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記憶と思い出〈陽菜語り〉
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彼方君は、その次の日も目を覚まさなかった。眠っている顔はとても穏やかで、いつ起きてもおかしくない。
今にも起きそうなのに、全くその気配はない。
そっと彼の頬に触れる。
まだ仄かに暖かい。
サラリとした髪に手を伸ばす。
撫でても、撫でても、くすぐったいと笑う彼の声は聞こえてこない。
「……起きてよ、彼方君」
起きて、おねがい。
どんなに祈っても、どんなに願っても、彼の指一本だって動かない。
怖い。
私はまた置いていかれるの。
嫌。嫌、嫌、嫌。
「……ひとりに、しないで」
ぎゅっと手を握りしめても、彼は握り返してはくれなかった。
もうすぐ昼休憩が終わってしまう。
こんな時社会人を辞めたくなる。
学生だったらサボってもさほど影響はないのに。
ああ、でも行かなきゃ。
彼に愛想つかされてしまう。
だって彼は、私のことを「デキる大人」と思ってくれているんだから。そんな彼の中の「私」は壊しちゃ駄目だ。
もう一度、彼の髪を撫でる。
「……行ってくる。早く起きてね」
そう呟き、私は彼の額に口づけを落とした。
***
仕事はいつも通りにやれた。
ちゃんとできていた。
ビールのプルに爪をひっかけながら、ソファに身を埋める。
いつ目を覚ますんだろう。
いつ、彼は私の名前を呼んでくれるんだろう。
いつ、私を抱きしめてくれるんだろう。
確固たる未来が想像できず、不安に押し潰されそうだ。
きっと私は彼以外の大切なものがない。彼が全て。彼と出会うために前世の記憶が引き継がれている。
縁は、きっかけで構わない。
その縁が今生で切れても構わない。
だから、彼を返して。私に返して。
ピンパン、とチャイムが鳴った。
「……好恵たちかな」
重い腰を上げ、カメラを覗く。
「…………え?」
誰。
いや、誰なのかは知っていた。
だけど、どうして彼が私の家を知っているのだ。
どうしよう。出ない方がいいのかもしれない。
だけど何の用でここに来たのか気になる。
数秒迷い、スマートフォンに「一一〇」の番号を表示し、すぐに掛けられるように設定した。
「……はーい」
ドアチェーンを外さずに、ドアノブを捻る。
手が震えそうになるのを、必死でこらえた。だって、
ドアの前には、かつての恋人の弟が立っていたのだ。
「……えーと、どちら様?」
不自然でないようにつとめた。
彼は、
「わかりませんか」
と聞いてきた。
確証はなかった。だが、初見の人に対してそんな大きな態度は取れまい。
加えて、彼はまだ高校生のようだ。
だが、ここで「前世の恋人の弟よね?知ってる知ってる。さぁ上がって」と言えるほど私の警戒心は緩くない。
「……誰かと勘違いされてませんか?」
遠回しに「知らない」と言っているこの断り文句に、彼は「してないです」と断言した。
そして、目を逸らさずに言った。
「あなたは、前世の記憶がありますか?」
彼は、確信があるのだろうか。
私が前世の記憶を引き継いでいると。
ここで、知らないと答えればどうなるのだろう。
いや逆に、知っていたらなんだというのだ。
「……そんなおとぎ話みたいなこと、あなたは信じるの?」
考えることが面倒になり、半逆ギレのように言い返す。
「信じますよ。俺はあるので」
さらりとした反撃をくらい、しばし言葉が出なくなる。
「用事って、もしかして宗教の勧誘?それだったらお引き取り願うのだけど」
「……じゃあ、あなたが素性のよく分からない男の話を、インターホン越しでなく直接聞こうと思った理由は何です?」
言葉が出なくなった。
しまった。昔のコイツは頭は良かったけどバカだったが、今はグレードアップしてるに決まってる。迂闊だった。
「……もしかしたら、私の彼の友だちなのかと思ったのよ」
苦しい言い訳だろうか。しかし、逃げ道としてはアリだろう。
背格好からして、高校生という線が濃厚なのだ。
「……ああ、写真でも見たんですか?」
え?
眉をひそめると、彼は「申し遅れました」と鞄を漁り、
「俺、市野塚彼方のクラスメートで友人の久留米尚真です」
と、生徒手帳を取り出した。
「……そう、よ」
と口に出してしまってから、しまったと思った。
が、時すでに遅し。
友人の彼の口には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
「ふふ……俺は彼方と写真撮ってないです。彼方は俺とのツーショなんか撮りたがりませんし、俺も写真好きじゃないんで」
すっ、と彼の手がチェーンに触れる。
「中でお話、させてもらってもいいですよね?」
彼の、久留米君の目が糸状に細められた。
「──シノメ殿」
彼から視線を外し、眉をぎゅっと寄せる。
私は唇を噛みつつ、チェーンに手を伸ばした。
今にも起きそうなのに、全くその気配はない。
そっと彼の頬に触れる。
まだ仄かに暖かい。
サラリとした髪に手を伸ばす。
撫でても、撫でても、くすぐったいと笑う彼の声は聞こえてこない。
「……起きてよ、彼方君」
起きて、おねがい。
どんなに祈っても、どんなに願っても、彼の指一本だって動かない。
怖い。
私はまた置いていかれるの。
嫌。嫌、嫌、嫌。
「……ひとりに、しないで」
ぎゅっと手を握りしめても、彼は握り返してはくれなかった。
もうすぐ昼休憩が終わってしまう。
こんな時社会人を辞めたくなる。
学生だったらサボってもさほど影響はないのに。
ああ、でも行かなきゃ。
彼に愛想つかされてしまう。
だって彼は、私のことを「デキる大人」と思ってくれているんだから。そんな彼の中の「私」は壊しちゃ駄目だ。
もう一度、彼の髪を撫でる。
「……行ってくる。早く起きてね」
そう呟き、私は彼の額に口づけを落とした。
***
仕事はいつも通りにやれた。
ちゃんとできていた。
ビールのプルに爪をひっかけながら、ソファに身を埋める。
いつ目を覚ますんだろう。
いつ、彼は私の名前を呼んでくれるんだろう。
いつ、私を抱きしめてくれるんだろう。
確固たる未来が想像できず、不安に押し潰されそうだ。
きっと私は彼以外の大切なものがない。彼が全て。彼と出会うために前世の記憶が引き継がれている。
縁は、きっかけで構わない。
その縁が今生で切れても構わない。
だから、彼を返して。私に返して。
ピンパン、とチャイムが鳴った。
「……好恵たちかな」
重い腰を上げ、カメラを覗く。
「…………え?」
誰。
いや、誰なのかは知っていた。
だけど、どうして彼が私の家を知っているのだ。
どうしよう。出ない方がいいのかもしれない。
だけど何の用でここに来たのか気になる。
数秒迷い、スマートフォンに「一一〇」の番号を表示し、すぐに掛けられるように設定した。
「……はーい」
ドアチェーンを外さずに、ドアノブを捻る。
手が震えそうになるのを、必死でこらえた。だって、
ドアの前には、かつての恋人の弟が立っていたのだ。
「……えーと、どちら様?」
不自然でないようにつとめた。
彼は、
「わかりませんか」
と聞いてきた。
確証はなかった。だが、初見の人に対してそんな大きな態度は取れまい。
加えて、彼はまだ高校生のようだ。
だが、ここで「前世の恋人の弟よね?知ってる知ってる。さぁ上がって」と言えるほど私の警戒心は緩くない。
「……誰かと勘違いされてませんか?」
遠回しに「知らない」と言っているこの断り文句に、彼は「してないです」と断言した。
そして、目を逸らさずに言った。
「あなたは、前世の記憶がありますか?」
彼は、確信があるのだろうか。
私が前世の記憶を引き継いでいると。
ここで、知らないと答えればどうなるのだろう。
いや逆に、知っていたらなんだというのだ。
「……そんなおとぎ話みたいなこと、あなたは信じるの?」
考えることが面倒になり、半逆ギレのように言い返す。
「信じますよ。俺はあるので」
さらりとした反撃をくらい、しばし言葉が出なくなる。
「用事って、もしかして宗教の勧誘?それだったらお引き取り願うのだけど」
「……じゃあ、あなたが素性のよく分からない男の話を、インターホン越しでなく直接聞こうと思った理由は何です?」
言葉が出なくなった。
しまった。昔のコイツは頭は良かったけどバカだったが、今はグレードアップしてるに決まってる。迂闊だった。
「……もしかしたら、私の彼の友だちなのかと思ったのよ」
苦しい言い訳だろうか。しかし、逃げ道としてはアリだろう。
背格好からして、高校生という線が濃厚なのだ。
「……ああ、写真でも見たんですか?」
え?
眉をひそめると、彼は「申し遅れました」と鞄を漁り、
「俺、市野塚彼方のクラスメートで友人の久留米尚真です」
と、生徒手帳を取り出した。
「……そう、よ」
と口に出してしまってから、しまったと思った。
が、時すでに遅し。
友人の彼の口には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
「ふふ……俺は彼方と写真撮ってないです。彼方は俺とのツーショなんか撮りたがりませんし、俺も写真好きじゃないんで」
すっ、と彼の手がチェーンに触れる。
「中でお話、させてもらってもいいですよね?」
彼の、久留米君の目が糸状に細められた。
「──シノメ殿」
彼から視線を外し、眉をぎゅっと寄せる。
私は唇を噛みつつ、チェーンに手を伸ばした。
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