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第八章《昭平と母国の画策》
【四】
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ピチチ、と小鳥の鳴く声で目を覚ます。
見慣れた天井と布団の香り。されどもその懐かしい香りには今縁がないはずだ。
「あ、そうか」
寝ぼけ眼を擦りながら、紅子は緩慢な仕草で布団から身を起こす。
ぼうっと働かない頭の記憶を手繰り、昨日の出来事に思い至った。
「あ、お紅ちゃん起きてる」
「おはよー 体調はどう?」
ガラリと襖が開けられた瞬間、梅夜と桃李が無遠慮に紅子の室内に入ってきた。
「おはようございます。体調は──」
言いかけた紅子の額に、梅夜の冷えた手が当てられたかと思うと、
「やっぱり」と梅夜は苦い顔で桃李を振り返る。
「お紅ちゃん熱あるわ。朝食は粥に変更ね」
梅夜の指示に特に驚きもせず、桃李は「はぁい」とまるで想定内のことであったかのように気の抜けた返事をした。
「念の為水枕と濡れタオル持ってきておいて正解ね」
と桃李は抱えていた桶を梅夜に手渡す。
「じゃあ女将に伝えてくるわ。お紅ちゃん、くれぐれも安静にね?」
桃李は笑顔で襖を閉めた。
「あ、あの、大丈夫です。熱なんて大したことないですし、本当に──」
ようやっと口を開かせてもらえたタイミングで、紅子は梅夜にまくしたてた。だがその口をやんわり制され、両肩を押され褥に戻される。
「寝てなさい。疲れが今ようやく体に出てきてるんだから、休めてあげな。それに──桃李を怒らせたくないでしょ」
げんなりした表情の梅夜を見るや否や、
「あ、はい。大人しく寝ていますね」
すごすごと布団の中へと戻る紅子に、梅夜は小さく笑った。
「──寝た?」
部屋の外で待機をしていた桃李が声をかける。
頷いて肯定した梅夜は眉根を寄せ、
「熱出すなんて、相当ストレス溜まってたのね」
「小さい頃以来だわ。それより梅、わかってるわよね」
「わかってるに決まってるでしょ。そんな凄まないでよ」
ひらひらと手を揺らした梅夜は翡翠の目を細めた。
「さっ こっちも動き出しましょうか」
***
「お母様、どうしてお姉ちゃんたちの前では清美って名乗ったの?」
幼い声が無邪気に尋ねる。
「紅子、母様の名は清美ですよ。いい?私たちは人よりも長く生きることができるわ。けれどそれは普通ではないから、人から妖と思われて火炙りにされてしまうかもしれない。そうなるのは嫌でしょう?私たちは土地を変えるごとに名を変えて生きていくの」
懐かしい声が答えた。その膝にごろん、と頭を乗せた女児は、まん丸の目をパチパチと瞬き、髪を撫でる女性を見上げる。
紅子と同じ、紅色の髪。唯一違うのは、瞳が空のような青色なこと。
「だから清美って名乗ったの?」
「そう。けれどもしかしたら、貴方はその必要がないかもしれないわ」
「必要?長く生きる必要があるの?」
「ええ。貴方に危害がないよう見守るためには、長く長く生きなくてはならないでしょう?」
にっこり微笑んだ母親の記憶を最後に、紅子は目を覚ました。
気づけばもう日は暮れて闇を招く時頃。桶の水もだいぶ減っている。
「……お母様。お母様はあの男……領主の弟と接触していたのですか?」
もう聞こえるはずのない、聞くことのできない問だとわかっていても尋ねずにはいられなかった。
「大切な人が捕らわれて、大切な場所が奪われてしまいそうなこの状況で、私はなにもできないのでしょうか」
そんなことない。
そのたった一言だけでいい。
もう一度だけ、声が聞きたい。
もう一度だけ会いたい。
「……っう……ひっ うぅ……っ」
熱のせいか、涙がぼろぼろととめどなく溢れてきてしまう。堪らず自分の両肩を抱きしめる。
けれど足りない。誰かに抱きしめて欲しい。
──誰かって、誰。
誰でもいいわけない。宿屋の皆に抱きしめてもらったらきっと落ち着く。だけど、──……。
落ち着くけど、心臓は全然落ち着いてくれない。
恥ずかしいところをあまり見せたくなくて、だけど一人で走ってしまったときは必ず追いかけてくれる。
──そんな貴方が近くにいないと、落ち着かなくなっていた。側にいたい、いてほしいと願うようになった。もっと知りたいと思った。もっと時を重ねたいと思った。貴方となら、肌を重ねても嫌じゃないと思った。まだ私ですら知らない「私」を、貴方なら受け入れてくれるだろうって思えた。
「……お母様、紅子はお母様と同じくらい、宿屋の皆と同じくらい……大切だと思える人ができました」
顔を上げ、手の甲で涙を拭う。
ふぅ、と息を吐いた後に、ゆっくり息を吸う。
「自分の手で、幸せを掴んでこようと思います」
独り決意を表明した彼女の片目が、じわりと真紅に染まった。
見慣れた天井と布団の香り。されどもその懐かしい香りには今縁がないはずだ。
「あ、そうか」
寝ぼけ眼を擦りながら、紅子は緩慢な仕草で布団から身を起こす。
ぼうっと働かない頭の記憶を手繰り、昨日の出来事に思い至った。
「あ、お紅ちゃん起きてる」
「おはよー 体調はどう?」
ガラリと襖が開けられた瞬間、梅夜と桃李が無遠慮に紅子の室内に入ってきた。
「おはようございます。体調は──」
言いかけた紅子の額に、梅夜の冷えた手が当てられたかと思うと、
「やっぱり」と梅夜は苦い顔で桃李を振り返る。
「お紅ちゃん熱あるわ。朝食は粥に変更ね」
梅夜の指示に特に驚きもせず、桃李は「はぁい」とまるで想定内のことであったかのように気の抜けた返事をした。
「念の為水枕と濡れタオル持ってきておいて正解ね」
と桃李は抱えていた桶を梅夜に手渡す。
「じゃあ女将に伝えてくるわ。お紅ちゃん、くれぐれも安静にね?」
桃李は笑顔で襖を閉めた。
「あ、あの、大丈夫です。熱なんて大したことないですし、本当に──」
ようやっと口を開かせてもらえたタイミングで、紅子は梅夜にまくしたてた。だがその口をやんわり制され、両肩を押され褥に戻される。
「寝てなさい。疲れが今ようやく体に出てきてるんだから、休めてあげな。それに──桃李を怒らせたくないでしょ」
げんなりした表情の梅夜を見るや否や、
「あ、はい。大人しく寝ていますね」
すごすごと布団の中へと戻る紅子に、梅夜は小さく笑った。
「──寝た?」
部屋の外で待機をしていた桃李が声をかける。
頷いて肯定した梅夜は眉根を寄せ、
「熱出すなんて、相当ストレス溜まってたのね」
「小さい頃以来だわ。それより梅、わかってるわよね」
「わかってるに決まってるでしょ。そんな凄まないでよ」
ひらひらと手を揺らした梅夜は翡翠の目を細めた。
「さっ こっちも動き出しましょうか」
***
「お母様、どうしてお姉ちゃんたちの前では清美って名乗ったの?」
幼い声が無邪気に尋ねる。
「紅子、母様の名は清美ですよ。いい?私たちは人よりも長く生きることができるわ。けれどそれは普通ではないから、人から妖と思われて火炙りにされてしまうかもしれない。そうなるのは嫌でしょう?私たちは土地を変えるごとに名を変えて生きていくの」
懐かしい声が答えた。その膝にごろん、と頭を乗せた女児は、まん丸の目をパチパチと瞬き、髪を撫でる女性を見上げる。
紅子と同じ、紅色の髪。唯一違うのは、瞳が空のような青色なこと。
「だから清美って名乗ったの?」
「そう。けれどもしかしたら、貴方はその必要がないかもしれないわ」
「必要?長く生きる必要があるの?」
「ええ。貴方に危害がないよう見守るためには、長く長く生きなくてはならないでしょう?」
にっこり微笑んだ母親の記憶を最後に、紅子は目を覚ました。
気づけばもう日は暮れて闇を招く時頃。桶の水もだいぶ減っている。
「……お母様。お母様はあの男……領主の弟と接触していたのですか?」
もう聞こえるはずのない、聞くことのできない問だとわかっていても尋ねずにはいられなかった。
「大切な人が捕らわれて、大切な場所が奪われてしまいそうなこの状況で、私はなにもできないのでしょうか」
そんなことない。
そのたった一言だけでいい。
もう一度だけ、声が聞きたい。
もう一度だけ会いたい。
「……っう……ひっ うぅ……っ」
熱のせいか、涙がぼろぼろととめどなく溢れてきてしまう。堪らず自分の両肩を抱きしめる。
けれど足りない。誰かに抱きしめて欲しい。
──誰かって、誰。
誰でもいいわけない。宿屋の皆に抱きしめてもらったらきっと落ち着く。だけど、──……。
落ち着くけど、心臓は全然落ち着いてくれない。
恥ずかしいところをあまり見せたくなくて、だけど一人で走ってしまったときは必ず追いかけてくれる。
──そんな貴方が近くにいないと、落ち着かなくなっていた。側にいたい、いてほしいと願うようになった。もっと知りたいと思った。もっと時を重ねたいと思った。貴方となら、肌を重ねても嫌じゃないと思った。まだ私ですら知らない「私」を、貴方なら受け入れてくれるだろうって思えた。
「……お母様、紅子はお母様と同じくらい、宿屋の皆と同じくらい……大切だと思える人ができました」
顔を上げ、手の甲で涙を拭う。
ふぅ、と息を吐いた後に、ゆっくり息を吸う。
「自分の手で、幸せを掴んでこようと思います」
独り決意を表明した彼女の片目が、じわりと真紅に染まった。
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