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最終章《秋桐家の花嫁》

【二】

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 それから、一年もの月日が流れた。

 一年の間にたくさんのことがあった。
 まず例の騒動の当事者であった昭平は捕らえられ、国光やレンは捕まる前に事切れていたらしい。国光は外傷こそないものの、寿命がとうの昔に切れているような、水分のなくなったしわしわの身体となっていたようだ。

 皆が眠ってから一月ひとつき経つ前に、双子の親代わりでもある神主が屋敷にやってきた。
 息をしているものの目を覚ます気配のない双子の頭を撫でながら、神主は安堵したように長く息を吐き出した。
「大丈夫です、魂はまだあります。おそらく他の者も同じでょう。だがその魂は深く深くしまっていて、目覚めるのはいつになるかわからない。もしかしたら体の方が先に限界を迎えるかもしれないが……希望はまだ、つながっておりますよ」
 神主の言葉に、気を張りつめていた紅子の涙腺は決壊した。

 紅子の提案で、神主も屋敷に留まることとなった。春の宮に至っては、今回の騒動に噛んでいる容疑のある太陽妻とのいざこざで、同じく屋敷で看病を受けることとなった。
「身体は毎日動かしてあげないと固まってしまいます」
 屋敷に常駐する医師からの助言を受け、紅子はまめに部屋の戸を叩き、弥生の身体を曲げたり身体を拭いたりと甲斐甲斐しく世話をした。

 半年が経った頃、太陽妻は皇家の監禁部屋に拘束され、かつ政治を営む権利の永久剥奪が決定された。どうやら戦争を引き起こさんとした手紙のやり取りやら振込やら、掘れば掘るほど証拠が見つかっていったらしい。
 また紅子の義父である七兵衛もその件に噛んでいたことが発覚し、都を永久追放されたのだとか。
 その報せとともに、昭平の拘禁刑が言い渡されたともひっそり紅子に告げられた。婚約関係にあったはずの翡翠は、騒動の二週ほど前に切られていたらしい。

 それもこれもクロからの情報なのだが、その報せを紅子にもたらした後、彼は姿をくらました。一言、「お暇を頂戴します。勝手をお許しください」と書き付けて。

「──あの男に会うの?」

 滋宇は報告書から顔を上げ、紅子を心配そうに見つめる。
 「あの男」とは昭平のことだろう。紅子は俯き、
「そうね。会っておきたいかもしれない」
 と素直に頷く。
 滋宇は「そう」と言い、
「私は表門までついていく。でも中へは入らないから」
「……ええ、ありがとう」
 滋宇は冷えきった指先を包み込みながら無言で微笑んだ。


***


 警察隊の本拠地は本来民間人の立ち入りが禁じられているのだが、弥生の妻の身分である紅子は特別に罪人との面会が許された。

 分厚いガラス張りの対面だった。

 相対した昭平を前に紅子は息を呑む。すっかり痩せ細ったわけでもないが、今にも消えてしまいそうな雰囲気だったのだ。
 紅子は思わず、
「ごはんは、食べているのですか」と訊いた。
 昭平は軽く目を瞬き、
「酷いことをした男に対して呑気なことを」と苦笑を浮かべた。
「ここにはどうして来たの。夫がいるだろうに」
「ずっと気になっていたことを聞くためです」
 口遊びには乗らず、紅子は息を吸い込む。

「あなたは何がしたかったの?」

 戦争を仕掛けたところで、昭平自身に益があるわけではない。なにより、──……。
「思わせぶりな言葉を吐いてばかりのあなたの心はどこにあったの」
 ただからかっていただけなのだろうか。果たしてそれだけの理由で、殺伐とした空気の中軽口を叩くだろうか。
 昭平は「本気か」とでも言うように目を見開いた。
「その……紅子さんは、がすべて演技だったと言いたいんですか?」
「演技に見えない演技でしたけどね」
「そりゃ……演技ではなく本気で口説いてましたからね」
 昭平は「そこからか」と頭を搔き、弱ったように上目遣いに紅子を見つめた。その目の端がじわりと色づき、かすかに潤いを増す。
 逸らせない、と紅子は小さく喉を鳴らした。

「君のことが好きなんだ。それこそ、塾で共に苦楽を過ごしたあの幼少期からずっと」

 心臓が逸る。
 けれど甘い音はしない。焦るような、どこか恐ろしいような気分になる。
 足元が急に支えを失ったかの如く心細い心地になり、喉が乾いてヒリつく。冷えた指先を握り込み、紅子は目の前の男を睨む。
「馬鹿なこと言わないで。だって──」
 だってあなたが私を切捨てたじゃない。
 続く言葉を呑み込む。それはもう過ぎた出来事だと呼吸を整え、
「あなたは私を突き放したでしょう?私の中ではあれで終わったの。あなたは違うとでも言うの」
 と努めて冷静に言葉を繰り出す。
 昭平は「そうだね」と自嘲する。
「俺はきっと、君を信じすぎていたんだ。君はたとえ今この場で振られようと、俺のことを気にかけてくれるだろうって。だって俺たちは幼少期からずっと互いをどこか意識していたから、それが無くなるとは思っていなかったんだ」
 紅子は「聞き捨てならない」と眦をつり上げる。
「人の思いは良くも悪くも移ろうの。ずっとあなただけを考えていると『信じていた』?『驕っていた』の間違いでしょう。永遠の約束を交わしたならまだわかるけど、私たちの関係を断ち切ったのはあなたのほうでしょ?それをさも私が尻軽みたいな言い方して正当化しようとしないで」
 憤怒の表情で言い返す紅子をまじまじ見つめた昭平は、一言、
「紅子さん、変わったね」と呟いた。
 戸惑いが瞳に現れ、視線をさまよわせながら昭平は俯く。
「前はこんなに意見を言う人じゃなかったのに。お淑やかだった君こそ、どこへ行ったんだろうね。俺のことを別人みたいだと言ったけど、君もそうだよ」
「……そうね、変わったかもしれない」
 紅子は手を組み、「今ようやく昭平さんのこと少し理解できたわ」と微笑む。
「あなたは何も言えずに、全て諦めたような顔をした私が好きだったのね。誰にも本当のところでは心を開かない私がよかったのでしょう?縋られることに優越感があったんじゃない?そして、あなたはそれだけを私に求めていたのよ。そんなの、私は幸せになれない。あのとき昭平さんに捨てられてよかったって今なら言えるわ」
 翡翠の瞳が昭平をはっきり捉える。軽蔑も侮蔑もないが、紅子の目は昭平の思いをはっきりと拒絶していた。
 昭平はしばらく黙っていた。紅子の言葉がよほどショックなのか、口を軽く開いては閉ざし、と繰り返す。
「……そんなことない、とは言えないな。でもそれが男ってものだと思うけどね。頼られることが嬉しくて、か弱い人を守りたいと思うのが普通じゃない?」
「普通なんて知らない。いま私が傍にいて欲しい人は、私を可哀想な人だと憐れみ、下に見る人じゃない。自分の足で立とうとする私のことを好きだと言ってくれる人よ」
 立ち上がった紅子は昭平を見下ろしながら、
「さようなら。もう二度と会わないでしょうけど、お身体には気をつけてくださいね。『元友人』としてのお願いです」
 と静かに告げた。
 面会室を出る直前、「紅子さん」と昭平の声が紅子を呼び止めた。
 彼女が振り返るよりも早く、

「紅子さんに、幸多からんことを願っています。……『元友人』として、心から」

 朗らかな声だった。
 塾に通っていた、あの懐かしくも美しい思い出が脳裏にふっと蘇った。
 紅子は振り返り、
「ありがとう」と笑う。

 淡く切なく、そして幸せだったころの思い出を置いていくように、紅子は面会室の扉を緩慢な動作で閉めた。
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