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第七章《秋桐家と龍の加護》
【一】
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紅子たちに伝令が伝わる少し前、秋桐の屋敷の縁側では一人の男がぼんやりと空を眺めていた。
さらりとした黒髪を風に遊ばれるのも気にせず、されるがままだ。
そんなにも風情に心を置いているのかと思いきや、残念なことに脳内では風景のことなど微塵も考えてなどいなかった。
頭に浮かぶのは、最後に触れることができないまま別れてしまった彼女のこと。今もふとした瞬間に彼女の笑顔、少し拗ねた表情、どこか怯えた表情、口づけたときの甘い表情。今までに見たことのある表情たちが彼の脳内で存在を主張する。なかには現実とは多少異なるものもあるが、人間の脳とはそういうことに対し都合よく創られているものである。
彼女が屋敷を離れて、既に一ヶ月が過ぎようとしていた。
ようやく折り返しに入ったというのに、想いは積もりに積もって、彼女の幻影が目の前に見えてしまいそうだ。
当初は仲が悪くならない程度で良いと考えていたというのに、とんだ思考の変化だと自分に対して苦笑する。
紅子との出会いは二年ほど前。
誰か良い人を見つけると銘打って、弥生は元々話が持ち上がっていた縁談の相手の宿を訪ねたのだ。
けれど万が一にでも正体がバレたら困るので、当時少しだけ伸びていた髪を束ねるといったあまり本格的ではない変装はしていた。
彼女はよく働く人で、誰に対しても物腰柔らかく見目も決して悪いわけじゃない。むしろ良い方だと思うのだが、どうして見目が悪いだなんて言われているのか。
疑問を持ちつつ、彼女を観察する日が続いた。
そして、その疑問が解けたのは縁談が決行された日だった。
二度目の対面の日、彼女は美しい佇まいでその場にいた。と言えば聞こえはいいが、実際はその場で着飾って大人しくすることを強いられている状況だった。
板についた諦めの表情と、垣間見せたなにかに対する憤り。本心をひた隠すために俯くその仕草に、庇護欲を掻き立てられた。
自分一人で立とうと懸命にもがくその姿勢が、愚かにも思えた。けれどそれ以上に眩しく思えた。
折れてしまえば簡単なのに、死ぬわけでもないのに、彼女は周りに頼ることを好まなかった。一人で突っ走って、誰かの分まで背負おうとする。本人にその気は無いのかもしれないが、無意識に自分を疎かに、逆に他人を重んじる部分があった。
自分ありきの人生だろうに、なんて言葉をかけても彼女に響くことは無いだろう。考え方が根本的に違うのだから。
違うから、知りたくなるのやもしれない。その表情の裏でなにを考えているのか。まだ心には別の男が居着いているのか。
想い人のことを考えていたら、もう既に辺りは真っ赤な日に照らされる時刻になっていた。
──今日もこなかったか。
と立ち上がった時だ。
「ご主人様、こちらにいらしたのですね」
と少し高い声に呼び止められる。
ぴたりと動きを止め、声の主を振り返らずに笑みを浮かべる。
「……どうして、あなただけがここに居るのでしょうか」
「火急の用でお暇を頂いたのです。その際言伝も賜っております」
と軽く跳ねた息を長く吐き出し、女は呼吸を整える。
「若奥様からは、『お元気にしていらっしゃいますでしょうか。私は最近ようやく起きたら屋敷の天井ではないことに驚かなくなりました。それほどまでに、貴方様と一緒にいた時間を恋しく思ってしまうのです。直接は語れないと思いますので、こうして事を伝えて頂きました』……だそうです。若奥様は、とても純真で愛らしい方でいらっしゃいますよね。私、あの方がとても好きですわ」
ふふっと笑った女──紅子の専任女中であるノアは、その瞳を優しく細めた。
弥生は緩慢な仕草で振り返り、常時貼り付いている笑顔で言う。
「……では、彼女が悲しむであろう選択をしないで頂けるということなのでしょうか」
「あら、それはどういうことでしょう?」
「あくまでも、知らぬ存ぜぬで通す気ですか。私の前では演技の意味が無いのでは?」
二人の間につかの間の静寂が落ちたかと思うと、ノアの口から大きなため息が長々と吐き出された。
「……もう、その喋り方やめてくださいませんか?次男様。その喋り方とその貼り付けたような笑顔を見る度、腸が煮えて溶けてしまいそうな心地になるの」
敬語をやめた野杏は、後ろで丸く束ねていた髪を解いた。
真っ黒な髪が夕暮れの陽を浴びて火の色になる。かすかに縮れた髪を指先で弄りながら、野杏は表情を歪めた。
「それで?屋敷の人間を全員別の場所へ匿った理由を聞かせてくださるのかしら。こんなにもわざとらしい見え透いた罠に、敵が喜んで飛び込んでくるとでも?」
馬鹿にしたような物言いにも眉一つ動かさず、彼は相変わらずの呑気な表情で彼女の目を見返す。
「ええ、喜んで飛びついてくると思いましたよ。そしてそれは、どうやら大当たりだったようですね」
眼鏡の奥の瞳を光らせ、彼は野杏に言い放った。
「そうだろう?秋桐の裏切り者……いや、神話の力を受け継ぎし、故姫様?」
さらりとした黒髪を風に遊ばれるのも気にせず、されるがままだ。
そんなにも風情に心を置いているのかと思いきや、残念なことに脳内では風景のことなど微塵も考えてなどいなかった。
頭に浮かぶのは、最後に触れることができないまま別れてしまった彼女のこと。今もふとした瞬間に彼女の笑顔、少し拗ねた表情、どこか怯えた表情、口づけたときの甘い表情。今までに見たことのある表情たちが彼の脳内で存在を主張する。なかには現実とは多少異なるものもあるが、人間の脳とはそういうことに対し都合よく創られているものである。
彼女が屋敷を離れて、既に一ヶ月が過ぎようとしていた。
ようやく折り返しに入ったというのに、想いは積もりに積もって、彼女の幻影が目の前に見えてしまいそうだ。
当初は仲が悪くならない程度で良いと考えていたというのに、とんだ思考の変化だと自分に対して苦笑する。
紅子との出会いは二年ほど前。
誰か良い人を見つけると銘打って、弥生は元々話が持ち上がっていた縁談の相手の宿を訪ねたのだ。
けれど万が一にでも正体がバレたら困るので、当時少しだけ伸びていた髪を束ねるといったあまり本格的ではない変装はしていた。
彼女はよく働く人で、誰に対しても物腰柔らかく見目も決して悪いわけじゃない。むしろ良い方だと思うのだが、どうして見目が悪いだなんて言われているのか。
疑問を持ちつつ、彼女を観察する日が続いた。
そして、その疑問が解けたのは縁談が決行された日だった。
二度目の対面の日、彼女は美しい佇まいでその場にいた。と言えば聞こえはいいが、実際はその場で着飾って大人しくすることを強いられている状況だった。
板についた諦めの表情と、垣間見せたなにかに対する憤り。本心をひた隠すために俯くその仕草に、庇護欲を掻き立てられた。
自分一人で立とうと懸命にもがくその姿勢が、愚かにも思えた。けれどそれ以上に眩しく思えた。
折れてしまえば簡単なのに、死ぬわけでもないのに、彼女は周りに頼ることを好まなかった。一人で突っ走って、誰かの分まで背負おうとする。本人にその気は無いのかもしれないが、無意識に自分を疎かに、逆に他人を重んじる部分があった。
自分ありきの人生だろうに、なんて言葉をかけても彼女に響くことは無いだろう。考え方が根本的に違うのだから。
違うから、知りたくなるのやもしれない。その表情の裏でなにを考えているのか。まだ心には別の男が居着いているのか。
想い人のことを考えていたら、もう既に辺りは真っ赤な日に照らされる時刻になっていた。
──今日もこなかったか。
と立ち上がった時だ。
「ご主人様、こちらにいらしたのですね」
と少し高い声に呼び止められる。
ぴたりと動きを止め、声の主を振り返らずに笑みを浮かべる。
「……どうして、あなただけがここに居るのでしょうか」
「火急の用でお暇を頂いたのです。その際言伝も賜っております」
と軽く跳ねた息を長く吐き出し、女は呼吸を整える。
「若奥様からは、『お元気にしていらっしゃいますでしょうか。私は最近ようやく起きたら屋敷の天井ではないことに驚かなくなりました。それほどまでに、貴方様と一緒にいた時間を恋しく思ってしまうのです。直接は語れないと思いますので、こうして事を伝えて頂きました』……だそうです。若奥様は、とても純真で愛らしい方でいらっしゃいますよね。私、あの方がとても好きですわ」
ふふっと笑った女──紅子の専任女中であるノアは、その瞳を優しく細めた。
弥生は緩慢な仕草で振り返り、常時貼り付いている笑顔で言う。
「……では、彼女が悲しむであろう選択をしないで頂けるということなのでしょうか」
「あら、それはどういうことでしょう?」
「あくまでも、知らぬ存ぜぬで通す気ですか。私の前では演技の意味が無いのでは?」
二人の間につかの間の静寂が落ちたかと思うと、ノアの口から大きなため息が長々と吐き出された。
「……もう、その喋り方やめてくださいませんか?次男様。その喋り方とその貼り付けたような笑顔を見る度、腸が煮えて溶けてしまいそうな心地になるの」
敬語をやめた野杏は、後ろで丸く束ねていた髪を解いた。
真っ黒な髪が夕暮れの陽を浴びて火の色になる。かすかに縮れた髪を指先で弄りながら、野杏は表情を歪めた。
「それで?屋敷の人間を全員別の場所へ匿った理由を聞かせてくださるのかしら。こんなにもわざとらしい見え透いた罠に、敵が喜んで飛び込んでくるとでも?」
馬鹿にしたような物言いにも眉一つ動かさず、彼は相変わらずの呑気な表情で彼女の目を見返す。
「ええ、喜んで飛びついてくると思いましたよ。そしてそれは、どうやら大当たりだったようですね」
眼鏡の奥の瞳を光らせ、彼は野杏に言い放った。
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