玉焼きをのせた。
なぜ居るのだ。
家に鍵はかけて……。……ちょっと記憶が無い。もしかしたら鍵をかけ忘れたのかもしれない。
それにしても、なんで好恵が家にきたのだろうか。
「ん?ああ、なんで居るかって?それがね、なんと、あなたの職場の同僚は私の友人だっだのよ。たまたま友達があなたの様子を教えてくれたのよ。心配になって家にきたら、なんとあなたが高熱出して倒れてるんでもの。びっくりしたわ」
ふう、とわざとらしく好恵はため息を吐く。
「病み上がりだからうどん。陽菜はもう少し食事に気を使いなさいよね。もう、学生の時から本当変わんないのね」
と言う好恵の瞳には心配の色が滲んでいる。
「……助かる。ありがとう好恵」
「……んふ。どういたしまして」
好恵は目玉焼きをトーストにのせながら笑みをこぼす。
「……あ。そうだ。彼方から伝言頼まれてたんだった」
「彼方君から?」
不思議に思い聞き返す。
「そう。来週の休日、連れていきたいところがあるんだって。デートのお誘いよ。……にしても、頭打って積極的になるだなんて……早々に頭打っておいた方が良かったんじゃないかしら」
と、好恵は物騒なことを真顔で言う。
多分半分本気で言ってるから怖い。
「お泊まりらしいけど……まぁ、彼方にそんな度胸ないわね。ふつーに楽しんできてね!」
姉としてそこは弟に釘を刺すべきではないのか。
なにはともあれ、これがカルタとの最後のデートになる。
血の巡りが一気に悪くなった気がした。
冷えた自分の体に、そっと腕を回した。
だからかなり心配された。
少し風邪気味なのも原因の一つだろう。
重い頭と足とを引き摺るように、我が家への帰路をゆっくり歩いた。
家につき、部屋の明かりを灯す。
電気を点けたはずなのに、部屋はほんのり薄暗い。
私は、ミザラやシオルに感謝こそすれ、恨む気持ちは一切ない。
二人に記憶が無さそうなのが救いだった。
記憶があれば、私と同じ気持ちになるに違いないから。
空腹な気はするが何も作る気にならず、ソファに体を預けた。
何だか身体がもっと重くなってる気がする。風邪が悪化したのだろうか。
ソファの冷たい感触に目を閉じる。
私はどこかで期待していた。
彼方君が私みたいに前世の記憶を取り戻して、優しい笑みを返してくれると。あの穏やかな時をやり直せるのだと。
そんな甘い話、あるわけがないのに。
カルタから説明された時、どうしたらいいんだろう、とは思わなかった。
すべきことは分かっていた。
カルタを拒絶して、彼方君に体を返さなければならない。今を生きるはずだった彼方君の魂を殺してはならない。
わかってる。
分かってるのに、そうしたくない自分がいる。
きっと、前世の私はそれほどまでにカルタに焦がれていた。倫理観なんて消えてしまうくらい、彼を愛してしまっていたんだ。
カルタは、ずっとずっと彼方君の中に居たのだろうか。
どんな気持ちで、私たちを見ていたんだろう。
そう考えると、あまりに切なくて胸が痛くなる。
私には、カルタを消すことはできない。
カルタを覚えていたから、私は彼方君を見つけた。カルタとの記憶があったから、私は彼と付き合った。
私の中には、いつだってカルタがいたんだ。
──でも、いつからだろ。
ぼんやりとした視界の中、彼方君の細い腕が私の髪を撫でる。
いつもの彼方君なら絶対しない。……これは、私の夢の中だろう。彼方君が私の家に居るはずないし。
細い腕に抱かれる夢の中、じっとその顔を眺めた。
そっと手を伸ばしてみる。
触れた部分の肌がふにっと少しへこみ、照れたように少し頬を赤くする。
可愛くて、愛しい、私の恋人。
「…………彼方君」
そっとその名を口にする。
彼は優しく微笑み、私の名を呼ぶ。
その時間はとても短い。
だけど、一瞬にも思えるこの時間が、私は愛おしくて堪らない。
──好き……。愛してるって感情が少しずつ、溢れてくる。
優しくて暖かいこの感情は、きっと愛情とか恋情とか言われる類のものだ。
頬を、生暖かいものがつたっていく。
視界はさっきよりも濁って、もはや輪郭のはっきりしているものなんかない世界に包まれる。
「私は、カルタを愛してる。それは多分、変わんないよ」
だけど、そこから始まった嘘の恋は、いつしか本物になってしまった。
私、二股してんのかな。……やだ……カルタが浮気性だったの、責められないじゃない。
「……でも、彼方君が言ったんだからね。私は別れること覚悟してたのに、君が延長戦に持ち込んだんだからね」
ずず、と鼻をすする。
「私のことをカルタより好きにさせるんでしょ。カルタより好きって言わせるんでしょ。……あの宣言ってそういう事でしょ?」
──俺たちの関係って何も変わんないよね。
そう告げた彼の瞳は真剣で、でもやっぱり少し恥ずかしそうで、私はその瞳に、どうしようもなく惹かれた。
だけどその手は震えてた。
不安で不安で仕方ないに決まっている。
自分じゃない誰かを好きな人を振り向かせることが、簡単なわけないんだ。もしかしたら、振り向いてもらえないかもしれないのだ。
それでも、彼は手を伸ばしてくれた。
私を掴もうとしてくれた。
それが、泣いてしまうほど嬉しかった。
「彼方君が、私のカルタへの未練を断ち切ってくれるんでしょ」
夢の中なのに、彼に必死に語りかける。
……夢の中、だからか。
現実世界で、今は彼方君に対しては言えない。二重の意味で。
遠のく意識の中で、私は腹を括った。
カルタとサヨナラをする覚悟と、その罪悪感を一生背負う覚悟を。
そこで私の意識は完全に途切れた。
***
ふと目を開けると、いつの間にか布団に移動していた。
……いや、なんで?
布団なんか普段絶対敷かない。ソファがあるから。ベッド代わりにしていて、布団なんか最近滅多に使っていなかったのに。
すんっ、と鼻が無意識に反応する。
ジュワワ、という油の音と共に、ほんのりといい香りが鼻をくすぐった。
むくりと体を起こしてキッチンに向かうと、見慣れた背中があった。
「……おはよう」
「おはよう。よく眠っていたみたいね。朝ごはんもう出来るから座って。まったく、風邪なのにどうして布団を敷こうとしないんだか」
ゆるふわの髪を一つにまとめ、少し眉を寄せながら、好恵はうどんに目玉焼きをのせた。
なぜ居るのだ。
家に鍵はかけて……。……ちょっと記憶が無い。もしかしたら鍵をかけ忘れたのかもしれない。
それにしても、なんで好恵が家にきたのだろうか。
「ん?ああ、なんで居るかって?それがね、なんと、あなたの職場の同僚は私の友人だっだのよ。たまたま友達があなたの様子を教えてくれたのよ。心配になって家にきたら、なんとあなたが高熱出して倒れてるんでもの。びっくりしたわ」
ふう、とわざとらしく好恵はため息を吐く。
「病み上がりだからうどん。陽菜はもう少し食事に気を使いなさいよね。もう、学生の時から本当変わんないのね」
と言う好恵の瞳には心配の色が滲んでいる。
「……助かる。ありがとう好恵」
「……んふ。どういたしまして」
好恵は目玉焼きをトーストにのせながら笑みをこぼす。
「……あ。そうだ。彼方から伝言頼まれてたんだった」
「彼方君から?」
不思議に思い聞き返す。
「そう。来週の休日、連れていきたいところがあるんだって。デートのお誘いよ。……にしても、頭打って積極的になるだなんて……早々に頭打っておいた方が良かったんじゃないかしら」
と、好恵は物騒なことを真顔で言う。
多分半分本気で言ってるから怖い。
「お泊まりらしいけど……まぁ、彼方にそんな度胸ないわね。ふつーに楽しんできてね!」
姉としてそこは弟に釘を刺すべきではないのか。
なにはともあれ、これがカルタとの最後のデートになる。
血の巡りが一気に悪くなった気がした。
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