92 / 102
最終章《秋桐家の花嫁》
【一】
しおりを挟む
何かが離れていく感覚があった。生まれた時からずっと中にあったそれを、忌々しく思ったこともあった。だがよく助けられたのも事実で、言うなれば共に生まれた兄弟のような。
それが今、消えた。
「──……消えた?」
何がだろう。失った感覚に覚えはなく、靄がかかったようにではなく、何もなかったかのようにすっぽり記憶が抜けていて思い出せない。
未だ働かない頭を起こし、辺りを見る。
真っ白なシワひとつないシーツのかかったふかふかの布団と、外の日差しが心地よく当たる部屋。
ガランッと金属の落ちる音がした。
目をやると、そこには驚愕と喜色の混ざった表情をした滋宇がいた。
「お紅ちゃん!」
床に落下したタライをそのままに、滋宇は紅子に飛びついた。
「目が覚めたんだね……!もう、またしばらく目が覚めなくなって、本当に本当に心配したんだよ!」
首が締まるほどに強く抱かれ、紅子は「滋宇、苦しい」と回した背を軽く叩く。
「ここは秋桐様の御屋敷。明菜ちゃんの式場で騒動があったの覚えてる?あの後、目が覚める気配が一切ないから、お紅ちゃんとご主人様方は屋敷に帰すことになったの」
「……騒動」
何を指すのか、すぐには理解が及ばなかった。たしかほんのさっきまで──、と記憶を巡らし、途端に脳が覚醒する。
「や、弥生様は?」
滋宇の肩を掴み問い詰める紅子を「落ち着いて」と宥め、
「ご主人様はまだ眠ったまま。お医者様の話では、いつ目を覚ますかわからないって。でもお紅ちゃんが目を覚ましたんだから、ご主人様も近々目を覚ましそうね」
よかった、と零す滋宇の言葉は紅子の耳に届いていなかった。
部屋を飛び出し、弥生のもとへ駆け出す。滋宇の制止も聞かず、すれ違う使用人の人たちの驚く顔に見向きもせず、一直線に彼の元へ向かった。
──だって、この嫌な予感は一体なに……。
「弥生様!」
弥生の部屋のベッドに歩み寄る。大きな物音にも眉ひとつ動かさず、まるで永眠してしまったかのように顔色も蒼白だった。
「……お紅ちゃん」
後を追ってきた滋宇は紅子の肩に手をかけ、「こっちの部屋にきて」と弥生の部屋から連れ出した。
滋宇は客間の前で足を止め、一呼吸おいてから扉を開けた。
「あの騒動の後、春の宮様と双子ちゃんも眠りについてしまったの」
客間には布団が三組敷かれ、春の宮と覡の双子が、弥生同様に眠っていた。
そうだ、と紅子は手を伸ばす。
そうだいつもみたく能力を使えば。
「……?お紅ちゃん」
手を掲げてから微動だにしない紅子を、滋宇は心配そうに覗き込む。
「使えない。使っちゃ駄目なのよ。使ったらきっと、また繰り返すもの」
まだ気配の片鱗はあった。だから使おうと思えばきっと開花するのだろう。しかしそれでは駄目なのだと「だれか」が言う。紅子の中にはもう居ないはずだが、それでも声が聞こえてくる。
「それは人間には余る力です。例えあなたが悪用しなくとも、その子孫はわからない。その周囲はわからない。だからもう、欲してはならないのです」
でも、と紅子は言いたくなる。
でもあれは私の能力だったのだと。あれがあればこの三人を救うことができるのだとわかっている。それをみすみす逃すなんて。
「後のことなんて知らない。他の人なんて知らない。だって私が助かって欲しいって思うのは、この三人なんだもの」
紅子は目に涙を溜め、眉根をきつく寄せた。食いしばった歯から、「でも」と呻くような声が漏れる。
「わかってる。そんなことをしたらきっと、きっと三人は浮かばれない。皆優しい人だから、罪悪感はずっとついて回る。それを抱えて生きていかなきゃいけなくなる。私がせっかく結んだ契約を破ってしまったら、何もかもが台無しになってしまう」
わかってるけど、と蹲る。
「本当に?」
滋宇の声に顔を上げる。
なにかを試すように、滋宇はじっと紅子を見つめていた。
「以前のお紅ちゃんなら、本当に三人とも目を覚ますの?その保証は?」
「か、感覚で……たぶん目を覚ますって、なんとなくわかるの」
「それは保証じゃない。勘っていうの」
厳しい言葉で紅子の言葉を塞ぎ、腕を組んで堂々たる態度で言い放つ。
「そんな頼りないことに縋るより、懸命に看病続けた方がよっぽど治る見込みあるわよ。私がいったいどれだけの時間をお紅ちゃんに費やしたと思ってんの?一月よ、一月!それだけの時間を費やしてから治る治らないを論議してもらおうかしら!」
「……弥生様方も同じ時間眠っているのでしょう?なら……」
「お紅ちゃんは起きたじゃない!」
それを言われてしまうと返す言葉がなくなる。黙る紅子に、
「きっと他の人たちも順に目を覚ます。絶対目を覚ますって信じてる。──だって、お紅ちゃんがその希望を、奇跡を私に見せてくれたから。だから信じられるの」
滋宇の目には自信が点っていた。確証のない、根拠の薄い自信だ。けれど、──……。
紅子は眉間にこもった力を緩め、「うん」と小さく首肯する。
「そうだね、信じないと」
その期待が裏切られたら、きっと紅子は抜け殻の人形のようになってしまうのだろう。滋宇は微かにそう予感していた。
だが、今から憔悴していては本当に参ってしまう。希望を持ち続けている限りは、おそらくまだ保つはずだ。しかしそう長くは続くまい。
──近いうち、なんとか回復の兆しが見えてくれないと。
滋宇は笑顔を浮かべ、左手に隠した右の手でひっそり拳を握った。
それが今、消えた。
「──……消えた?」
何がだろう。失った感覚に覚えはなく、靄がかかったようにではなく、何もなかったかのようにすっぽり記憶が抜けていて思い出せない。
未だ働かない頭を起こし、辺りを見る。
真っ白なシワひとつないシーツのかかったふかふかの布団と、外の日差しが心地よく当たる部屋。
ガランッと金属の落ちる音がした。
目をやると、そこには驚愕と喜色の混ざった表情をした滋宇がいた。
「お紅ちゃん!」
床に落下したタライをそのままに、滋宇は紅子に飛びついた。
「目が覚めたんだね……!もう、またしばらく目が覚めなくなって、本当に本当に心配したんだよ!」
首が締まるほどに強く抱かれ、紅子は「滋宇、苦しい」と回した背を軽く叩く。
「ここは秋桐様の御屋敷。明菜ちゃんの式場で騒動があったの覚えてる?あの後、目が覚める気配が一切ないから、お紅ちゃんとご主人様方は屋敷に帰すことになったの」
「……騒動」
何を指すのか、すぐには理解が及ばなかった。たしかほんのさっきまで──、と記憶を巡らし、途端に脳が覚醒する。
「や、弥生様は?」
滋宇の肩を掴み問い詰める紅子を「落ち着いて」と宥め、
「ご主人様はまだ眠ったまま。お医者様の話では、いつ目を覚ますかわからないって。でもお紅ちゃんが目を覚ましたんだから、ご主人様も近々目を覚ましそうね」
よかった、と零す滋宇の言葉は紅子の耳に届いていなかった。
部屋を飛び出し、弥生のもとへ駆け出す。滋宇の制止も聞かず、すれ違う使用人の人たちの驚く顔に見向きもせず、一直線に彼の元へ向かった。
──だって、この嫌な予感は一体なに……。
「弥生様!」
弥生の部屋のベッドに歩み寄る。大きな物音にも眉ひとつ動かさず、まるで永眠してしまったかのように顔色も蒼白だった。
「……お紅ちゃん」
後を追ってきた滋宇は紅子の肩に手をかけ、「こっちの部屋にきて」と弥生の部屋から連れ出した。
滋宇は客間の前で足を止め、一呼吸おいてから扉を開けた。
「あの騒動の後、春の宮様と双子ちゃんも眠りについてしまったの」
客間には布団が三組敷かれ、春の宮と覡の双子が、弥生同様に眠っていた。
そうだ、と紅子は手を伸ばす。
そうだいつもみたく能力を使えば。
「……?お紅ちゃん」
手を掲げてから微動だにしない紅子を、滋宇は心配そうに覗き込む。
「使えない。使っちゃ駄目なのよ。使ったらきっと、また繰り返すもの」
まだ気配の片鱗はあった。だから使おうと思えばきっと開花するのだろう。しかしそれでは駄目なのだと「だれか」が言う。紅子の中にはもう居ないはずだが、それでも声が聞こえてくる。
「それは人間には余る力です。例えあなたが悪用しなくとも、その子孫はわからない。その周囲はわからない。だからもう、欲してはならないのです」
でも、と紅子は言いたくなる。
でもあれは私の能力だったのだと。あれがあればこの三人を救うことができるのだとわかっている。それをみすみす逃すなんて。
「後のことなんて知らない。他の人なんて知らない。だって私が助かって欲しいって思うのは、この三人なんだもの」
紅子は目に涙を溜め、眉根をきつく寄せた。食いしばった歯から、「でも」と呻くような声が漏れる。
「わかってる。そんなことをしたらきっと、きっと三人は浮かばれない。皆優しい人だから、罪悪感はずっとついて回る。それを抱えて生きていかなきゃいけなくなる。私がせっかく結んだ契約を破ってしまったら、何もかもが台無しになってしまう」
わかってるけど、と蹲る。
「本当に?」
滋宇の声に顔を上げる。
なにかを試すように、滋宇はじっと紅子を見つめていた。
「以前のお紅ちゃんなら、本当に三人とも目を覚ますの?その保証は?」
「か、感覚で……たぶん目を覚ますって、なんとなくわかるの」
「それは保証じゃない。勘っていうの」
厳しい言葉で紅子の言葉を塞ぎ、腕を組んで堂々たる態度で言い放つ。
「そんな頼りないことに縋るより、懸命に看病続けた方がよっぽど治る見込みあるわよ。私がいったいどれだけの時間をお紅ちゃんに費やしたと思ってんの?一月よ、一月!それだけの時間を費やしてから治る治らないを論議してもらおうかしら!」
「……弥生様方も同じ時間眠っているのでしょう?なら……」
「お紅ちゃんは起きたじゃない!」
それを言われてしまうと返す言葉がなくなる。黙る紅子に、
「きっと他の人たちも順に目を覚ます。絶対目を覚ますって信じてる。──だって、お紅ちゃんがその希望を、奇跡を私に見せてくれたから。だから信じられるの」
滋宇の目には自信が点っていた。確証のない、根拠の薄い自信だ。けれど、──……。
紅子は眉間にこもった力を緩め、「うん」と小さく首肯する。
「そうだね、信じないと」
その期待が裏切られたら、きっと紅子は抜け殻の人形のようになってしまうのだろう。滋宇は微かにそう予感していた。
だが、今から憔悴していては本当に参ってしまう。希望を持ち続けている限りは、おそらくまだ保つはずだ。しかしそう長くは続くまい。
──近いうち、なんとか回復の兆しが見えてくれないと。
滋宇は笑顔を浮かべ、左手に隠した右の手でひっそり拳を握った。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
城で侍女をしているマリアンネと申します。お給金の良いお仕事ありませんか?
甘寧
ファンタジー
「武闘家貴族」「脳筋貴族」と呼ばれていた元子爵令嬢のマリアンネ。
友人に騙され多額の借金を作った脳筋父のせいで、屋敷、領土を差し押さえられ事実上の没落となり、その借金を返済する為、城で侍女の仕事をしつつ得意な武力を活かし副業で「便利屋」を掛け持ちしながら借金返済の為、奮闘する毎日。
マリアンネに執着するオネエ王子やマリアンネを取り巻く人達と様々な試練を越えていく。借金返済の為に……
そんなある日、便利屋の上司ゴリさんからの指令で幽霊屋敷を調査する事になり……
武闘家令嬢と呼ばれいたマリアンネの、借金返済までを綴った物語
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
【完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる