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第七章《秋桐家と龍の加護》
【八】
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「──どういうこと……?」
血を流して横たわる二つの体を前に、紅子と弥生は息を呑む。さっきまで息をしていたクロの体は、今はピクリとも動かない。
一向に追いついてこないことになにかの予感を覚えた二人の視界に、屋敷の塀を乗り越えてきたレンが一瞬映った。彼女は二人には気づかなかった様子で、その場から逃げるように民家の屋根を伝って消えていった。
「……どうして彼女が」
みるみる紅子の顔が白くなっていく。ほんの数ヶ月前の、例の流血沙汰を思い出したのかもしれない。
下手なことは言えない。弥生は未だ炎に包まれる屋敷に目を向ける。
「今はまだなんとも……とりあえず私は中の様子を見てきます。あなたはここで──」
「私も行きます」
恐怖と予覚で動きが硬い。しかし譲らないとでもいうような目に、弥生は苦く息を吐く。
「置いていってもどうせ後からくるのでしょうね。ただし長居はしませんよ」
そんな会話をしたのが随分前のことのようだと感じる。嫌な予感は現実となって目の前にあった。
「野杏」
唇の端から血を流す野杏の首に手を回し、膝に抱く。野杏はそんな女主人を目に映すなり苦笑を浮かべた。
優しい緑の色をした瞳。嫌いになれなかった人。
そんな彼女の美しい目に映る自分はなんと醜いことか。
「若奥様、なんてお顔をなさってるんです。私は間者だったのです。どうか情はお捨てになってください」
刺された箇所がとてつもなく熱かったというのに、今はもうそれすらまともに感じない。死に向かっていってるのだと、嫌でも思わされる。
「……レンは、もう行きましたか」
「ええ。屋敷から出ていくのをこの目で見ました」
「よございました。……次男様、私がものを頼める立場でないのは重々承知しております。承知の上で、申し上げます」
野杏は瞼を下ろし、か細い声で言葉を紡いだ。
「私の養親を、どうか」
それが最後の言葉だというように、彼女はピクリとも動かなくなった。
彼女の口についていた血の跡を手の甲で拭う。
真っ白な顔で横たわる少女の頬に、生あたたかい雫が二滴、三滴滑り落ちた。
「──そんな言伝を残さずとも、家臣たちは避難させていたというのに」
鎮火された屋敷を前に、弥生はくぐもった声で呟いた。
「養親っていうのは……野杏を育てた人のことでしょうか」
控えめに紅子が問う。
「実の親だよ。……最後の時ですら、実の親を親と呼ぶことができなかったのは、僕がこの場に居たからだろう」
その声はひどく苦々しく、後悔と自責とが滲んでいた。否定することができず、紅子は押し黙る。
「それで」
弥生は疑問を孕んだ目で紅子を見る。
「どうして野杏をあの屋敷に置いていこうと?」
すっかり炎の消えた家を前に、紅子は躊躇いなく「その方がいいかと思ったので」と答えた。
「野杏はあの屍たちと共に焼かれるべきだと、そう思いました。死者を冒涜した彼女への罰です」
「そうでしたか」
やや面食らった様子で、弥生は頷く。
「それに……きっと、自分の死に顔を彼には見られたくなかったでしょうから」
きゅっと指を握り込んだ彼女は顎を引いた。
***
屋敷を失った紅子たちは、一時的な避難所として近くの宿に泊まることとなった。だが生き残ったクロは体をピクリとも動かせなくなっていたために医療施設で療養することとなった。
「おそらく、故姫の能力で一時的に心肺停止の状態を作り出したんでしょう。レンの目から逃れるために」
そう弥生は言った。なんの感情もその瞳にはなかったが、吐露する彼はそう見えるように務めているように見えた。
当初太陽家に戻ってみると申し出た紅子だったが、弥生がそれを引き止めた。
「今は戻らなくていいです」
そう言った彼は一枚の紙を取り出した。
『紅子さんたちが屋敷を抜け出したことはもう太陽夫妻に伝えております。誤魔化せないと私が勝手に判断しました。僭越ながら私に考えがございます。明日の夕刻鐘が鳴る頃、能力を使ってお二人でこちらにいらしてくださいますよう』
未だ太陽家に残っている春の宮からの手紙だった。彼は不信感を露にした目を細めて苦く息を吐く。
「ここは祭神の君に話を合わせるしかないでしょう」
──そう不満げに漏らしていたのだが。
「あの……ご機嫌、ですね?」
弥生は彼女の紅い髪を手で掬ってはその唇に笑みを滲ませていた。一方の紅子はといえばその頬を果実のように真っ赤に染めている。
ひとまず宿の部屋に荷をおろした二人は、夕餉の時までをその部屋で過ごすこととなる。腰を下ろした弥生が彼女を手招き、その膝に紅子を乗せた。
「そりゃ、機嫌もよくなるでしょう」
梳いた髪を自身の指に絡め口づけを落とした彼は妖しい光を宿した瞳を細め、
「久々に君をこの腕に閉じ込められるんですから」
飾らない弥生の言葉に、紅子は耳までその赤を広げる。
秒針を刻む音が聞こえる中、どちらともなく目を薄く閉じた。
コンコン、と木の戸を叩く音のすぐ後に、「ご夕食の用意ができました」と扉のすぐ後ろ側から声がかけられた。
触れる寸前まで近づいた距離のまま、二人は固まる。紅子はそっと手を間に差し入れ、
「用意ができたそうです。いきましょ」
とその場を誤魔化すように明るく早口で言った。
納得いかないと物語る目を無視し、紅子はさっさと戸の方へ向かう。
「……仕方ありませんね」
弥生が漏らした呟きにほっと息をついた紅子だったが、油断した隙にその肩を引かれて強引に振り向かされる。
見開いた視界いっぱいに長いまつ毛ときめ細やかな肌が映り、唇に柔らかく温かいものが触れた。
目を潤しながら肩を震わせる紅子に、弥生は意地悪く目を細めた。
「今はこれだけで我慢するとしましょう」
そのまま平然とした態度で戸を開き、紅子より一回り大きな手を差し出した。
紅子は物言いたげな目で弥生を睨みつつも、少しだけ体温の低い彼の手のひらに自分のそれを重ね、そっと指を絡ませた。
血を流して横たわる二つの体を前に、紅子と弥生は息を呑む。さっきまで息をしていたクロの体は、今はピクリとも動かない。
一向に追いついてこないことになにかの予感を覚えた二人の視界に、屋敷の塀を乗り越えてきたレンが一瞬映った。彼女は二人には気づかなかった様子で、その場から逃げるように民家の屋根を伝って消えていった。
「……どうして彼女が」
みるみる紅子の顔が白くなっていく。ほんの数ヶ月前の、例の流血沙汰を思い出したのかもしれない。
下手なことは言えない。弥生は未だ炎に包まれる屋敷に目を向ける。
「今はまだなんとも……とりあえず私は中の様子を見てきます。あなたはここで──」
「私も行きます」
恐怖と予覚で動きが硬い。しかし譲らないとでもいうような目に、弥生は苦く息を吐く。
「置いていってもどうせ後からくるのでしょうね。ただし長居はしませんよ」
そんな会話をしたのが随分前のことのようだと感じる。嫌な予感は現実となって目の前にあった。
「野杏」
唇の端から血を流す野杏の首に手を回し、膝に抱く。野杏はそんな女主人を目に映すなり苦笑を浮かべた。
優しい緑の色をした瞳。嫌いになれなかった人。
そんな彼女の美しい目に映る自分はなんと醜いことか。
「若奥様、なんてお顔をなさってるんです。私は間者だったのです。どうか情はお捨てになってください」
刺された箇所がとてつもなく熱かったというのに、今はもうそれすらまともに感じない。死に向かっていってるのだと、嫌でも思わされる。
「……レンは、もう行きましたか」
「ええ。屋敷から出ていくのをこの目で見ました」
「よございました。……次男様、私がものを頼める立場でないのは重々承知しております。承知の上で、申し上げます」
野杏は瞼を下ろし、か細い声で言葉を紡いだ。
「私の養親を、どうか」
それが最後の言葉だというように、彼女はピクリとも動かなくなった。
彼女の口についていた血の跡を手の甲で拭う。
真っ白な顔で横たわる少女の頬に、生あたたかい雫が二滴、三滴滑り落ちた。
「──そんな言伝を残さずとも、家臣たちは避難させていたというのに」
鎮火された屋敷を前に、弥生はくぐもった声で呟いた。
「養親っていうのは……野杏を育てた人のことでしょうか」
控えめに紅子が問う。
「実の親だよ。……最後の時ですら、実の親を親と呼ぶことができなかったのは、僕がこの場に居たからだろう」
その声はひどく苦々しく、後悔と自責とが滲んでいた。否定することができず、紅子は押し黙る。
「それで」
弥生は疑問を孕んだ目で紅子を見る。
「どうして野杏をあの屋敷に置いていこうと?」
すっかり炎の消えた家を前に、紅子は躊躇いなく「その方がいいかと思ったので」と答えた。
「野杏はあの屍たちと共に焼かれるべきだと、そう思いました。死者を冒涜した彼女への罰です」
「そうでしたか」
やや面食らった様子で、弥生は頷く。
「それに……きっと、自分の死に顔を彼には見られたくなかったでしょうから」
きゅっと指を握り込んだ彼女は顎を引いた。
***
屋敷を失った紅子たちは、一時的な避難所として近くの宿に泊まることとなった。だが生き残ったクロは体をピクリとも動かせなくなっていたために医療施設で療養することとなった。
「おそらく、故姫の能力で一時的に心肺停止の状態を作り出したんでしょう。レンの目から逃れるために」
そう弥生は言った。なんの感情もその瞳にはなかったが、吐露する彼はそう見えるように務めているように見えた。
当初太陽家に戻ってみると申し出た紅子だったが、弥生がそれを引き止めた。
「今は戻らなくていいです」
そう言った彼は一枚の紙を取り出した。
『紅子さんたちが屋敷を抜け出したことはもう太陽夫妻に伝えております。誤魔化せないと私が勝手に判断しました。僭越ながら私に考えがございます。明日の夕刻鐘が鳴る頃、能力を使ってお二人でこちらにいらしてくださいますよう』
未だ太陽家に残っている春の宮からの手紙だった。彼は不信感を露にした目を細めて苦く息を吐く。
「ここは祭神の君に話を合わせるしかないでしょう」
──そう不満げに漏らしていたのだが。
「あの……ご機嫌、ですね?」
弥生は彼女の紅い髪を手で掬ってはその唇に笑みを滲ませていた。一方の紅子はといえばその頬を果実のように真っ赤に染めている。
ひとまず宿の部屋に荷をおろした二人は、夕餉の時までをその部屋で過ごすこととなる。腰を下ろした弥生が彼女を手招き、その膝に紅子を乗せた。
「そりゃ、機嫌もよくなるでしょう」
梳いた髪を自身の指に絡め口づけを落とした彼は妖しい光を宿した瞳を細め、
「久々に君をこの腕に閉じ込められるんですから」
飾らない弥生の言葉に、紅子は耳までその赤を広げる。
秒針を刻む音が聞こえる中、どちらともなく目を薄く閉じた。
コンコン、と木の戸を叩く音のすぐ後に、「ご夕食の用意ができました」と扉のすぐ後ろ側から声がかけられた。
触れる寸前まで近づいた距離のまま、二人は固まる。紅子はそっと手を間に差し入れ、
「用意ができたそうです。いきましょ」
とその場を誤魔化すように明るく早口で言った。
納得いかないと物語る目を無視し、紅子はさっさと戸の方へ向かう。
「……仕方ありませんね」
弥生が漏らした呟きにほっと息をついた紅子だったが、油断した隙にその肩を引かれて強引に振り向かされる。
見開いた視界いっぱいに長いまつ毛ときめ細やかな肌が映り、唇に柔らかく温かいものが触れた。
目を潤しながら肩を震わせる紅子に、弥生は意地悪く目を細めた。
「今はこれだけで我慢するとしましょう」
そのまま平然とした態度で戸を開き、紅子より一回り大きな手を差し出した。
紅子は物言いたげな目で弥生を睨みつつも、少しだけ体温の低い彼の手のひらに自分のそれを重ね、そっと指を絡ませた。
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