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最終章《秋桐家の花嫁》
【三】
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時は一年後の現在に戻る。
意識が戻らない弥生や春の宮、そして双子の覡が目を覚まさない日々。看病を続けても変化の見えない日々。
それでも心身を壊すことなく、紅子は屋敷の皆と看病を続けた。
そんな矢先。
「……若奥様、お耳に入れておいてほしいことがございます」
弥生にずっと付いてきたという絹峰が遠慮がちに言った。
「なんでしょうか」
暗い表情の絹峰に、あまり良い話ではなさそうだと紅子は心を引き締める。
絹峰は覚悟を決めるかのように息を吐き出し、やがて真摯な目で紅子を見つめ、
「領主様が、お越しになるそうです」
と低く告げた。
重い空気を醸し出されるも、紅子の頭にはいくつか疑問符が浮かぶ。
そもそも領主は弥生ではないのか。いや屋敷の者たちはご主人様とは言っていたが領主とは言っていない。そういえば領主代理と言っていたと今更気づく。
「領主様は、……──」
弥生様の血縁なのですよね、と問おうとした紅子はハッと口を噤む。紅子が婚約者としてこの屋敷にきてすぐ、両親への挨拶を断られたことを思い出したからだ。
野杏が教えてくれたんだった、と思いを馳せる。
彼女は人道に反した行いをしようとした。それは許されることではない。しかし、紅子に対して親身になって接してくれた姿を忘れることもまた難しいのだ。
「……仲が、あまりよろしくないんでしたね。失礼致しました」
感傷を胸にしまい、紅子は作り笑いを張りつける。絹峰はやんわり首を振り、「いいえ」と苦い笑みを浮かべる。
「仰る通りにございます。ゆえに、弥生様は──いえ ご主人様は、若奥様を領主様に会わせたくなかったのでしょうし。かくいう私も、あまりお会いになってほしくはございませんが……もうそろそろ、誤魔化すことも限界のようにございますので」
絹峰の口ぶりに目を見開く。今までこの人が守ってくれていたのだと知ったからだ。始めのうちは弥生が退けていたのだろうが、その後はこの人が代わって紅子を守っていたのだ。
紅子は絹峰の手を取り、
「ありがとうございます。ここのお屋敷の方々は皆、本当に良くしてくださって……ここにきて、皆さんと出会えて本当に良かったです。守ってくださりありがとうございます。でも、『若奥様』と呼ばれるのなら、その名に見合った働きをしとうございます」
と笑って見せる。
「若奥様……領主様を同じ人間だと思って接することはお勧めしません。無難に、話を終わらせてくださいませ」
硬い声を出す絹峰に、紅子はかすかに息を呑む。同じ人間だと思わないほうが良いだなんて、と言いかける。しかしすぐに思い直す。
自分の身の回りに、関わった者の中にいたではないか。話の通じない、こちらの話を一切聞こうとはしない者たちが。それと同種、もしくは亜種なのだろう。
「わかりました。なんとか恙無くこなしましょう。ですが気を悪くしないために、その領主様のことを教えてください」
絹峰は辺りを見回し、外に決して漏れない声でボソボソと喋り始めた。
***
その三日後、領主が屋敷に赴く日がやってきた。
絹峰の助けがあったといえ、屋敷に誰かを招いた経験のない紅子はてんてこ舞いの三日間だった。
綺麗に磨き上げられたガラス窓にうっすら映る疲れきった自身の姿に、紅子は頬を軽く叩く。
頼れる人は今はいない。自分で何とかしなければならないのだ。
「……しっかりしないと」
と一人呟く。弥生の身内に失礼があれば、泥を被るのはその嫁を採った弥生だ。そんなことできない。したくない。
「お紅ちゃん、馬車がお見えになったわよ」
窓の外を眺めていた滋宇が言う。
紅子は「ええ」と頷き、前髪を整えてから手を前で組む。息をひとつ短く吐き出し、
「いま行きます」と歩き出した。
「──ようこそおいで下さいました」
玄関の扉が開かれ、領主と対面する。紅子は柔和な笑みを浮かべ、
「お初にお目にかかります。秋桐弥生様の婚約者になりました紅子と申します。ご挨拶が遅れましたことお詫び申し上げます」
と丁寧に一礼した。
下げた頭に視線が刺さるのを感じる。このまま下がって扉を閉めて引き篭もりたい衝動をなんとか抑えながら顔を上げる。
弥生と同じ漆黒の瞳と髪の色。成人している子どもの父親のはずだが、青年のように見える若々しい顔をしている。弥生と兄弟だと言っても納得してしまいそうだ。
それなのにどうしても親近感というか、親しみの情が湧いてこない。目はハイライトが入っていないし、口はキュッと結ばれて緩む気配が皆無だ。
「弥生は何処に?」
低く冷たい声だ。紅子は怯えを押し込め、
「……ただいま療養中でして、静養できる場所に居られます」
嘘は言っていない。弥生は屋敷の寝室で眠っているのだが、この言い回しだと勘違いをしてくれるだろう。
案の定、領主は顔を顰めてみせた。
「そうか では後で見舞いを寄越すかな。それで……君たちはいつ、婚約を破棄するつもりなんだ?」
「え?」
驚愕のあまり言葉を失い、頬を引き攣らせる。領主は不思議そうに首を傾げ、
「もう能力は消えてしまったと伝わっているよ。そんな君を秋桐に置いておく理由ってないよね。弥生がまだ眠っているから婚約が破棄できないというのなら、私が代わりに筆をとるよ」
紅子は冷たくなった指の先を握る。
──まさか会ってすぐにそれを切り出されるとは。
婚約を破棄する話題を出されるだろうことは予測ができていた。しかしそれを玄関先で切り出されるとは思いもしなかった。
「……そのお話は、今ここで終わらせなければならないものでしょうか」
「?早いほうがいいだろう」
「ずっと領主様を立たせてしまうのは心苦しいです。それに今おいでになったばかりではありませんか。馬車での長旅の疲れを、少し癒していってくださいませ。どうぞお上がりください」
にこり、と笑みながら中へ誘う。領主は「ふぅん」と小さく呟き、
「では招かれようか」と羽織を脱ぎ絹峰に渡す。
ひとまず引き留めることができた。内心ほっと息を吐き、紅子は「こちらへどうぞ」と屋敷の廊下を歩む。
通したのは洋風の部屋だった。
二人がけの白い布地に金糸で模様が縫われたソファが二台、テーブルを挟んで向かい合い、一人がけのソファが脇に置かれている。
焦げた茶色のローテーブルにはケーキスタンドが設置されていた。
「絹峰さんからは甘いものがお好きではないと伺っておりますので、軽食のほうをご用意させて頂きました」
ケーキスタンドに載っているのはサンドウィッチだ。肉だけが挟まれたもの、瓜とツナが挟まれたものの二種類がある。
「よろしければ召し上がってください。お飲み物は珈琲と紅茶、煎茶、ミルクがございますが、いかがなさいますか?」と紅子が言う。
「ミルク?」領主は目を瞬き、
「そんなものが飲み物の選択肢に入っているのは初めてだな」
可笑しそうに目を細めた領主は、「じゃあミルクかな」と滋宇に言いつける。
「それで、君は……婚約破棄が嫌、ということかな?」
探るような目つきだった。紅子は「そうですね」と間を置かずに答える。
「そっかそっか。うーんでもなぁ……君よりもっといい条件の娘たちはいっぱいいるんだよ」
「条件ですか。お家柄ということでしょうか?」
「そうだね」
「お家柄でしたら、たしかに私は相応しくありませんね」
「そうだね」
この人本当に容赦がない。無表情かつ平坦に自分の意思を伝えてくる。それが許されるのは上の身分の人間だけだ。紅子は内心唇を噛む。
本音を言えば、別れたくなどない。しかしそれを決めるのは紅子ではない。弥生でもないのだろう。
紅子は「ひとつ、私が退くに当たってお願いがございます」と領主に向き直る。
領主は「お願い?」と興味深そうに繰り返す。
「はい、お願いにございます。……お家のことなので、私が口を挟むことが失礼に当たるかもしれませんが、どうかお聞き届けてもらえたらと思います」
紅子は脳裏に、長い睫毛を伏せていた男がこちらに気づき、その目尻を優しく緩めながら、一回り大きく骨ばった手を伸ばす彼の人を浮かべた。
もう二度と会うことができないだろう、その人を。
「弥生様のお名前を、元に戻してくださいませ。弥生様は『弥生』というお名前ではなかったはずです。……どうか、お願い致します」
意識が戻らない弥生や春の宮、そして双子の覡が目を覚まさない日々。看病を続けても変化の見えない日々。
それでも心身を壊すことなく、紅子は屋敷の皆と看病を続けた。
そんな矢先。
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「なんでしょうか」
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絹峰は覚悟を決めるかのように息を吐き出し、やがて真摯な目で紅子を見つめ、
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そもそも領主は弥生ではないのか。いや屋敷の者たちはご主人様とは言っていたが領主とは言っていない。そういえば領主代理と言っていたと今更気づく。
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彼女は人道に反した行いをしようとした。それは許されることではない。しかし、紅子に対して親身になって接してくれた姿を忘れることもまた難しいのだ。
「……仲が、あまりよろしくないんでしたね。失礼致しました」
感傷を胸にしまい、紅子は作り笑いを張りつける。絹峰はやんわり首を振り、「いいえ」と苦い笑みを浮かべる。
「仰る通りにございます。ゆえに、弥生様は──いえ ご主人様は、若奥様を領主様に会わせたくなかったのでしょうし。かくいう私も、あまりお会いになってほしくはございませんが……もうそろそろ、誤魔化すことも限界のようにございますので」
絹峰の口ぶりに目を見開く。今までこの人が守ってくれていたのだと知ったからだ。始めのうちは弥生が退けていたのだろうが、その後はこの人が代わって紅子を守っていたのだ。
紅子は絹峰の手を取り、
「ありがとうございます。ここのお屋敷の方々は皆、本当に良くしてくださって……ここにきて、皆さんと出会えて本当に良かったです。守ってくださりありがとうございます。でも、『若奥様』と呼ばれるのなら、その名に見合った働きをしとうございます」
と笑って見せる。
「若奥様……領主様を同じ人間だと思って接することはお勧めしません。無難に、話を終わらせてくださいませ」
硬い声を出す絹峰に、紅子はかすかに息を呑む。同じ人間だと思わないほうが良いだなんて、と言いかける。しかしすぐに思い直す。
自分の身の回りに、関わった者の中にいたではないか。話の通じない、こちらの話を一切聞こうとはしない者たちが。それと同種、もしくは亜種なのだろう。
「わかりました。なんとか恙無くこなしましょう。ですが気を悪くしないために、その領主様のことを教えてください」
絹峰は辺りを見回し、外に決して漏れない声でボソボソと喋り始めた。
***
その三日後、領主が屋敷に赴く日がやってきた。
絹峰の助けがあったといえ、屋敷に誰かを招いた経験のない紅子はてんてこ舞いの三日間だった。
綺麗に磨き上げられたガラス窓にうっすら映る疲れきった自身の姿に、紅子は頬を軽く叩く。
頼れる人は今はいない。自分で何とかしなければならないのだ。
「……しっかりしないと」
と一人呟く。弥生の身内に失礼があれば、泥を被るのはその嫁を採った弥生だ。そんなことできない。したくない。
「お紅ちゃん、馬車がお見えになったわよ」
窓の外を眺めていた滋宇が言う。
紅子は「ええ」と頷き、前髪を整えてから手を前で組む。息をひとつ短く吐き出し、
「いま行きます」と歩き出した。
「──ようこそおいで下さいました」
玄関の扉が開かれ、領主と対面する。紅子は柔和な笑みを浮かべ、
「お初にお目にかかります。秋桐弥生様の婚約者になりました紅子と申します。ご挨拶が遅れましたことお詫び申し上げます」
と丁寧に一礼した。
下げた頭に視線が刺さるのを感じる。このまま下がって扉を閉めて引き篭もりたい衝動をなんとか抑えながら顔を上げる。
弥生と同じ漆黒の瞳と髪の色。成人している子どもの父親のはずだが、青年のように見える若々しい顔をしている。弥生と兄弟だと言っても納得してしまいそうだ。
それなのにどうしても親近感というか、親しみの情が湧いてこない。目はハイライトが入っていないし、口はキュッと結ばれて緩む気配が皆無だ。
「弥生は何処に?」
低く冷たい声だ。紅子は怯えを押し込め、
「……ただいま療養中でして、静養できる場所に居られます」
嘘は言っていない。弥生は屋敷の寝室で眠っているのだが、この言い回しだと勘違いをしてくれるだろう。
案の定、領主は顔を顰めてみせた。
「そうか では後で見舞いを寄越すかな。それで……君たちはいつ、婚約を破棄するつもりなんだ?」
「え?」
驚愕のあまり言葉を失い、頬を引き攣らせる。領主は不思議そうに首を傾げ、
「もう能力は消えてしまったと伝わっているよ。そんな君を秋桐に置いておく理由ってないよね。弥生がまだ眠っているから婚約が破棄できないというのなら、私が代わりに筆をとるよ」
紅子は冷たくなった指の先を握る。
──まさか会ってすぐにそれを切り出されるとは。
婚約を破棄する話題を出されるだろうことは予測ができていた。しかしそれを玄関先で切り出されるとは思いもしなかった。
「……そのお話は、今ここで終わらせなければならないものでしょうか」
「?早いほうがいいだろう」
「ずっと領主様を立たせてしまうのは心苦しいです。それに今おいでになったばかりではありませんか。馬車での長旅の疲れを、少し癒していってくださいませ。どうぞお上がりください」
にこり、と笑みながら中へ誘う。領主は「ふぅん」と小さく呟き、
「では招かれようか」と羽織を脱ぎ絹峰に渡す。
ひとまず引き留めることができた。内心ほっと息を吐き、紅子は「こちらへどうぞ」と屋敷の廊下を歩む。
通したのは洋風の部屋だった。
二人がけの白い布地に金糸で模様が縫われたソファが二台、テーブルを挟んで向かい合い、一人がけのソファが脇に置かれている。
焦げた茶色のローテーブルにはケーキスタンドが設置されていた。
「絹峰さんからは甘いものがお好きではないと伺っておりますので、軽食のほうをご用意させて頂きました」
ケーキスタンドに載っているのはサンドウィッチだ。肉だけが挟まれたもの、瓜とツナが挟まれたものの二種類がある。
「よろしければ召し上がってください。お飲み物は珈琲と紅茶、煎茶、ミルクがございますが、いかがなさいますか?」と紅子が言う。
「ミルク?」領主は目を瞬き、
「そんなものが飲み物の選択肢に入っているのは初めてだな」
可笑しそうに目を細めた領主は、「じゃあミルクかな」と滋宇に言いつける。
「それで、君は……婚約破棄が嫌、ということかな?」
探るような目つきだった。紅子は「そうですね」と間を置かずに答える。
「そっかそっか。うーんでもなぁ……君よりもっといい条件の娘たちはいっぱいいるんだよ」
「条件ですか。お家柄ということでしょうか?」
「そうだね」
「お家柄でしたら、たしかに私は相応しくありませんね」
「そうだね」
この人本当に容赦がない。無表情かつ平坦に自分の意思を伝えてくる。それが許されるのは上の身分の人間だけだ。紅子は内心唇を噛む。
本音を言えば、別れたくなどない。しかしそれを決めるのは紅子ではない。弥生でもないのだろう。
紅子は「ひとつ、私が退くに当たってお願いがございます」と領主に向き直る。
領主は「お願い?」と興味深そうに繰り返す。
「はい、お願いにございます。……お家のことなので、私が口を挟むことが失礼に当たるかもしれませんが、どうかお聞き届けてもらえたらと思います」
紅子は脳裏に、長い睫毛を伏せていた男がこちらに気づき、その目尻を優しく緩めながら、一回り大きく骨ばった手を伸ばす彼の人を浮かべた。
もう二度と会うことができないだろう、その人を。
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