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最終章《秋桐家の花嫁》

【九】

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 足が凍りつくような冷気の中、ふきのとうが顔を見せ始める。この時期が紅子は好きだった。
 花の都同様に道を白く染める雪は美しくもあるが面倒でもある。子どもと男は雪かきのために外へ駆り出され、女は大抵部屋なかで家の雑事を行う。
 紅子は駆り出される側であった。
 一応付き人という肩書きになっているはずの滋宇が「動いて体力つけないと」と主を外へ引っ張りだしたのだ。
 ここ数ヶ月の記憶がふとよぎり、吐き出された白い息が乾いた空気と混ざる。やがて見えなくなった空虚な宙を見つめながらショベルを握る手に力を込めた。

 屋敷に滞在することは楼主に許可されたものの、結納となるとやはり親戚筋がなかなか首を縦にはしなかった。たしかに紅子の出自自体はそこまで悪くないものの、「犯罪者の娘を嫁入りさせるなど有り得ない」といった意見が紅子たちの予想より遥かに多かったのだ。
 交渉は長引き、ほんの数日前にようやく籍を入れることが叶ったものの、親戚を招いての大々的な式は執り行われなかった。
 もともとそういった儀式に憧れが強いわけではなかった紅子だが、自分たちで式を行わないと決めるのと「祝われない」のはまったく意味が違う。

──結納まで漕ぎ着けただけ、喜ぶべきよね。

 一時はそれさえも危ぶまれたのだから、前進しているにはしているのだ。気持ち良いスタートを切りたかったというわだかまりがあるというだけで。

 それに、許可が下りてもすぐに開催できる状況ではなかった。楼主は言わずもがなだが、美月の回復が想定よりも芳しくないのだ。
 ひと月前に他の元能力者たちは目を覚まし順調な回復をしていっていると報告があったが、それと比べると美月はかなり状態が悪い。
 双子は一人が本来屍人であり、二人が無事目を覚ます可能性はとても低かったのだが、社での療養が決まってから数週間で目を覚ました。神主いわく、神社の神が二人を守っているのだとか。代わりに社の外へは出られない特殊な体になってしまったとのことだが、以前までの暮らしとなんら変わらないと本人たちはケロリとしているらしい。
 しかし美月は未だ長時間の外出は止められており、警察隊の仕事は事務仕事のみを行っている。体が突然硬直して動かなくなってしまう後遺症のような症状が見られるほか、以前より風邪を引くようになったし、病気への免疫が下がっているように見える。決して楽観できない状況なのだ。
 
 駄目だ後ろ向きになってしまう。
 紅子は不安なことを放り出すように首を振った。

「──紅子さん」

 もうすっかり調子の戻った、耳に心地よい声に呼ばれて振り返る。
 鼻の先を微かに赤くしながら立っている美月に、紅子は顔を綻ばせながら駆け寄る。
「体調は大丈夫ですか?」
「大丈夫。心配かけたね」
 心配しましたよ、と言いかけた口を閉じ、代わりに冷え始めた手で美月の両頬を挟んだ。冷たさに思わず瞼を閉じた男に笑いかけ、
「あとちょっとで終わるので、中で待っていてください」と言う。
「いや……少しは運動しないと」
 美月は掌を出す。ショベルを渡すと、慣れた手つきで雪を除けていく。だがやはり体力は相当落ちているらしく、早々に息が上がり始める。
 耳の先から赤く染まっていく横顔に鼓動が早くなっていく。
「あの」とか細い声を出す。
 振り返った男の、柔らかな青緑の瞳が紅子を捉える。羞恥でまともに顔を合わせられずに紅子はパッと下を向いてしまう。
「あの、……無理は、なさらないでください」
 漆黒の瞳も読めないミステリアスな雰囲気が良かったが、今の瞳は透明度があるというのか、儚い美しさをもっている。

──というか、そうじゃない。

 それを言いたかったわけではない。
 彼が目を覚まして、戸籍を戻して、そのときに彼の名を呼ぶはずだった。改めて彼のことを本来の名で呼びたいと思っていた──のだが、未だ「み」の字も紅子の口からでていなかった。
 こんなにも意気地がないなんて、と紅子は自己嫌悪に陥る。名前を呼んでくれ、とはもう言われなくなっていたけれど、逆に怖い。もしかして名を呼びたくないのだと誤解されているのではないか。
 俯く紅子に、男はショベルを返した。
「なにか悩み事があるときほど、作業は捗るものです」
 にこりと笑んだ男に、紅子の心臓は甘く締め付けられる。
 気遣いと共にショベルを受け取り、
「ありがとうございます」と礼を言う。
 だがなかなか美月はショベルから手を離そうとしない。怪訝な顔で「あの」と顔を上げた紅子の唇に温いものが触れた。
 長い睫毛に縁取られた美しい瞳がすぐ目の前にある。呆然とする紅子に、
「絶対顔を上げるだろうなと思ったので」
 と男は悪びれもなく言ってのける。
 ショベルごと紅子の手を包み、
「ゆっくりで大丈夫ですよ。気長に待つので」
 優しく手を引かれ、一歩二歩と共に歩む。
 この男は、紅子が悩んでいるのをずっと愉しんでいたのだとようやく気づく。
 不満と恥と、こういう意地悪な部分がまた良いと思ってしまう恋心を抱えながら、紅子は隣を歩く。
 真っ白な雪道に、二人の足跡が点々と続いた。
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